東京湾要塞を構成した砲台のひとつで、江戸時代後期に会津藩により台場が造られた平根山に、明治25年から明治28年にかけて陸軍によって建設されました。
築城当初の姿を良好に残し、近代日本の軍事および築城技術の様相を具体的に理解することができるため、猿島砲台跡と合わせて、近代の軍事施設に関する遺跡としては日本で初めての国史跡の指定を受けました。
この門は柵門。砲台に出入りできる唯一のアクセス道路です。
- 土曜日、日曜日、祝日(12月29日から1月3日はのぞく)
- 10月から2月:9時30分から15時30分(入場は15時まで)
- 3月から9月:9時30分から16時30分(入場は16時まで)
時間のある方はぜひガイドさんによる説明を聞きながらの見学をお勧めします。
休憩所(資料展示がある部屋)で待っていると、一定数が集まるとガイドツアーが始まります。
この当時外敵の侵入手段は艦船で、防御線は富津岬と観音崎を結ぶ線でした。
そのために観音崎砲台に続いて、第一海堡、猿島砲台、富津元洲砲台、走水低砲台が建設されました。
明治20年代にも続き、日本と清国間の緊張が高まった明治20年代中から後半には既存の砲台の背後を守備する砲台も新設されました。その一つが千代ケ崎砲台です。(地図の10)明治25年(1892)から28年にかけて建設されました。
ガイドさんのお話では、房総半島側に少ないのは、水深が低いので敵の大きな艦隊が侵入する可能性が低かったからだということです。
さあ、実際に見学しましょう。
この通路の地面を見ると下水が引かれているのが分かります。
砲台内の各施設は塁道で結ばれています。
こちらは貯水所 雨水を集めて濾過し飲料水などに使っていました。
棲息掩蔽(えんぺい)部 兵員の休憩、寝泊まり、倉庫として使われた部屋
白く漆喰をぬったのは、明かりが無く真っ暗になるので、少しでも明るくさせるためでした。
砲則弾薬庫
砲弾は揚弾井を通って上階に引き揚げられて砲座に運ばれていました。
点燈室
弾火薬庫として使われた部屋に火を持ち込まないよう、この通路側から点燈窓にランプを置いていました。
地下は水っぽいところもあるので滑らない歩きなれた靴が良いと思います。
3つある砲座は地表から6m低いところにあります。
敵の艦隊から見えない位置にしたのですが、逆に敵の艦隊も見えないので観測所が2つ設けられてそこから指示が出るという仕組みになっていました。
この穴は何でしょうか?
当時は電信はありません。この穴、伝声管で観測所からの連絡を聞いたのです!
標高約65メートルの高台に位置します。
東京湾の浦賀水道を一望でき、天気がいい日は房総半島もすぐ近くに見ることができます。
休憩室の横にトイレがあり、バイオトイレとなっていました。
初めてみました!
写真からではよく見えないと思いますが、水を使っていません。そのため、汚水による土壌や水質への影響を最小限に抑えることができます。
人間の排せつ物を微生物の働きによって分解・処理し、農業や園芸用の肥料として活用することができるため、コンポスト(堆肥)トイレとも呼ばれています。
ガイドツアーは約1時間でした。
26度で地下室はひんやりとしていたのに喉が渇きました。休憩室にウォーターサーバーがあり自由に飲めることに気付き、帰りにいただきました。
ガイドさん、道案内、駐車場などにいらっしゃるボランティアさん、みなさんが感じが良く、素晴らしかったです。
1時間の熱心なガイドツアーのおかげで知識が深まり、見学無料。人気が出てきていることが分かります。土日祝日のみですからこれからどんどん混むようになるかも…そうしたら予約必須にするなどシステムが変わるかもしれませんね。
私達はお友達ご夫婦に教えていただき翌日ふらっと行ったのですが、一般公開されてまだ3年とも知らなかったし、ガイドさんが「みなさんサンドイッチマンの取材番組を見ていらしゃったのでしょう」とおっしゃったときに、あーそうなんだと初めて知りました。
ガイドさんはその番組の後で見学者が10倍に増えたと言っていました。それではやりがいありますねと私が言うと、やりがいを通り過ぎてもう大変だ!とお疲れ気味でした💦 友人も、以前はボランティアのおじいちゃんたちが我先にガイドを名乗り出るほど閑散としていた知る人ぞ知る秘境スポットだったんだと言っていました。
横須賀市は一層観光に力を入れ始めています。三浦市は真似しないといけませんが財政が乏しくて無理なんでしょうね💦
↓この動画は分かりやすく、見学した気分になれると思います。よく出来た動画で、ネタバレって感じでこれを見てから行ったら逆につまらないかも…