湯川秀樹(1907-1981)氏は、もちろん誰もが知る日本の理論物理学者です。

1949年、日本人として初めてノーベル賞を受賞しました。

その湯川氏が1950年に少年少女向けの雑誌「少年少女の広場」に発表した「原子と人間」という詩が、大変興味深いので紹介します。

◆◆◆

原子と人間
湯川秀樹


人間はまだ
この世に生まれていなかった
アミーバもまだ
見えなかった
原子は
しかしすでに
そこにあった
スイソ原子もあったし
ウラン原子もあった
原子は
いつできたのか
どこでどうしてできたのか
だれも知らない
とにかくそこには
原子があった

原子はたえず
動きまわっていた
ながいながい時間が
経過していった
スイソ原子と
サンソ原子が
ぶつかって
水ができた
岩ができた
土ができた
原子が
たくさん集まって
ふくざつな
分子ができた
いつのまにか
アミーバが動きだした
しまいには
人間さえも生まれてきた
原子はその間も
たえず活動していた
水のなかでも
土のなかでも
アミーバのなかでも
そして人間の
からだのなかでも
人間はしかしまだ
原子を知らなかった
人間の目には
見えなかったからである

また
ながい時間が
経過した
人間は
ゆっくりゆっくりと
未開時代から
脱却しつつあった
はっきりとした
「思想」を持つ人々が
あらわれてきた
ある
少数の天才のあたまのなかに
「原子」のすがたがうかんだ
人々が原子について
想像をたくましくした時代が
あった
原子のすがたが
見うしなわれようとする時代が
あった
人々が
錬金術に
うき身をやつす時代もあった

そうこうするうちに
また
二千年に近い歳月が
ながれた
「科学者」と
よばれる人たちが
つぎつぎと登場してきた
原子の姿が
きゅうに
はっきりしてきた
それがどんなに
ちいさなものであるか
それがどんなに
はやく動きまわっているか
どれだけ
ちがった顔の原子が
あるか
科学者の答は
だんだん細かくなってきた
かれらはしだいに
自信をましていった
かれらは
断言した
「錬金術は痴人のゆめだ
原子は永遠に
その姿をかえないものだ
そしてそれは
分割できないものだ」

やがて
十九世紀も
おわろうとしていた
このとき科学者は
あやまりに気づいた
ウラン原子が
じょじょに
こわれつつあることを
知ったのだ
人間のいなかった昔から
すこしずつ
こわれつづけていたのだ
壊れたウランから
ラジウムができたのだ
崩壊のさいごの残骸が
ナマリとなって堆積しているのだ
原子はさらに
分割できる事を知ったのだ
電子と
原子核に
再分割できるのだ

やがて
二十世紀が
おとずれた
科学者はなんども
驚かねばならなかった
なんども
反省せねば
ならなかった
原子の
ほんとうの姿は
人間の心に描かれていたのとは
すっかり違っていた
科学者の努力は
しかしむだではなかった
「原子とは何か」という問に
こんどこそ
まちがいのない答ができるようになった
「原子核はさらに分割できるか
それが人間の力でできるか」
これが残された問題であった
この最後の問に対する答は
何であったか
「然り」と
科学者が
答えるときがきた
実験室のかたすみで
原子核が
破壊されただけではなかった
ついに
原子バクダンがさくれつしたのだ
ついに
原子と人間とが
直面することになったのだ
巨大な原子力が
人間の手にはいったのだ
原子炉のなかでは
あたらしい原子が
たえずつくりだされていた
川の水で
しじゅう冷やしていなければならないほど
多量の熱が
発生していた
人間が近よれば
すぐ死んでしまうほど多量の放射線が
発生していた
石炭の代わりに
ウランを燃料とする発電所
もうすぐに
それが
できるであろう



◆◆◆


この詩が書かれた時、原爆は知られていましたが、原子力発電はまだ現実のものとはなっていませんでした。

この詩には、放射線の恐ろしさと同時に、原子力を人類のために利用することができるだろうという期待も込められています。

湯川氏が現在の原発事故の状況を見たとき、このかつての期待を持ちつづけることはできたでしょうか。