駐車して2分歩いただけなのに一番雨の強い時間だったので足元とズボン裾がびしょびしょに💦
スポーツサンダルだったからスニーカーよりはマシだったけど
公園に入ると記念碑があります。
明治34年(1901年)7月14日に建立されました。碑文は初代内閣総理大臣の伊藤博文の筆によるものだそうです。
因みに、ペリーの久里浜上陸は1853年7月14日です。
公園といってもさほど広くはなく、門を入ってすぐにこの記念碑が目に入り、ここが中央。
奥に記念館があります。
こんな天候では他に観覧者はいませんよね😅貸切でした。
入って展示を見始めたら、係の男性がジオラマを見ますか?と5分のジオラマのスイッチを入れてくださいました。
見終わるとまた色々説明してくださいました。
これを見ると、ペリー達が船から久里浜側を見た感覚がわかって良いですね。
右側が浦賀、突き出たところが2週前に訪れた燈明堂、砂浜が久里浜。
2階に資料展示があります。
外国船の来航の様子を伝える記録
日本側の警備を記した出版物
ペルーへのアメリカ大統領の指示書
床に双六があり、これは子供に分かりやすくて楽しいだけでなく、実は大まかな流れがとてもよく纏まっていました。
双六の内容を纏めますね
日本の教科書からではアメリカからはペリーが初めて日本に近づいたように勘違いしてしまいがちですが、7年前にビッドルが上陸と交渉に失敗しています。
・アメリカ大統領の手紙を幕府に渡す任務を任されたペルーは過去の色々な情報を学んで準備しました。
・1852年11月にアメリカを出発。太平洋を渡りアフリカ大陸南端を通り、シンガポール、香港、琉球(沖縄)、小笠原諸島を通って江戸湾(東京湾)へ。当時日本と交渉できる地は長崎と決まっていたが、幕府のある江戸に近い浦賀を目指した。
・1853年7月8日ペリー艦隊4隻が浦賀に出現。浦賀奉行所の役人にフェルモア大統領の手紙を渡したいと交渉して断られ、3日待つ。その3日間にも海図を作るために江戸湾の調査をした。
・1853年7月14日久里浜で手紙を渡すことが決まり、海兵隊員など300人を従えて上陸。
久里浜の応接所で浦賀奉行戸田伊豆守と井戸石見守にフェルモア大統領の手紙を渡す。
手紙には、アメリカが中国へ行く時の中継地点として日本の港を使いたい旨が書いてあった。
・1年後に返事を聞きにくるということでペリーは去る。
・1年後ではなく、1854年2月にペルーが再来。会談予定地の浦賀を過ぎて金沢八景沖まで船を進めた。
日本側は大慌て。江戸に入りたいというペリーをとめてなんとか最終的に横浜に上陸することになった。
横浜で何度も話し合いが持たれる。
・1954年3月31日横浜で「日米和親条約」締結。日本は下田港、函館港を開いて外国船に水や食糧を与えること、外交官を置くことなどを決めた。
こうして日本は開国。このご江戸幕府はなくなり、明治時代に入っていく。外国文化がどんどん入り日本は大きく変わっていく。
どうです?分かりやすいですよね♪
ペリー上陸の絵
黒船を江戸湾に進入させないため、三浦半島には18ヶ所の御台場が置かれ、けいびしていたのは有力な大名でした。大名は陣屋を置き村の支配もしました。主な施設どうしの連絡網である御用道路筋が決められました。
うちの近くの上宮田にも陣屋があったのです。
コンパクトにまとまっていて分かりやすい記念館でした。
出る時に又大雨☔️でびしょびしょに!
外食はやめることにしました。
マンションに着いて着替えてラーメンを食べてあたたまりました