中川右介 / 編集者、作家
2020年03月10日
東京電力福島第一原発事故から9年。事故対応にあたった原発職員たちの苦闘を描いた映画『Fukushima 50』(若松節朗監督)が公開されている。映画の中の内閣総理大臣は、怒鳴り散らすだけで役に立たない、ある種の「悪役」として登場しているのだが、当の菅直人元首相は自身のブログなどで「よく出来た映画だ」と、意外にもこの映画を好意的に評価している。菅元首相の著書『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』(幻冬舎新書)も担当した編集者・評論家の中川右介さんが、その真意と事故当時の模様を改めて聞いてみた。
■「たしかに、私も大声を出しました」
――3.11の原発事故を扱った映画は、いくつかありますが、事故の様子をこれだけリアルに再現した映画は『Fukushima 50』が初めてだと思います。
菅直人元首相 非常に事故のリアリティがよく出ている映画だと思いました。当時を、まざまざと思い出し、あらためて、あの事故のすさまじさを感じました。よくぞ、あそこで止まってくれた、と思っています。「神の御加護」があったから日本は助かったと、本にも書きましたが、最後の最後は、「御加護」があったとしても、吉田(昌郎)所長をはじめとする現場の皆さんががんばってくれたことが、大きかった。
――映画では、佐野史郎さんが「総理」を演じています。役名は「総理」であって、「菅直人」ではありません。誰が見ても佐野さんが演じているのは「菅さん」なんですけど、なぜか、そうなっていない。これについて若松節朗監督は雑誌「キネマ旬報」のインタビューで、「出てくる政府関係者は、役名を与えず役職名だけにしました。実名を出すことで映画を作ることに支障が出るよりは、という判断です」と語っています。どういう「支障」を想定したのか、忖度したのかは分かりませんが、もし、佐野さんが演じているのが「菅直人」だったとして、抗議されますか。
菅 いやいや、そんなことはしませんよ。周囲の人は、「描き方が戯画的だ」とか色々言ってくれるんですが、そんなに、ひどいとは感じていません。劇映画ですしね。
福島の事故を描いた映画では、『太陽の蓋』もあります。この映画では、私をはじめ政治家が全員が実名で登場します。映画を作る人が、それぞれの判断と責任でやってくれればいいと思います。あまりに事実と違えば、何か言うかもしれませんが。
この映画も、もちろん事実と微妙に違う点はいくつかあります。それについては、私のサイトでも説明してありますので、見ていただければと思います。
たしかに、映画の「総理」は怒鳴っていますが、私もいくつかの場面では大声を出しました。火事場を想像してください。目の前で火が燃えているときは、「それを取ってくれ!」と怒鳴るでしょう。「それをこちらに持ってきてくれませんか」なんて悠長なことは言わない。あの数日間は、そういう場面の連続だったんです。だから、私も何度か、怒鳴っていたと思います。
映画では、「総理」もですが、吉田所長が声を荒げるシーンが何回もありました。その相手は「総理」ではなく、東電本店の緊急時対策室の人(篠井英介演じる、常務・緊急時対策室総務班・小野寺秀樹)です。吉田所長が怒鳴りたくなるのがよくわかり、「そうだ。そうだ」と共感していましたよ。
■「東電の人は、何も具体的なことを答えられなかった」
――東電本店は、そんなにひどかったんですか。
菅 東電本店は、私から見て、情報が届かない、伝わるのが遅い、内容が正確でない、という状況でした。はやりの言葉で言えば、どうもあの会社は、政治家に対して「忖度」する体質なんですね。こういうことは言っていいのかどうかとか勝手に判断して、伝えなかったり、曖昧に伝えたりしている、そんなふうに感じます。そのおかげで最初の5日ほどは、非常に苦労しました。
こちらが知りたいのは、客観的な事実なんです。3月12日早朝に福島までヘリで飛んだのも、見学でも表敬訪問でもなく、状況を知るためでした。
――映画にも描かれていますが、東電本店の緊急対策本部にはモニターが並び、現場とリアルタイムで音声と画像がつながっていました。菅さんは12日早朝に福島まで行きますが、本店へ行けば、吉田所長とも直通電話で話せたと思うのですが。
菅 そのモニターのことも含めて、情報がなかったんです。事故直後から、東電からは武黒(一郎)フェローが官邸に詰めていました。この人はずっと原発関連の部署にいて元副社長でした(映画では、段田安則演じる「竹丸吾郎」)。ところが、何を聞いても、「本店に確認します」となって、しばらくして「分かりません」という返事なわけです。
ベントの問題で言えば、12日午前1時頃に、東電からベントをさせてくれと要望がありました。実は原発事故においては、プラントのオペレーションは事業者、この場合は東電に責任があり、権限もあります。原子力災害対策本部長である総理には、住民の避難の責任があり、ベントをしろとかするなと言う権限はないわけです。民間会社の施設ですから。
ただ、ベントをすれば放射性物質が外部に出るので住民に避難してもらわなければならない。そこで東電は、了解を求めてきて、私は専門家である原子力安全委員会の斑目委員長らとも協議し、それを了解しました。その時点で、「2時間後にはできる」という話でした。決めたのが1時頃でしたので、午前3時にはできるんだなと、考えました。
夜中でしたが、住民には避難してもらうことにしました。その避難の範囲も、半径何キロ以内の人に避難してもらうかなどは、専門家と協議してもらいました。ところが、予定の3時になっても、ベントが始まらない。武黒さんに理由を聞いても、「分かりません」ばかりなんです。遅れているのか、不可能となったのか、それも分からない。遅れているなら、その理由を説明してくれればいいのですが、理由も分からない。そこで、私は現場の責任者に直接会って話すしかないと判断したわけです。
本店のテレビ会議のシステムのことは、15日朝に東電本店へ行ったとき、初めて知りました。なんだ、こうなっていたのか、と思いましたよ。そうと知っていたら現地へ行かなかったかどうかは、何とも言えませんが、本店が現地とテレビ会議でリアルタイムでつながっているというのは、行くか行かないかの判断材料のひとつにはなったと思います。
しかし、私が「現地へ行こうと思う」と言ったとき、東電からは「大手町へ来てくれればテレビ会議のシステムがあります」という説明は何もありませんでした。私としては、現場で何が起きているのか、なぜ午前3時に予定していたはずのベントが5時になってもできないのか、それを知るためには行くしかない、と判断したわけです。
――それで3月12日朝6時14分に首相官邸を出発します。枝野官房長官は、「総理が官邸を留守にするのは政治的に批判される」と、反対だった。実際、当時からこの視察には批判の声も多かったわけですが、それとは別に、ベントが遅れている状態で、もし現地に着いた時に爆発したら、菅さん自身も被爆する可能性があったと思うのですが、そういう危険は考えなかったのですか。
菅 当時は、そういう危険は認識していませんでした。いまでは11日の20時前後にはメルトダウンが始まっていたことが分かっていますが、当時は水位計が壊れていたので、水がなくなっていることが分からなかった。東電の報告からは、メルトダウンしていないという認識でした。
現地へ着くと、東電の武藤副社長が出迎えました。初対面でしたので、名前も顔も知りません。責任者のようなので、「ベントはどうなってますか」と訊くと、何も答えられない。東電の人は、みんな何も具体的なことを答えられないんですよ。
■「私はベントが遅れているから行った」
菅 あとで分かるのですが、武藤副社長は前日のうちに現地に入っていたんですが、現場で指揮をとっているわけではなかった。地元の自治体に説明するためにやって来ていたんです。そういう役割の人で、東電本店からは、現場の指揮をするために役員クラスがひとりも来ていない。そういう状況でした。
現場では吉田所長が指揮をとっていたわけです。では、本店では誰が事故対応の責任者だったのか。これもいまだに、よく分からない。有名な話ですが、清水社長と勝俣会長というトップ2人が旅行中で、事故発生から24時間のあいだ、東京にいませんでした。つまり指揮官なしで、事故対応していたわけです。実際には、常務のひとりが指揮をとっていたようですが、はっきりしません。
というのも、東電は事故が起きてから最初の24時間のテレビ会議の記録を、いまだに公表していないんです。かなりの混乱があり、とても、おもてには出せないということなのでしょう。こういう秘密主義の体質の組織なんです。「分からないから言わないこと」もあれば、「分かっていても伝えないこと」もある。そう感じます。
――着いたのが7時12分で、8時5分に出ていますから、1時間弱、いたことになります。
菅 吉田所長と話したのは30分もなかったかもしれません。ようやく、ちゃんと話せる人と会えた、と思いました。吉田さんは、遅れている理由をちゃんと説明してくれました。映画でも詳しく描かれているように、電源が喪失しているため、ベントも電動ではできず、手動でやらなければならない。その場所の放射線量が高く、ひとりがいられる時間が短い。そのために遅れている――そんな説明でした。
それでも、「決死隊を作ってでもやります」ということだったので、私としては、それ以上、何も言うことはありません。責任者である吉田さんと直接会って話せたのは、その後のさまざまな判断にも役立ち、無駄ではなかったと思っています。
――菅さんが視察に来ることになったので、ベントの作業がストップし、帰ってから再開したので、その時間だけベントが遅れ、被害が拡大したという説が、当時から広まっています。
菅 私の感覚では、「行ったから遅れた」のではなく、「遅れているから行った」わけです。遅れた理由は、作業そのものが困難だったこと、住民の避難が終わっていなかったことなど、いくつも重なっていたと思います。私が帰るまで待っていたので遅れたという認識は、私にはありません。実際、吉田所長は「総理が来ようが、やる時はやる」と言っていたわけですから。
――映画では、総理が15日早朝に東電本店へ行くシーンがありますが、そこに至る経緯が、説明不足なように感じました。
菅 そうですね。この映画には、描かれていないこともたくさんあります。15日の午前3時頃、海江田経産大臣から、「東電の社長から、現場が危険なので社員を撤退させたいと言ってきています」と伝えられました。これについて、東電の清水社長は、「撤退したいとは言っていない」と発言していますが、清水社長から、海江田大臣や枝野官房長官のもとに、何度も電話で「撤退したい」と言ってきています。
その電話での会話を聞いていたわけではありませんが、2人の大臣が、作り話をするはずがありません。私としては、海江田大臣と枝野長官の言葉を信じるしかありません。彼らがウソを言う理由がないですからね。
私はその場にいませんでしたが、海江田大臣以下の官邸にいた政治家と原子力の専門家とが協議し、撤退もやむなしか、ということになり、15日の午前3時頃、総理である私は、最終的な決断を求められました。その前から、こういう事態になることは、チェルノブイリの事故の例などから、十分に予想していました。
東電の社長の立場として、社員を命の危険にさらすわけにはいかないので撤退させようというのは、考え方としては、間違っているとは思いません。理解できます。しかし、総理である私の立場としては、それを認めるわけにはいかない。
東電が撤退したら、誰が事故に対応するのか。自衛隊が行っても、プラントのオペレーションの知識はありませんから、何もできません。東電にやってもらうしかないわけです。
■「撤退はあり得ない。撤退したら、東電は必ずつぶれる」
菅 火力発電所の事故で、火の勢いが止まらないので一時撤退することはありえます。極端に言えば、燃えるものがなくなれば火は消えるわけですから。でも、原発はそうはいかない。一度、撤退してしまうと、放射線量がどんどん高くなり、近寄れなくなります。
いったん撤退したら、第一原発の6機、近くの第二原発の4機、合計10機が放置されることになり、それぞれが暴走し、放射性物質を撒き散らし、制御できなくなります。それが「最悪のシナリオ」と呼ばれるもので、福島第一原発から半径250キロ圏内が「移転希望を認める区域」となります。そこには東京も含まれます。
ですから、命の危険があるのは分かった上で、東電には撤退せずに対応してくれと求めなければならなかったんです。そこで午前4時頃に、東電の清水社長を呼びました。会ってすぐに、「撤退はありえません」と伝えると、「はい、わかりました」と、こちらが拍子抜けするように、あっさりと答えました。「撤退させてくれ」と言われていた、海江田大臣たちもびっくりしていました。
――清水社長は、「社員を殺すわけにはいきません」とか、「社員が亡くなったら政府が責任をとってくれるのですか」とか、何も言わなかったのですか。
菅 何も言いませんでしたね。話し合いも議論もなく、「わかりました」で終わりました。この間、政府と東電の間の意思の疎通がうまくいっていないので、「東電本店のなかに、統合対策本部を作りたい」と提案し、了承してもらいました。
本部長が総理である私、副本部長に海江田大臣と清水社長、それから細野豪志・総理大臣補佐官が事務局長として東電本店に常駐すると決めました。1時間後に、私たちが大手町の東電本店へ行き、統合対策本部を立ち上げることになりました。本店へ行ったのは、そのためです。
清水社長だけでなく、真の実力者である勝俣会長や他の役員、社員の人に対しても、理解してもらう必要があると思ったので、乗り込みました。
――映画では、統合対策本部の説明はなく、総理がいきなり、「撤退などありえない」と、叫んだようになっていました。
菅 激しい口調になっていたのかもしれませんが、その時の発言は、こんな内容です。
「皆さんは当事者です。命を懸けてください。逃げても逃げ切れない。情報伝達は遅いし、不正確だ。しかも間違っている。皆さん、萎縮しないでくれ。必要な情報を上げてくれ。目の前のこととともに、10時間先、1日先、1週間先を読み、行動することが大切だ。 金がいくらかかっても構わない。東電がやるしかない。日本がつぶれるかもしれない時に撤退はあり得ない。会長、社長も覚悟を決めてくれ。60歳以上が現地へ行けばいい。自分はその覚悟でやる。撤退はあり得ない。撤退したら、東電は必ずつぶれる」
こういうことを言ったのは、その前段階として、清水社長から「撤退したい」という要請があったからです。
■東電と官邸は意思の疎通ができていなかった
――しかし、清水社長が政府に「撤退したい」と要請していたことを知らない吉田所長としては、「さあ、がんばろう」と思っていたのに、いきなり総理が、「撤退はできない」と言い出したので、「何、言ってるんだ、このひとは」という気持ちになったように描かれています。
菅 吉田所長としては、そうだったかもしれません。とにかく、東電と官邸は意思の疎通ができていなかった。おそらく、現場と本店も意思の疎通ができていなかったのではないでしょうか。
統合対策本部を作ってからは、現場がどうなっているか、ストレートに情報として入ってくるようになったので、スムーズに対応できるようになりました。
そして偶然ではありますが、私が東電本店にいる間に、状況が大きく変わりました。
爆発音がしたんです。危機的状態だった2号機が爆発していたら、日本は終わっていたのですが、そうではなく、4号機の建屋が爆発し、ほぼ同時に2号機のどこかに穴があき、圧力が低下しました。放射性物質は大量に出てしまいましたが、2号機の格納容器そのものが爆発していたら、手がつけられなくなっていました。
つまり、ゴム風船に空気を入れすぎて破裂した場合は、風船が粉々になります。これが最悪の事態です。ところが、2号機は紙風船に穴があいたようなかたちとなり、空気が抜けていったのです。それで大爆発は免れました。
私が「神の御加護」と言うのは、具体的には、この2号機の圧力低下です。もうひとつが4号機の使用済み核燃料プールに水が残っていたことです。とくに2号機については、あけようと思って何かをして穴があいたわけではなく、本当に人の力をこえた何かのおかげだったのです。
しかし、そういう奇跡が、次の事故のときも起きるわけがありません。アメリカの合衆国原子力規制委員会(NRC)の委員長だったグレゴリー・ヤツコさんは、福島の事故の後、「原発事故は、いつ、どこで起きるかは分からないが、いつか、どこかで必ず起きる」と言っています。その通りだと思います。
ヤツコさんは、「原発を止めろ」とは言わないんです。「原発を作っていいのは、事故が起きても住民に被害が及ばないところだけだ」という言い方をします。つまり、半径250キロ以内に人が住んでいないところです。アメリカやロシアにはそういう条件を満たすところがあるかもしれませんが、日本にはありません。(つづく)
※菅直人インタビュー【2】は3月12日
以上、https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020030900012.html?page=1より転載
2020年03月10日
東京電力福島第一原発事故から9年。事故対応にあたった原発職員たちの苦闘を描いた映画『Fukushima 50』(若松節朗監督)が公開されている。映画の中の内閣総理大臣は、怒鳴り散らすだけで役に立たない、ある種の「悪役」として登場しているのだが、当の菅直人元首相は自身のブログなどで「よく出来た映画だ」と、意外にもこの映画を好意的に評価している。菅元首相の著書『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』(幻冬舎新書)も担当した編集者・評論家の中川右介さんが、その真意と事故当時の模様を改めて聞いてみた。
■「たしかに、私も大声を出しました」
――3.11の原発事故を扱った映画は、いくつかありますが、事故の様子をこれだけリアルに再現した映画は『Fukushima 50』が初めてだと思います。
菅直人元首相 非常に事故のリアリティがよく出ている映画だと思いました。当時を、まざまざと思い出し、あらためて、あの事故のすさまじさを感じました。よくぞ、あそこで止まってくれた、と思っています。「神の御加護」があったから日本は助かったと、本にも書きましたが、最後の最後は、「御加護」があったとしても、吉田(昌郎)所長をはじめとする現場の皆さんががんばってくれたことが、大きかった。
――映画では、佐野史郎さんが「総理」を演じています。役名は「総理」であって、「菅直人」ではありません。誰が見ても佐野さんが演じているのは「菅さん」なんですけど、なぜか、そうなっていない。これについて若松節朗監督は雑誌「キネマ旬報」のインタビューで、「出てくる政府関係者は、役名を与えず役職名だけにしました。実名を出すことで映画を作ることに支障が出るよりは、という判断です」と語っています。どういう「支障」を想定したのか、忖度したのかは分かりませんが、もし、佐野さんが演じているのが「菅直人」だったとして、抗議されますか。
菅 いやいや、そんなことはしませんよ。周囲の人は、「描き方が戯画的だ」とか色々言ってくれるんですが、そんなに、ひどいとは感じていません。劇映画ですしね。
福島の事故を描いた映画では、『太陽の蓋』もあります。この映画では、私をはじめ政治家が全員が実名で登場します。映画を作る人が、それぞれの判断と責任でやってくれればいいと思います。あまりに事実と違えば、何か言うかもしれませんが。
この映画も、もちろん事実と微妙に違う点はいくつかあります。それについては、私のサイトでも説明してありますので、見ていただければと思います。
たしかに、映画の「総理」は怒鳴っていますが、私もいくつかの場面では大声を出しました。火事場を想像してください。目の前で火が燃えているときは、「それを取ってくれ!」と怒鳴るでしょう。「それをこちらに持ってきてくれませんか」なんて悠長なことは言わない。あの数日間は、そういう場面の連続だったんです。だから、私も何度か、怒鳴っていたと思います。
映画では、「総理」もですが、吉田所長が声を荒げるシーンが何回もありました。その相手は「総理」ではなく、東電本店の緊急時対策室の人(篠井英介演じる、常務・緊急時対策室総務班・小野寺秀樹)です。吉田所長が怒鳴りたくなるのがよくわかり、「そうだ。そうだ」と共感していましたよ。
■「東電の人は、何も具体的なことを答えられなかった」
――東電本店は、そんなにひどかったんですか。
菅 東電本店は、私から見て、情報が届かない、伝わるのが遅い、内容が正確でない、という状況でした。はやりの言葉で言えば、どうもあの会社は、政治家に対して「忖度」する体質なんですね。こういうことは言っていいのかどうかとか勝手に判断して、伝えなかったり、曖昧に伝えたりしている、そんなふうに感じます。そのおかげで最初の5日ほどは、非常に苦労しました。
こちらが知りたいのは、客観的な事実なんです。3月12日早朝に福島までヘリで飛んだのも、見学でも表敬訪問でもなく、状況を知るためでした。
――映画にも描かれていますが、東電本店の緊急対策本部にはモニターが並び、現場とリアルタイムで音声と画像がつながっていました。菅さんは12日早朝に福島まで行きますが、本店へ行けば、吉田所長とも直通電話で話せたと思うのですが。
菅 そのモニターのことも含めて、情報がなかったんです。事故直後から、東電からは武黒(一郎)フェローが官邸に詰めていました。この人はずっと原発関連の部署にいて元副社長でした(映画では、段田安則演じる「竹丸吾郎」)。ところが、何を聞いても、「本店に確認します」となって、しばらくして「分かりません」という返事なわけです。
ベントの問題で言えば、12日午前1時頃に、東電からベントをさせてくれと要望がありました。実は原発事故においては、プラントのオペレーションは事業者、この場合は東電に責任があり、権限もあります。原子力災害対策本部長である総理には、住民の避難の責任があり、ベントをしろとかするなと言う権限はないわけです。民間会社の施設ですから。
ただ、ベントをすれば放射性物質が外部に出るので住民に避難してもらわなければならない。そこで東電は、了解を求めてきて、私は専門家である原子力安全委員会の斑目委員長らとも協議し、それを了解しました。その時点で、「2時間後にはできる」という話でした。決めたのが1時頃でしたので、午前3時にはできるんだなと、考えました。
夜中でしたが、住民には避難してもらうことにしました。その避難の範囲も、半径何キロ以内の人に避難してもらうかなどは、専門家と協議してもらいました。ところが、予定の3時になっても、ベントが始まらない。武黒さんに理由を聞いても、「分かりません」ばかりなんです。遅れているのか、不可能となったのか、それも分からない。遅れているなら、その理由を説明してくれればいいのですが、理由も分からない。そこで、私は現場の責任者に直接会って話すしかないと判断したわけです。
本店のテレビ会議のシステムのことは、15日朝に東電本店へ行ったとき、初めて知りました。なんだ、こうなっていたのか、と思いましたよ。そうと知っていたら現地へ行かなかったかどうかは、何とも言えませんが、本店が現地とテレビ会議でリアルタイムでつながっているというのは、行くか行かないかの判断材料のひとつにはなったと思います。
しかし、私が「現地へ行こうと思う」と言ったとき、東電からは「大手町へ来てくれればテレビ会議のシステムがあります」という説明は何もありませんでした。私としては、現場で何が起きているのか、なぜ午前3時に予定していたはずのベントが5時になってもできないのか、それを知るためには行くしかない、と判断したわけです。
――それで3月12日朝6時14分に首相官邸を出発します。枝野官房長官は、「総理が官邸を留守にするのは政治的に批判される」と、反対だった。実際、当時からこの視察には批判の声も多かったわけですが、それとは別に、ベントが遅れている状態で、もし現地に着いた時に爆発したら、菅さん自身も被爆する可能性があったと思うのですが、そういう危険は考えなかったのですか。
菅 当時は、そういう危険は認識していませんでした。いまでは11日の20時前後にはメルトダウンが始まっていたことが分かっていますが、当時は水位計が壊れていたので、水がなくなっていることが分からなかった。東電の報告からは、メルトダウンしていないという認識でした。
現地へ着くと、東電の武藤副社長が出迎えました。初対面でしたので、名前も顔も知りません。責任者のようなので、「ベントはどうなってますか」と訊くと、何も答えられない。東電の人は、みんな何も具体的なことを答えられないんですよ。
■「私はベントが遅れているから行った」
菅 あとで分かるのですが、武藤副社長は前日のうちに現地に入っていたんですが、現場で指揮をとっているわけではなかった。地元の自治体に説明するためにやって来ていたんです。そういう役割の人で、東電本店からは、現場の指揮をするために役員クラスがひとりも来ていない。そういう状況でした。
現場では吉田所長が指揮をとっていたわけです。では、本店では誰が事故対応の責任者だったのか。これもいまだに、よく分からない。有名な話ですが、清水社長と勝俣会長というトップ2人が旅行中で、事故発生から24時間のあいだ、東京にいませんでした。つまり指揮官なしで、事故対応していたわけです。実際には、常務のひとりが指揮をとっていたようですが、はっきりしません。
というのも、東電は事故が起きてから最初の24時間のテレビ会議の記録を、いまだに公表していないんです。かなりの混乱があり、とても、おもてには出せないということなのでしょう。こういう秘密主義の体質の組織なんです。「分からないから言わないこと」もあれば、「分かっていても伝えないこと」もある。そう感じます。
――着いたのが7時12分で、8時5分に出ていますから、1時間弱、いたことになります。
菅 吉田所長と話したのは30分もなかったかもしれません。ようやく、ちゃんと話せる人と会えた、と思いました。吉田さんは、遅れている理由をちゃんと説明してくれました。映画でも詳しく描かれているように、電源が喪失しているため、ベントも電動ではできず、手動でやらなければならない。その場所の放射線量が高く、ひとりがいられる時間が短い。そのために遅れている――そんな説明でした。
それでも、「決死隊を作ってでもやります」ということだったので、私としては、それ以上、何も言うことはありません。責任者である吉田さんと直接会って話せたのは、その後のさまざまな判断にも役立ち、無駄ではなかったと思っています。
――菅さんが視察に来ることになったので、ベントの作業がストップし、帰ってから再開したので、その時間だけベントが遅れ、被害が拡大したという説が、当時から広まっています。
菅 私の感覚では、「行ったから遅れた」のではなく、「遅れているから行った」わけです。遅れた理由は、作業そのものが困難だったこと、住民の避難が終わっていなかったことなど、いくつも重なっていたと思います。私が帰るまで待っていたので遅れたという認識は、私にはありません。実際、吉田所長は「総理が来ようが、やる時はやる」と言っていたわけですから。
――映画では、総理が15日早朝に東電本店へ行くシーンがありますが、そこに至る経緯が、説明不足なように感じました。
菅 そうですね。この映画には、描かれていないこともたくさんあります。15日の午前3時頃、海江田経産大臣から、「東電の社長から、現場が危険なので社員を撤退させたいと言ってきています」と伝えられました。これについて、東電の清水社長は、「撤退したいとは言っていない」と発言していますが、清水社長から、海江田大臣や枝野官房長官のもとに、何度も電話で「撤退したい」と言ってきています。
その電話での会話を聞いていたわけではありませんが、2人の大臣が、作り話をするはずがありません。私としては、海江田大臣と枝野長官の言葉を信じるしかありません。彼らがウソを言う理由がないですからね。
私はその場にいませんでしたが、海江田大臣以下の官邸にいた政治家と原子力の専門家とが協議し、撤退もやむなしか、ということになり、15日の午前3時頃、総理である私は、最終的な決断を求められました。その前から、こういう事態になることは、チェルノブイリの事故の例などから、十分に予想していました。
東電の社長の立場として、社員を命の危険にさらすわけにはいかないので撤退させようというのは、考え方としては、間違っているとは思いません。理解できます。しかし、総理である私の立場としては、それを認めるわけにはいかない。
東電が撤退したら、誰が事故に対応するのか。自衛隊が行っても、プラントのオペレーションの知識はありませんから、何もできません。東電にやってもらうしかないわけです。
■「撤退はあり得ない。撤退したら、東電は必ずつぶれる」
菅 火力発電所の事故で、火の勢いが止まらないので一時撤退することはありえます。極端に言えば、燃えるものがなくなれば火は消えるわけですから。でも、原発はそうはいかない。一度、撤退してしまうと、放射線量がどんどん高くなり、近寄れなくなります。
いったん撤退したら、第一原発の6機、近くの第二原発の4機、合計10機が放置されることになり、それぞれが暴走し、放射性物質を撒き散らし、制御できなくなります。それが「最悪のシナリオ」と呼ばれるもので、福島第一原発から半径250キロ圏内が「移転希望を認める区域」となります。そこには東京も含まれます。
ですから、命の危険があるのは分かった上で、東電には撤退せずに対応してくれと求めなければならなかったんです。そこで午前4時頃に、東電の清水社長を呼びました。会ってすぐに、「撤退はありえません」と伝えると、「はい、わかりました」と、こちらが拍子抜けするように、あっさりと答えました。「撤退させてくれ」と言われていた、海江田大臣たちもびっくりしていました。
――清水社長は、「社員を殺すわけにはいきません」とか、「社員が亡くなったら政府が責任をとってくれるのですか」とか、何も言わなかったのですか。
菅 何も言いませんでしたね。話し合いも議論もなく、「わかりました」で終わりました。この間、政府と東電の間の意思の疎通がうまくいっていないので、「東電本店のなかに、統合対策本部を作りたい」と提案し、了承してもらいました。
本部長が総理である私、副本部長に海江田大臣と清水社長、それから細野豪志・総理大臣補佐官が事務局長として東電本店に常駐すると決めました。1時間後に、私たちが大手町の東電本店へ行き、統合対策本部を立ち上げることになりました。本店へ行ったのは、そのためです。
清水社長だけでなく、真の実力者である勝俣会長や他の役員、社員の人に対しても、理解してもらう必要があると思ったので、乗り込みました。
――映画では、統合対策本部の説明はなく、総理がいきなり、「撤退などありえない」と、叫んだようになっていました。
菅 激しい口調になっていたのかもしれませんが、その時の発言は、こんな内容です。
「皆さんは当事者です。命を懸けてください。逃げても逃げ切れない。情報伝達は遅いし、不正確だ。しかも間違っている。皆さん、萎縮しないでくれ。必要な情報を上げてくれ。目の前のこととともに、10時間先、1日先、1週間先を読み、行動することが大切だ。 金がいくらかかっても構わない。東電がやるしかない。日本がつぶれるかもしれない時に撤退はあり得ない。会長、社長も覚悟を決めてくれ。60歳以上が現地へ行けばいい。自分はその覚悟でやる。撤退はあり得ない。撤退したら、東電は必ずつぶれる」
こういうことを言ったのは、その前段階として、清水社長から「撤退したい」という要請があったからです。
■東電と官邸は意思の疎通ができていなかった
――しかし、清水社長が政府に「撤退したい」と要請していたことを知らない吉田所長としては、「さあ、がんばろう」と思っていたのに、いきなり総理が、「撤退はできない」と言い出したので、「何、言ってるんだ、このひとは」という気持ちになったように描かれています。
菅 吉田所長としては、そうだったかもしれません。とにかく、東電と官邸は意思の疎通ができていなかった。おそらく、現場と本店も意思の疎通ができていなかったのではないでしょうか。
統合対策本部を作ってからは、現場がどうなっているか、ストレートに情報として入ってくるようになったので、スムーズに対応できるようになりました。
そして偶然ではありますが、私が東電本店にいる間に、状況が大きく変わりました。
爆発音がしたんです。危機的状態だった2号機が爆発していたら、日本は終わっていたのですが、そうではなく、4号機の建屋が爆発し、ほぼ同時に2号機のどこかに穴があき、圧力が低下しました。放射性物質は大量に出てしまいましたが、2号機の格納容器そのものが爆発していたら、手がつけられなくなっていました。
つまり、ゴム風船に空気を入れすぎて破裂した場合は、風船が粉々になります。これが最悪の事態です。ところが、2号機は紙風船に穴があいたようなかたちとなり、空気が抜けていったのです。それで大爆発は免れました。
私が「神の御加護」と言うのは、具体的には、この2号機の圧力低下です。もうひとつが4号機の使用済み核燃料プールに水が残っていたことです。とくに2号機については、あけようと思って何かをして穴があいたわけではなく、本当に人の力をこえた何かのおかげだったのです。
しかし、そういう奇跡が、次の事故のときも起きるわけがありません。アメリカの合衆国原子力規制委員会(NRC)の委員長だったグレゴリー・ヤツコさんは、福島の事故の後、「原発事故は、いつ、どこで起きるかは分からないが、いつか、どこかで必ず起きる」と言っています。その通りだと思います。
ヤツコさんは、「原発を止めろ」とは言わないんです。「原発を作っていいのは、事故が起きても住民に被害が及ばないところだけだ」という言い方をします。つまり、半径250キロ以内に人が住んでいないところです。アメリカやロシアにはそういう条件を満たすところがあるかもしれませんが、日本にはありません。(つづく)
※菅直人インタビュー【2】は3月12日
以上、https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020030900012.html?page=1より転載