1993年、東大の助教授に迎えられる。「学生が素直すぎてショックを受けた。京大生はもっと屈折してたから」=94年、東大の本郷キャンパス


大学教師、なんていい職業!


 ――大学の教員になるのは1979年ですね。これは公募だったんですか。

 指導教授も女には就職を世話しない時代。公募に送っては落ちまくりで、ぎりぎり決まった京都の平安女学院短大は23通目の応募先でした。

 ――ともかく大学教師になろうと思ったのですね。

 食わなきゃいけないからね。はっきり覚えてるのは、25歳のときに地方新聞の求人欄を見てたら、「男子のみ」というのがズラーッと並んでて、「女子のみ」「男女とも」は、風俗かパチンコ店の夫婦住み込みしかない。「25歳、女性」なんてあてはまるところがどこもないの。

 まれに事務員募集なんてあると「珠算三級以上・簿記経験者」。私、ないじゃん! 自分が無芸無能で能力も資格も何もない年齢だけとった女だということに、初めて気がついた。もう選ぶ余地なんかないから、しょうがない、教師で食ってくかとなった。

 ――短大ではどんな授業をしたのですか。

 最初は専任講師で一般教養の社会学を教えたんだけど、学生は本も新聞も読まないし、授業も聞かない子どもたちでね。ただ本を読まない子がいいのは、権威主義がかけらもないこと。お客さんに合わせていくしかないと覚悟を決めて、専門用語も学者の名前も一切使わない社会学概論をやることにした。

 ――成功しましたか。

 反応が率直だからわかりやすい。優等生はつまらない授業も我慢して聞いてくれるけど、彼女たちは何を言っているかではなく、いかに言ってるかに反応する。その子たちに面白いと言ってもらえるのが、私の生きがいになった。私は教師として、彼女たちに実に鍛えられましたね。

 ――その後は京都精華大を経て、93年、東大に迎えられます。「権威に屈するのか」という批判も受けたとか。

 いっぱい言われましたよ。上野もとうとう体制に取り込まれた、とかね。自分の仕事で証明するしかない。ただ東大ブランドはずいぶん使いでがありましたね。社会教育の講師はずいぶんやったけど、東大に移ったとたん、教育委員会からお声がかかった。政府の審議会委員にはさすがに呼ばれなかったけど。

 ――東大の上野ゼミから、社会学や女性学の論客が多く出ました。研究の後継者も育てていますね。

 私は後継者とは思ってないの。ただ学生を指導するのは本当に面白かった。私は要求水準の高い教師で、「こんなものでいいと思ってるのか」と毎回真剣勝負をやってきたから、上野ゼミのテンションは高かったし、それを求める学生が集まってきた。

 私自身は学校を好きだったことも、教師を尊敬したこともないのに、結果として教師になってよかった。私は子どもを産んでいないし、育てたこともないのだけれど、目の前で学生が、竹が皮を破ってバリバリと音をたてるように育っていくのを見る。親も見られない場面を、教師だから見ていられる。なんていい職業かと思います。

(聞き手・樋口大二)=全11回


(朝日新聞夕刊2015.4.28)





1982~84年、客員研究員としてアメリカに滞在する。「男にできることは女にもできるというアメリカのフェミニズムには、違和感を持ちました」=本人提供


ごまかしなし、ギリギリの人間関係


 ――大学にポストを得るまで、マーケティングリサーチの仕事もしたそうですね。

 京都学派の先生たちが作ったシンクタンクのアルバイト。リポートを、民族学の梅棹忠夫さんや社会学の加藤秀俊さんの前でプレゼンした。私の社会学者としての基礎訓練は、そこで身についたようなものです。

 ――学者になろうとは思っていなかった?

 なれると思ってない。この先、自分がどうなるかとか考えない。来年生きているのかな、どこにいるのかな、いまいる男とまだ一緒なのかな、というその日暮らしよ。

 ――先のことはわからない生き方で、人間関係にも永続性を求めませんね。

 続くかどうかは結果論ね。永続性に期待も保証もないし、お約束はしない。ここで折り合わなかったら、もう明日はない、というギリギリの関係だから。

 ――普通はそこまで突き詰めず、気をつかいますよね。

 逆なのよ。真剣だからごまかしがきかない。いまになると、私は自分でも傷ついたけど他人も傷つけてきた。はた迷惑な女だったと思う。あのころ、私と付きあってくださった方々には、申し訳ないと言いたいくらい。でも迷惑をかけながらも、それを乗り越えてきた人たちとのつながりは続いてますよ。

 ――いまは「おひとりさま」なのですか。

 長期に継続してる関係なら、ありますよ。でも永続するというお約束は誰にもしてない。

 ――結婚しているフェミニストは信用しない、とも書いていますね。

 自分の性的自由を放棄する契約関係に自ら入り、契約を破ったら相手を非難する権利を持つなんて、想像もできない。まったく理解できない人間関係ね。

 ――年を取ると介護とか病院の保証人とか、いろいろ問題が出てきますが。

 友達でいいじゃない。保証人を要求されても「家族はほかにいません」で突っぱねたらいいのよ。看取(みと)り看取られる関係も、友達同士でじゅうぶんやれる。私は年下の友人を養子縁組したっていいと考えてる。期間限定の、選び合う親子関係、血縁よりいいかもよ。

 ――期間限定で、その都度「いま」を生きる人生なんですね。

 ああ、なるほどね。私は何かを始めるときは、いつもプロジェクト方式で解散を念頭においたチーム作りをしてきたの。期間を区切り、運命共同体は作らない。人からは付き合いにくい女と思われてるようだけど、実は他人と組んでチームワークをするのは好きだし得意なのよ。

 ――同窓会などにも行かないのですか。

 一切行かない。興味もない。だって何十年も会わなかった人といまさら何をしゃべるの? 私は、手間ひまかけてメンテナンスして続いてきたものだけが、友情だと思ってる。続いてきたものには、続くだけの理由があるから、それは大事にしてますよ。

(聞き手・樋口大二)=全11回


(朝日新聞夕刊2015.4.30)





1996年、客員教授としてメキシコに。「基金は禍根を残したけど、あの程度のものすら、もはやできない。事態は悪化しています」=本人提供


慰安婦問題、市民の共感示せていれば


 ――1980年代から90年代は「女の時代」とも言われました。現在は、フェミニズムに対する保守派の批判が激しくなっています。

 95年の北京女性会議が日本の女性運動のピークでした。NGOフォーラムに集まった3万人のうち、6千人が日本から。自治体の派遣も多かった。この時期まで、行政とフェミニズムは蜜月でした。

 バブルで自治体の財政が潤っていて、女性センターの建設が各地でブームになった。公共事業のハコモノづくりに利用された面もあるんだけど、相談員などでたくさんの女が雇用されたの。

 ――その後の長引く不況で状況が変わった。

 行政改革の波にのまれて、こうした事業が狙い撃ちされたからね。それだけではなく、90年代には、もう一つ重要なことが起きてる。「慰安婦」問題です。北京女性会議でも、アジアの女たちが慰安婦を女性の人権侵害として焦点化し、世界に発信した。それに対して強いバックラッシュ(反動)が起きました。

 ――ご自身も会議に参加されたのですね。

 「慰安婦問題をどう解決するか」というワークショップを主催しました。民間から集めたお金を元慰安婦に「償い金」として渡す、「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」に抗議する署名を参加者から集め、それを日本政府代表団に手渡すという活動を、仲間と共にやった。

 ――なぜ基金に反対したのですか。

 国の基金ではないし、日本政府の責任をあいまいにするものだった。代替案として、市民基金のようなものを作れなかったのかという思いはありますね。

 政府の公式謝罪を市民が代わってすることはできない。でも国家を背負っていない市民も共感を示すことはできる。NGOで市民基金が実現していたら、その共感をもっとうまく伝えられたかもしれない。できなかったのは運動の側に力量がなかったこともあるけど、支援者側には政府の責任追及が最優先でお金による解決に忌避感があった。

 ――いまなら、別のやり方もあったと思いますか。

 自社さ政権のもとで村山談話が出され、不十分ながらも戦後補償の枠組みが示された。アジア女性基金を推進した人たちが、こうした状況を千載一遇のチャンスだと考えた政治判断は、歴史的に見れば当たっていた。痛恨の思いをこめ、それは認めざるをえません。これほど政治や世論が右傾化するとは、当時は思ってもみなかった。

 ――右傾化のルーツがこの時期だったと。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の結成が96年。長く続く不況による自信喪失とアジアからの告発に対する反発が、ナショナリズムという形で出てきた。

 もう一つは、男女雇用機会均等法以降の新自由主義的な改革の中で、女女格差が生まれた。非正規労働に押しやられた団塊ジュニア世代の男たちが、「女たたき」を始めたというねじれもあります。

(聞き手・樋口大二)=全11回


(朝日新聞夕刊2015.5.1)





2008年、還暦のパーティーで2歳年下の政治学者・姜尚中さんから赤いバラ60本を贈られた=本人提供


「おひとりさま」の老後、考え始めた


 ――2000年ごろから、介護や福祉などケア問題に関心を持つようになりました。

 女性問題からケアに移ったのですか、と聞かれるんだけど、そんなことはない。ちゃんとつながってるんです。

 ケアの負担を社会化するにはいくつか選択肢がある。北欧は高い税金をとる代わり、政府や自治体の雇用者がケア労働に就く。オランダでは男も女も労働時間を短くし、家庭内で男女ともにケアを担えるようにした。アメリカはカネを払ってケアサービスを商品として買う。その背後には低賃金の移民労働者がいます。日本にはどれも選択肢にない。しわ寄せは全部、女に来てる。

 ――日本ではまだ、ケア労働には外国人はあまり入っていませんね。

 海外の労働市場で外国人労働者が占める位置に、日本では女が置かれてる。家庭内のケアを負わされたままなら、女は二流の労働力として低賃金でいるしかない。日本政府は、育児と介護は女のタダ働きであり、カネを出す気はないと言ってきた。やっと変わったのが、介護保険制度です。

 ――2000年に施行されました。

 九州の生協のグループが基金をつくって助け合いの有償ボランティアを興し、介護保険施行にあたって介護事業に乗り出すことになったの。頼まれて、私は顧問になった。乗りかかった船から下りずに、チームを組んで学生たちと現地調査に乗りこんだら、実に面白かった。目の前で問題が次々と起こり、それがそのまま分析と研究の対象になって、現場の次のステップに反映されていくアクションリサーチ(問題解決型研究)になりました。

 もう一つの理由は私自身の年齢です。

 ――50歳になるころです。

 50代の研究者は若いころの生産性を失って、過去の自分の業績を模倣し始める。そうならないためには、自分がビギナーである違う分野に参入すればいい。まったく知識がなかった高齢者福祉が、私にとって新しい分野になった。未知の分野は異文化で、異文化は楽しいのよ。

 もう一つの切実な動機は、私自身が「おひとりさま」であったことね。家族抜きでどんな安心が老後に可能かを考える手立てを、介護保険が与えてくれた。

 ――初めから戦略的にケアの問題に入っていったわけではないのですか。

 偶然と必然が半々ね。研究者としての私の出発点は家事労働論こと不払い労働論。女が家でタダでやってきたことにはコストも価値も発生するんだと、一貫して言ってきた。ケア、すなわち「生命を生み育て、その最後を看取(みと)る労働の値段はなぜ安いのか」というのは、その延長であり、根源的な問いなんです。

 ――なぜ安いのですか。

 論理的な根拠はいくら考えてもない。結局、「女がいままでタダでやってきたことにカネを払う気はない」という、オヤジの意識が阻んでいるとしか思えないのよ。

(聞き手・樋口大二)=全11回


(朝日新聞夕刊2015.5.7)





フェミニストの証言を集めたドキュメンタリー映画「何を怖(おそ)れる」(松井久子監督)に出演。「フェミニストも高齢化した。若い人にぜひ見てほしい」=西田裕樹撮影


家事は不払い労働、常識になった


 ――フェミニズムへのバッシングが強まり、若い女性から敬遠されてはいませんか。

 フェミニズムが男嫌いの思想で家族破壊者であるとか、ありとあらゆる悪罵を投げつけてきた男メディアの責任は大きいよ。私に対する「ケンカに強い」とかいうレッテルも、好戦的なイメージで、穏やかには見えないものね。

 「フェミニズム」という言葉は、使っても使わなくてもいいんです。アグネス論争のときは、働く女が乳飲み子を連れ歩くこと自体、非常識とされていたけど、社会の常識は劇的に変わった。それにいちいちフェミニズムという名前をつけなくてもいい。

 でもそれは自然に変わったんじゃなく、おかしいとずっと言い続けて変えようとした人がいたから。これは若い女にも男にも絶対知っていてほしいことね。

 ――男と敵対する思想というわけではないですね。

 「フェミニズムは女も男も解放する思想」なんて、私は言いません。事実、男にとって耳が痛いことを私は言ってきたからね。男性解放は男自身にやってもらわなくちゃ。

 家事や育児を、タダ働きで女に担ってもらわなければ、男は生きてこられなかった。市場は決して市場だけで完結してはおらず、外部である家族に依存し続けてきた。そのことを十年かけて書いた本が「家父長制と資本制」(1990年)。亡き母のリベンジを果たした気分でした。

 ――性差別は構造的な問題であることを解き明かした主著ですね。

 「無償の愛の行為」とされてきたものを、「労働」と呼び変えた。お金の支払いは発生しないから「不払い労働」。これが国の生産、所得、支出の全体像を示す国民経済計算の統計に盛り込まれ、貨幣価値に換算して評価されるようになった。労働統計も支払い労働と不払い労働の合計を示すようになりました。

 それまで無業の主婦は朝から晩まで働いても「3食昼寝付き」と言われてきたから、画期的でした。「誰のおかげで食わせてもらってるんだ」と夫にパワハラされても、「誰に不払い労働やってもらってるんだ」と言い返せる。

 ――男はその現実を直視しろと。

 卒業した女子学生が何年かして出産を迎えると、泣きの涙で相談に来る。子どもが産まれても男は働き方を変えない。ウンザリするほど昔と同じ。それで自分を追い詰めてしまう彼女たちに、幸せになってほしい。そのためには男に変わってもらうしかないのよ。企業や社会にもね。

 超高齢社会でみんな年齢を重ね衰えていく。加齢はすべての人が中途障害者になっていくようなもの。どんな力のあった人もいずれ老いさらばえ、ボケて人の世話になりながら死んでいく姿をさらす。

 女はもともと弱者なんだから、「男並み」の強者になろうなんてせず、弱者のままでいい。要介護になっても、ボケても、安心できる社会になればいいんです。

(聞き手・樋口大二)=おわり


(朝日新聞夕刊2015.5.8)



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