命の輝き | 本当のこと。 ダンマ・ディンニャ(木村里恵)

本当のこと。 ダンマ・ディンニャ(木村里恵)

「あなたはどんな時も最高に輝いている」ことをお伝えするためのブログ。「一人ひとりが自分を許し、本来の自分になることで、世界中が平和になる。」と信じて、「出産に向けて想いを馳せる女性」を対象にした合宿やセミナーを行っている。

命の輝き 2014

~私たちはどんな時も最高に輝いている~

 

木村里恵

 

はじめに

 

「私たちはどんな時も最高に輝いている。」

 

出産や色々な経験を通して、いつしかそう思うようになりました。

 

生きていると楽しい時や、悲しい時、歓びの時や苦しみの時、色んな感情を経験します。

 

何かに感謝したり、感動したり、情熱を燃やしたり。

 

時には立ち直れないのではないかという出来事にぶち当たったり、

人と自分を比べて落ち込んだり。

 

そんな良い時間も、嫌な時間も、好きな自分も嫌いな自分も、あるかもしれない。

 

でも、どんな時もあなたは最高に輝いている。

 

この小冊子を通して、少しでもそのことをお伝えすることができたら…

そう願っております。 

 

私を最初に母にしてくれた勇気ある音々ねねへ 感謝を込めて。

 

 

 

 

1章 「生きているだけで最高なんだ」

 

音々が生まれて来た日のお話です。

陣痛って知っていますか?

赤ちゃんが生まれて来る時にお母さんが感じるおなかの痛みです。

お母さんは、おなかがぎゅーって痛くなって、休んで、またぎゅーって痛くなって、休んで

っていうことを繰り返しておなかの赤ちゃんをこの世に産み落とします。

 

最初からものすごく痛いわけではありません。

初めはおなかが張るなぁというような感覚のものが、最後は想像を超える感覚に変わっていきます。

 

妊娠前、あるお母さんが私にこう言いました。

「出産は寄せては返す波のよう。その波に乗るのよ。痛みに抵抗しちゃだめ。」

 

海好きの私は、その波に乗る日を心待ちにしていました。

 

陣痛がくると旦那がビデオを回し始めました。

「はい、新しいお母さん、生まれて来る子に何かメッセージをどうそ。」

 

私は痛みを受け入れて~受け入れて~としながら、背筋を伸ばし、

「今、痛みを感じています。あなたに会えることを楽しみにしていますよ。」

と笑顔を作ってビデオに映っていました。

 

けれど陣痛はどんどんどんどん強くなっていきます。

子どもの頃、出産はすごく痛くて、大変なんだよ、と聞いていました。

 

障子の桟が曲がって見えたら生まれるとか、鼻からスイカを産む感じだとか…(笑)。

 

だから、私も、相当の覚悟はしていたつもりでした。

自分が想像できる最高潮の波を想像していました。

でも、本物の波は、その想像を楽々と超えていきます。

想像をはるかに超える痛みの波が来て、また休み、今度はもっとすごいのが来る。

 

次はもっともっとすごい。

 

だから、え、まだ行くの?どこまで行くの?ってまさに未知の世界なんです。

 

理想通りになんてやってられない。

顔はゆがんで、今にも泣き出しそう。

 

声を出したら少しは楽になるかなって声を出すのだけれど、

旦那が目の前にいるから初めは遠慮がちにやっていたのが、

もう最後あれは大声とかいうレベルじゃない。

 

雄叫びですね。

狼が夜空に向かって吠えているみたいな感じ。

 

「あ、ぁあああああああああ~~~!」って。

 

自分でもこんな自分は知らないって思いました。

 

すると旦那も

「シシシッシシシシシ~~!!!!」

って一緒になって気合を入れる。

 

こんな旦那も見たことがない。

 

旦那は何もしていないわけなのですが、

そのくらいの気合を入れていないと意識がぶっ飛んじゃうんじゃないかっていうくらい

私の迫力がすごかったそうです。

 

弛緩が来て、「はーはー、はーはー。」って私が息を整えていると、

「がんばれ!がんばれ!!!がんばれ!!!!!」ってすごい声援。

 

そしてまた収縮の波に私が「ぁああああああ~~~~~!!!」とやると

彼が「シシッシシシシッシシーーーーー!!!」とやるわけです。

 

その繰り返し。

 

私は、そんなことをしながら、こんなことを世界中のお母さんがしてるのか?!

という想いでいっぱいでした。

 

独身時代、自転車でインドを横断したり、

カンボジアのスラム街のサポートをしたり、

それまでの自分の人生が好きでした。

 

お母さんって誰でも簡単になれるものだと思っていました。

 

だって、お母さんはそこら中にいて、

みんながしていることだから。

 

でも、出産というこの体験は、私のそれまでのどの経験よりも衝撃的で、

どの経験も比べ物にならないくらい命がけの真剣勝負でした。

 

こんなことを、お母さんも、あの奥さんも、

あの近所のおばさんも、みんなしたのか!

 

今まで「ただのおばさん」だった一人一人のみんなが、

とてつもなくすごい人に感じられました。

 

 

陣痛の波がいよいよ最期を迎えたのか、

突然身体中から突き上げて来るようないきみが沸き起こりました。

 

 

自分ではコントロールもできない

 

宇宙のエネルギーが身体に吸い込まれて、

 

私の産道からこの子を産み落とそうとする

 

大きな大きな力。

 

 

足は勝手に開き、

ぐぅうううっと今まで入れたことのない力で地面を踏みしめ、

踏ん張りました。

 

私は足を開こうとか、踏ん張ろうとかしていないのです。

 

もちろんこの子を産み落とそうとも。

 

けれどそれは、私の力ではない所で、私の力として、全身を支配しました。

 

最後、この子の頭が出口の所まで来ているっていうのが自分でもわかって、

次のいきみで、出た!というのがわかりました。

 

出た!と思って、そしたら「ふぎゃふぎゃ」って聞いたこともない声がしたんです。

しゃべってる!と思って股の間を見たら、

 

赤ん坊はいないんです。

 

いない?!と思って、よぉく見たら、

私の足と足の間に黒い髪の生えた頭だけが見えました。

 

そう、身体はまだ私の身体の中。

 

手足は私の身体の中で、

頭だけ私の身体の外に出して、

ふぎゃふぎゃって音々はお話したわけです。

 

 

 

想像してみて下さい。

 

 

 

一人の人間の身体の中に、

全く別の人間が丸ごと入っていて、

頭だけ外に出して、

 

ふぎゃふぎゃっとやっているわけです。

 

喜劇ですよね。奇跡ですよね。

 

皆さんはこれ以上の奇跡を見たことがありますか?

信じられないような高い山に登ったり、

死にそうだと思われていた方の病気が治ったり、

この世には沢山の奇跡的な出来事があります。

 

けれど、

 

一人が、二人になる。

 

これ以上の奇跡を見たことはない!

と思いました。

 

次のいきみで出て来た音々を抱いた瞬間に、

私は母になったのかもしれません。

 

産んでいる時の、「お母さんってすごい!」という想いが、

生まれて来たこの子を抱いた瞬間に

 

「良く生まれて来たね。」

 

という想いに変わりました。

 

 

この子が、どれだけの覚悟をして、

どれだけの想いをして、

この世にやって来てくれたのか、

 

それがどれほど強い確かな想いだったのか。

 

そのことを抱いた瞬間に知ったのです。

 

 

この子を抱きながら、

私は世界中の人たちに向けて拍手をしていました。

 

 

あの子も、

この子も、

あのおじさんもおばさんも、

あのおばあちゃんも、

おじいちゃんも、

地球の裏側に住むまだ見ぬあの人も、

 

その一人一人の顔が浮かんでくるように、

全ての人に拍手をしていました。

 

 

みんな、みんな、

今まで生きていた、

今生きている命、

 

ひとつ残らずこうやって生まれて来たんだ。

 

生まれただけですごいんだ!

生きているだけですごいんだ!

 

生まれただけで最高なんだ!

生きているだけで最高なんだ!

 

 

身体中が命への感嘆の声をあげていました。

 

命はこんなにも素晴らしくて、神秘的で、

それでいて現実的で、生々しくて、力強い。

 

 

 

私たちは生きている

 

その命への祝福と歓びの存在であることを知りました。

 

 

 

 

 

2章 「ただ、生きることが嬉しくて、生きたくて、この世にやって来た」

 

 

生まれて来た音々を抱いて、布団に移動し、

私は仰向けに寝て、

おなかの所に音々をうつ伏せに置きました。

 

 

生まれたばかりの赤ちゃんって、頭だけ大きくて、手足はまだしわしわで細いです。

 

 

だから、自分の頭を自分で支えられない。

 

するろ

その支えられない頭を、

私のおなかに擦りつけながら、

自分の顔をぐしゃぐしゃにして

音々が少しずつ、少しずつ、

 

登って来るのです。

 

 

細い手足を震わせて、

 

音々の全ての力を使って、

 

少しずつ、

 

少しずつ、

 

登って来る。

 

 

それはそれは苦しそうです。

 

 

この子を置いた場所からおっぱいまで15センチ、20センチくらいです。

 

わたしが手で抱え上げてぽいっと移動してあげれば

すぐにおっぱいのところに到達することができます。

 

でもそうしてやらなかった。

 

そうしてやることができなかった。

 

その苦しみながらも前進する音々の姿があまりに美しくて

手出しをすることができませんでした。

 

心の中でただただ

「がんばれ がんばれ」

と祈りながら音々を見つめていました。

 

音々は何分も何分もかけて、

ただひたすらに自分の力で登って来ました。

 

 

それを見た時に、

 

「これが命だ。」

 

と思いました。

 

 

その音々の姿は、

確かに私の目にキラキラと輝いて見えました。

 

 

「これが命の輝きなんだ。」

 

 

と思いました。

 

そして、その輝きは、

私たちが生きている間輝かせ続けている

命そのものの純粋な輝きなのだ

と気が付きました。

 

私たちは、生きていることに慣れ過ぎて、

命が本当はどんな時も輝いているという事実を見失います。

 

生きているだけでは不十分な気がして、

もっと何かしなくてはならないことがあるような気になります。

 

生きている、ただこの命を輝かせている

 

という純粋な歓びが

当り前に感じられて、

 

そこに歓びを見つけることができにくくなるのかもしれません。

 

 

けれど、私たちは、今、

確かに生きていて、

この一瞬一瞬、

命を輝かせているのです。

 

 

そうして登って来た音々は、

やっと、やっと、乳首の所まで来て、

鼻先でそれを確認すると、

最後の力を振りしぼって、

 

パクっ

 

と咥えました。

 

 

そして、吸い始めました。

 

生まれて20分くらいの赤ん坊です。

 

どこにおっぱいがあるのかとか、

どうやって吸うのかとか、

 

誰も教えていません。

 

 

でも、自分の力で登って来て、

こうやって吸うんです。

 

 

生まれる前から、

生まれたら、

生きるためにお母さんのおっぱいを吸いつくように、

私たちはできています。

 

生きる全てを与えられて

 

 

「生きたい。生きるんだ。」

 

 

とその想いと共に

この世に生まれ落ちるのです。

 

 

「生きよう。」

 

 

そのただ純粋に前向きな想いを持って生まれた私たち。

 

 

私たちは、生きるために生まれて来た。

 

 

音々が年頃になって、私と喧嘩をして、

「お母さんに産んでなんて頼んでない。勝手に産んだんでしょ?」

なんて言った時には、きちんと伝えようと思っています。

 

 

「あなたは、

 

 生まれたい、生まれたいと言って、

 

 生きたい、生きたいと言って、

 

 生まれて来たんだよ。

 

 

 そして、あなたが今ここにいるということは、

 

 あなたが生まれて来たその時から、

 

 今も、

 

 あなたのその想いを支えてくれる全てのものに

 

 愛されている証拠なのだよ。」

 

 

と。

 

 

 

 

3章 「ここまで来たあなたへ」

 

音々がこの世にやって来てくれてから、もうすぐ7年が経ち、

今は弟や妹の面倒を見てくれるほど大きくなりました。

 

最初はただ上を向いて寝ているだけだったのです。

それが物を取ろうとするようになり、寝返りの練習を始めます。

 

寝返りができそうになると、

一日中そればかり練習していました。

 

何日も何日も何回も何回も失敗して、

ついにできた時には、

 

「できたぁ。」

 

ととても誇らしげに笑いました。

 

 

初めて一人で座ることができた時もそうでした。

嬉しそうにやっぱり誇らしげに笑いました。

 

それを見た時に、

「人は、生まれながらにして、挑戦してはそれを超えてゆくことができるようにできているんだ。

 そしてそのことの喜びを感じるようにできているんだ。」

と思いました。

 

 

音々が1歳半くらいだった時のことです。

まだよちよち歩きの音々が階段を上ろうとしています。

私はいつものように音々の手を取って、一緒に歩いてやろうとしました。

 

すると、昨日まで当り前のように繋いでくれとせがんで来たその手を、

音々がいらないと振りほどくのです。

 

こんな日が来るのか、とおそるおそるその手を放し、

音々のことを見つめていました。

 

音々は小さな足を大きな段差に一歩ずつ踏み出して、上っていきます。

 

一歩、

また一歩。

 

そして次の一歩を出した時に、音々の身体がバランスを崩して、

ひっくり返るように倒れ、そのままぐるんぐるんと横向きに階段を転がり落ちてきました。

 

慌てて駆け寄って抱きしめた音々は、

私の腕の中で顔に擦り傷を作りながらわんわんと泣きました。

 

こんな小さな子に、こんな痛い目を合わせてしまったと

「ごめんね、ごめんね。」

と何度も謝りながら音々をだっこしていました。

 

しばらくはおとなしく私に抱かれていた音々が、

それから30分後、

「降りる」と言うのです。

 

そっと降ろしてやると、

音々はまたさっきと同じ階段を上り始めました。

 

一歩、また一歩。

そして、今度は、遂に、最後まで一人で上りきりました。

 

私たちは今、様々なことができるようになっていると思います。

 

それは、ある日突然、できるようになったわけではありません。

 

あなたが、できるようになった、

その一つ、一つは、

あなたが、何度も、何度も失敗して、

それでも何度も何度も挑戦し続け、

決して諦めなかったその結果です。

 

この世に生まれて来ると覚悟を決めて生まれて来たこと、

そしてここまでの人生、

たくさんの挑戦と、失敗を繰り返し、

今の自分があることを

もう一度思い出せたらと思います。

 

 

 

4章 「命は愛」

 

以前、岡崎にある吉村医院という産院で婦長を務めていた岡野眞規代さんの話の中で、

無脳症の子とその子を宿したお母さんの話を聞いたことがありました。

 

あるお母さんが妊娠をして、産院に通っていると、

もっと他の大きな病院で見て貰うようにと言われたそうです。

 

大きな病院で、そのお母さんは、おなかの赤ちゃんが無脳症の子であることを伝えられました。

 

無脳症の赤ちゃんは、先天的に脳がない赤ちゃんです。

 

だから、お母さんのおなかの中では胎盤から栄養を貰って、大きく育つことができたとしても、

お母さんのお腹の中から外に生まれて来た瞬間に、臍の緒は退化して行きます。

 

すると、赤ちゃんは脳がないので、自分で上手に呼吸することもできず、

生まれた時から成長することなく死に向かっていくということが初めから決まっています。

 

「残念ですが、おなかの子は生まれて来ても生きることができません。本当に残念ですが、今回は諦めましょう。」

 

そう先生に告げられたそうです。

 

お母さんは、家に帰って、よく、よく考えたそうです。

 

「先生が言っていることはわかる。でも、この子は、今、確かにおなかの中で生きている。」

 

そう思ったお母さんは、先生に伝えました。

 

「産みたいです。」

 

と。

 

「非常に残念だけれど、この病院ではできません。」

 

それが病院の答えでした。

 

お母さんは、色んな病院に出掛け、気持ちを伝えました。

でもどこの産院に行っても返事は同じでした。

 

そんなお母さんが吉村医院の吉村先生と出逢ったそうです。

 

 

「この子を産みたいのです。」

 

 

吉村先生に、願いを伝えました。

 

 

「あんたは偉い。わしの所で産みなさい。」

 

吉村先生はそうおっしゃってくれたそうです。

「この子の命を守りたい。」そう願ったお母さんと、吉村先生が出逢うことで、

十月十日おなかの中で大きくなった赤ちゃんは、この世にやって来ました。

 

お母さんが生まれたばかりの真っ赤な顔をした赤ちゃんを抱く写真を、見せて貰いました。

 

その赤ちゃんは脳がないので、後頭部が凹んでいます。

お母さんは、赤ちゃんを満面の笑みで嬉しそうに抱いていました。

 

女の子はこの世で12時間生きて、そして死んで行ったそうです。

 

その12時間を、お母さんのおなかの中にいた十月十日を、

意味がなかったと、言える人は一人もいないと思います。

 

彼女は、おなかの中で育まれました。

 

そしてお母さんに会いました。

 

お父さんに会いました。

 

お姉ちゃんに会いました。

 

そして、たくさんたくさん抱いて貰いました。

 

それは、短くても、幸せな人生だったと思います。

 

その子は自分の人生を生き、

その子の命はいつまでもその家族の、

私たちの心の中に生き続けます。

 

 

この子は、12時間生きるという選択をして、お母さんを選んで、

この世にやってきたのだと思いました。

 

 

この赤ちゃんのように、短かった命も、例え、生まれて来ることができなかった命も、

 

ちゃんと繋がっています。

 

私たちの心に、力を与えてくれています。

 

 

命は、与え、与えられる愛なのだと思いました。

 

 

 

 

5章 「私たちは生きているだけでどんな時も最高に輝いている」

 

 

4年前、おばあちゃんが亡くなって、お葬式も終わり、

初めておばあちゃんの仏壇の前に座って、手を合わせた時のことです。

 

目を閉じると、おばあちゃんの映像が一気に流れ込んできました。

 

私を見て、かわいくて仕方ないっていうふうに笑っているおばあちゃん、

気に入らないことがあって大きな声で怒っているおばあちゃん、

お父さんに車椅子を押されて花見をするおばあちゃん、

トイレが上手にできなくなってしまって困っているおばあちゃん・・・

 

色んなおばあちゃんが今、まさに生きているような感覚で

私の中に流れ込んできました。

 

おばあちゃんは、死んでしまっていて、

その身体に今はもう会えません。

 

けれど、おばあちゃんは、確かに私の記憶の中で、実際に生きていました。

 

それは、どれもキラキラと輝いていて、

その命の輝きのすばらしさに、涙が止まりませんでした。

 

笑っているおばあちゃんも、怒っているおばあちゃんも、どれも、これも、同じだけ、

最高にキラキラと輝いていたのです。

 

そこには何の差もありませんでした。

 

怒っているより、笑っている方が良いとか、

悩んでいるより、元気な方が良いとか、

 

そんな違いは全くありませんでした。

 

ただ、一瞬一瞬最高に輝いていたのです。

 

どれも、どの時間も、同じだけ輝いていました。

 

「私たちは生きている。」

 

生きている、そのことがこの上なく素晴らしいことなんだ。

 

その素晴らしさを、今この一瞬一瞬輝かせている命を、

何をしている時でも、どんな自分であっても、最高に楽しもう。

 

自分の命の躍動を、目の前の大切な命の躍動を、

ただ一緒に楽しもう。

 

それが私たちの人生なんだ。

 

それが私たちの命なんだ。

 

私たちはどんな時も変わらずに最高に輝いているのだから。

 

 

 

 

おわりに

 

 

私が今、ここでこうして生きていられること。

そのことにかかわって下さっている全てに、

感謝の気持ちを常に持っていられたら…

 

その想いが、毎日の小さな自分の行動と

 

いつも繋がっていますように。

 

あなたが今、この瞬間、

最高に輝いてるという事実を

感じていますように。

 

あなたが、そこにいてくれること、それこそが、あなたの生きる意味です。

 

あなたが生きていること、それこそが、この地球の「たからもの」です。

 

あなたが生きてくれていることに、世界中の愛を込めて。

 

ありがとう。