2016.6.23
ROCK ENCYCLOPEDIA
久保憲司


サム・クック「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」とボブ・ディラン「風に吹かれて」  ・・・色々な解釈が出来る歌と言われていますが、海外では誰もそんなこと言わない


(前略)

なぜサム・クックが「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」を書こうと思ったというと、ボブ・ディランが「風に吹かれて」を書いたからです。サム・クックはラジオで「風に吹かれて」を聞いて、“あ、この白人の少年は僕ら(黒人)のために歌ってくれている。僕らもこういう歌を歌わない”といけないと思って書いたのです。

日本だと「風に吹かれて」は色々な解釈が出来る歌と言われていますが、海外では誰もそんなこと言わないです。これは公民権運動を代表する曲なのです。

どういう歌かというと

 

“男はどれくらいの道を歩けば

人として認められるのか”

「風に吹かれて」

 

山はどれくらいとか、人はどれくらい見上げればとか色々続くんですが、言っていることは黒人はいつになったら人間になれるかということです。

びっくりするでしょう。今の僕らからしたら、黒人はいつだって人間だと思うんですけど、この頃のアメリカの黒人は人間として認められていなかったのです。

それをボブ・ディランはお前らいったいいつになったらこの間違いに気づくんだと投げかけているのです。

 

“その答えは 風に吹かれている”

                             「風に吹かれて」

 

という名サビですけど。これを日本では風に舞うくらいだから、あやふやな答えだろと考える人が多いですけど、ボブ・ディランはそんなあやふやな気持ちで歌っていないです。ボブ・ディランが歌っていることは黒人が人間かどうかなんかという答えなんか風が教えてくれるくらい当たり前のことだろ、お前ら、分かってんのか、立ち上がれよ、黒人のためにという強い意志で歌っているんです。

風に吹かれての元ネタはオデッタの「競売はたくさんだ」ですよ。奴隷として売られるのはもう嫌だという歌です。

  “どれくらいの砲弾が飛びかえば”

禁止されるのか? うーん、、その答えは風に舞っているかもね。とか、そんな軽い話じゃないんです。黒人を解放するためにアメリカは二つに分かれて、50万人もの死者を出しているんです。こんな歴史があるのに、お前らまだ黒人は人間じゃないとか言ってんのか、ぶっ殺すぞみたいな感じなんです。

 

サム・クックの「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」で泣けるところは映画を見に行ったら、「お前なんかが来るところじゃない」と、白人に殴られた。近くの白人(ブラザー)に助けを求めたら、また殴られた。というパート。映画なんかでよくあるシーンですよね。この歌が生まれてから、何十年も経ちますが、胸が痛くなるのは、俺はこんな場面に出会った時、本当に人を助けられるか、と思うからです。

「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」が歌っていることは君は誰かのために何かやれるかということを突きつけていること。

誰かのために何かやる。これが公民権運動を成功させたことだ。もちろん、当事者である黒人が立ち上がったことが1番大事だった。でもね、黒人じゃない人が黒人のために何かするということが大事なんじゃないかということをつきつけられている気がするのだ。サム・クックはそこまで歌ってないですけどね。

でもね、


“これから何かが変わる

きっと変わる。”

 
というサビはどう繋がるかというとボブ・ディラン(白人)が僕たちのために声をあげてくれるようになったから、と繋がるんですよ。

(後略)


久保憲司のROCK ENCYCLOPEDIAより





ディランもビートルズも、政治的問題から逃げるような態度は決して取らなかった。

現在公開されている映画「THE BEATLES~EIGHT DAYS A WEEK」でも明かされたように、当時、人種隔離政策が行われていたアメリカで、ビートルズは「差別で席を分けられた会場では演奏しない」と契約に組み込んでいた。

そのため、ビートルズのコンサートでは白人と黒人が一緒くたになってビートルズの演奏を聴いたのだ。

映画の中で、歴史家のキティ・オリヴァー(黒人)はこう語っている。

「私にとって、ビートルズのコンサートは“違う人々といる”という初めての経験だった。でも、“違い”なんかたちまち消えると知った」

ディランやビートルズが世界を少しでも変えたのだとしたら、それは政治から逃げることをしなかったからだと思う。

さて、日本のミュージシャンは…?



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