兄、大空へ······
ゆうゆうが発達に凸凹があることが分かってから、兄が自身もそうなのだと告白してくれました。
兄が最初に診断されたのは、20代のころ、
本人曰く「ギフテッド」と診断されたのだと言います。
最初は、びっくりしましたが、
ギフテッドかどうかは、素人目には分かりませんでしたが、発達障害という点で考えてみれば、合点がいく事が、たくさんありました。
2年前の診断では、「自閉症スペクトラム障害」は付いたものの、「ギフテッド」の診断はなくなっていました。
「ギフテッド」と「自閉症スペクトラム障害」は、類似した特性はありますが、起こる背景は違うという文献を見たことがあります。
診断を受けた2年前には、内服薬や疾患の加減で、判断力やそもそもの能力が落ちてしまっていたので、「ギフテッド」を証明することは、できなくなっていました。
当時の診断が正しければ、「ギフテッド」ど「自閉症スペクトラム障害」の特性を併せ持った状況なのでしょう。
兄は優等生、美麗は劣等生······
兄は、幼い頃から、大人しく、母の言う事をしっかり聞き、文武両道の子でした。
一方私は、母の言う事を度々破っては、叱られ、言い訳や反抗をする子でした。
学校でも、問題を起こしては、両親が呼び出されるので、母の苦労や心配は大きかったと思います。
母からは、兄は手の掛からない良い子。私は問題児だったのでしょう。
私達が小さな頃は、発達障害に対する知識を持つ人などほとんどいない時代です。
兄は、常識を重んじる母の顔色を見ながら、精一杯頑張ってきたのだろうと思います。
真面目な兄は、クラスでも地味で目立たないタイプだったとか。
先生には、手の掛からない、大人しいが真面目な生徒だったようです。
後に兄から聞いたところ、いじめを受けていたとのこと、晩年になってもこの頃の色々なトラウマや自己肯定感の低さは、人生の弊害になったことと思います。
高校受験では、私立に進学しました。
廃部寸前の写真部で兄と顧問の先生だけという環境から、部長として頑張りました。
運動ができ容姿にも恵まれた兄は、そこそこモテたようです。
晩年聞きましたが、運動ができても運動部に入らなかったのは、大勢いるところがしんどかったのだとか。
不登校になったみーと被るところがあります。
真面目なのに長続きしない仕事·····
高校卒業後は、大学には進まず、俳優→プログラマー→漫画家と夢を追ってフリーターを続けました。
今考えれば、その頃から、真面目の仮面を外して、別の自分になりたかったのではないかと私は思います。
どこでどのような挫折を感じたのか、分かりませんが、本当に色々試していたように私の目には映りました。
三十代に入り、夢に区切りをつけ、正社員で働く様になりました。
特に長く続いたのは、旅行会社の添乗員とプロカメラマンです。
しかし、父の他界を機に、徐々に精神状態が悪化し、継続的に働けないようになりました。
兄は色々な仕事をそつなく熟せるタイプで、職場では、最初、とても好感を持たれますが、融通が利かず、組織の事情を受け入れられないタイプで、長続きできない人でした。
真面目で情に厚い彼は、周囲の態度が変わっていく様を裏切られたと感じたことでしょう。
いつも信用していた上司や先輩の所業に
「あんな人とは思わなかった!!」と言って、絶望の中、辞めてくるといったパターンを繰り返していました。
両親や私には、「堪え性のない奴」で、仕事が長続きしないと見え、呆れていました。
私には、何故、何でも卒なく熟せるのに、すぐ辞めてしまうのか?と腹立たしく映りました。
私は、不器用で褒められないながらも、上を目指してもがいているタイプなので、卒なく熟せる兄は、羨ましかったのに、全く長続きしないことに「甘え」を感じたからなのでしょう。
多くの職種を渡り歩き、自分に合う仕事を探していた兄は、徐々に外で働くことに限界を感じてきました。
人との関わり·····
兄は以前、友人がたくさん居ました。
広く浅くな印象でしたが、本人としては距離感を測れなかったのかもしれません。
兄は、人にとても優しく、正義感や責任感の強い人でした。そして、よく人を敬愛する人でした。
友人の中には、優し過ぎるところやマイノリティーな動向から、騙せそうや甘えられそう、許してくれそうなどの良からぬ思いを持つものも居たようで、晩年、心身が思うように動かなくなってからは、誰とも連絡を取りたがらないようになっていました。
結婚を誓った彼女もいましたが、晩年は、一人でした。
兄は、自分の本心を隠すタイプだったので、兄の気持ちを心底理解してくれる人は居なかったようです。
兄は自分のテリトリーや時間を大切にするタイプなのですが、その割に内心は非常に寂しがりや常に寂しかったのでは無いかと思います。
家族と兄······
高校卒後の兄は、数年アルバイトや専門学校に通いながら、実家ぐらしをしていましたが、昭和世代の両親には、定職に付けず、フラフラして見えたようで、よく言い争うことがありました。
自分の力で生きて欲しいという両親の気持ちは、子を持つようになった私には痛感します。
私は兄を反面教師にして、専門学校卒後はすぐ就職したし、辞めるときも無職の時期が無いように先を見つけてから退職しました。
それは、両親が兄に不安を感じていたのを身近に感じていたからです。
一方、母の顔色を見ながら過ごした少年時代とは打って変わり、両親に反抗するようになった兄は、家でも孤立するようになりました。
今思えば、言葉の裏が理解できない兄には、父や母が愛情から投げかける言葉の真意を汲み取れなかったのでしょう。
最後まで精一杯·····
父の死、彼女との別離、失業により、徐々にアルコールの摂取量が増えた兄は、アルコール依存症に陥りました。
以前より、「鬱病」で治療しており、治らないまま「アルコール依存症」も併発する形となりました。
アルコール依存症も鬱病も、克服することなく時間が経過し、アルコール依存症治療入院を試みました。
入院生活が耐えられず、数年経たずに再発しました。
私は、兄が自暴自棄となっていて、生に執着していないのだと思っていました。
ある日、恐れていたことが起きました。
母「美麗、お兄ちゃんが血を吐いたよ!救急車で病院に向かってる!すぐ来て!!」
「食道静脈瘤破裂」
緊急手術で一命を取り留めましたが、医師からは、覚悟しておいて下さいと言われました。
無事、退院してからは、お酒を一滴も飲まなくなりました。
2年後、禁酒をしていたものの、病状は悪化し始め、腹水が貯まるようになりました。
倦怠感が強いようで、病院へもなかなか行けなくなり、病状は悪化の一途を辿りました。
精神科の先生の勧めで、消化器科専門の診療所を母と受診し、すぐに大きい病院へ行くよう言われました。
受診した病院で検査後、腹水を抜く治療を始めました。これは、完治を目指した治療では無く、緩和治療です。
私は職種上、そのことを良く知っています。
完治を目指すなら、肝移植しかなく、兄には、そんな体力も時間も残っていませんでした。
病院からは、身体が思うように動かず、治療に前向きでない印象を持たれたようですが、元来真面目な性格なので、兄なりに一生懸命でした。
「美麗、何とか治したいねん!」この病状になって、私も母も兄が精一杯頑張っているのだと気付いたのです。
漢方薬や食事療法、本人が納得できるものを試しました。
治らなくても、1日も長く生きるために足掻く。
それが、家族の目標でした。
3度目の入院中、兄からLINEが来ました。
「ごめん、甘えてもいいかな。きてほしいねん」
コロナの影響で面会が全面禁止されていた病棟の詰所に私は行きました。
「兄の様子がおかしいので、一度、話させて欲しい」
無理を知って頼み込みました。
副師長の許可を得て、面会した兄は、明らかに憔悴していました。
兄には、病棟での扱いが耐え難かったとのことで、一刻も早く帰りたいと言うのです。
病棟でのいじめが存在していることは、他患からも多く聞いていましたが、兄も肝性脳症の症状が出始めており、定かではありません。
しかし、他の病棟では、このようなことは無かったのにこたらの病棟では、前回も兄がしんどそうだったので、看護副部長や主治医とも話して、退院させました。
敗血症の状態が完治しておらず、歩行も不安定な状態での退院でした。
主治医は、治療を拒否したかのように言いました。
しかし、兄が、自身を押し殺してまで、病棟で我慢しながら死んでいくことは、間違っていると私は思います。
退院時、兄は私に「ありがとう!ありがとう!」と何度も言いました。
退院してから、母と兄の生活が始まりました。
「早く治すからな!お母さん、大丈夫や!!」兄は毎日、笑顔でそう言いました。
成人してからは、反りが合わず、喧嘩ばかりしてきた二人ですが、兄が母に何度も「ありがとう!」という姿をみました。
数日後、低血糖と敗血症症状等で、救急車で再び病院へ向かいました。
もう言葉も発せない中、私の手をしっかり握り、大丈夫や!と言ってくれる兄に心を打たれました。
2日後、息を引き取るその時まで、必死で、生きようとする姿は、私と母の心に焼き付きました。
兄は、自身の特性に苦しみながら、必死に生きました。私もまた、生きづらさと必死に戦う者の一人です。そして、私の子ども達もこれから、まさに立ち向かっていきます。
私や兄の生きてきた時代は、理解のなさや多様性を認めない時代です。
どうか、子ども達の時代が彼らに少しでも優しい時代となることを願います。