♪from this beautiful Coldplay's song “Yellow”→

 

 

毎日本当に暑いですねお天気サンサン

 

世の中的にはお盆休みなのでしょうか、だけどこうして文章を書いているのがうれしくて、そして少しずつ、ブログを読んでくださる方の裾野が広がっていっているのが幸せなさくらですアリーナ姫ハート

 

 

さて政治とスピリチュアルって、どちらも“まつりごと”ですよね。

 

古来より祭政一致、政治=祭祀であったくらいですから、この二つの世界には通じるものがあるなあと感じながら、なかなか言語化できなかったのですが、

 

現代日本で、政界とスピリチュアル業界に両方関わってみて、“人の欲望蠢く世界”という点において、両者に何の違いもなく、そしてそれは極めてこの世にあまねく存在しているものである、というシンプルな事実にようやく気付きました。

 

 

政治の世界では、“権威”が目に見えて(肩書や役職)としてあるので、権力闘争というのは究極は政権取りのパワーゲーム。

 

それはダイナミックで、知力謀略を尽くして戦う人間模様は、本当に面白いのですが、人間のさまざまな“欲望”が渦巻く、しかも権力とお金をめぐって非常に分かりやすい形で行われているため、ゲッソリしてしまうという側面が強かった。

 

世の中的にも、政治は“非常に汚い世界”だと思われているし、自分でも身を置いていた政界は“魔界”であると長らく思っていました。

 

一方、政界とは対極に存在しているようなスピリチュアル業界においては、愛や平和が大好きと口では言いながら、結構な権力欲、支配欲、承認欲というものが蠢いている世界であるというのも分かってきました。

 

しかも、政界と違って、その本音をものすごく巧妙に隠して外に見せている。

 

 

政界は見るからにギラついていますが、スピリチュアル界ではラッピングはキラキラ、箱の中身はドロドロという、その二面性の落差に驚くわけです。

 

 

政治の世界もスピリチュアルの世界も、全員が欲望まみれなわけでもないし、全員が清らかなわけでもない。

 

 

ただ、「分かりやすい=自分の欲望を隠そうとしていない」だけに、私は政界は、世の中に比べて特別悪いというわけではないのではないかと感じるようになりました。

 

 

権力欲にギラついているなんて、野心を率直に示して、素直なんじゃないか。自分のことしか考えてない陳情をするなんて、ある意味正直じゃないかと。

 

 

永田町を離れて3年、“娑婆”の世界で過ごしてみて、

 

表面上は人畜無害、無知を装いつつ(本当に無知な場合もありますが)、腹にいろんな思惑を隠して近づいてくる“一般の人たち”の方が、

 

明らかにイジワルだったり、目に見えて強欲だったりする政界住人(注:全員ではありません)より、よっぽど素直じゃないし、正直さに欠けると感じるのです。

 

 

それくらい、自分の中にあるどす黒い欲望(特に支配欲と承認欲)を愛とか平和とかでコーティングして、それは某女性政治家の厚化粧がスッピンに思えるほど、表面的に清らかに見せようとしている人たちが恐ろしく多いと感じる。

 

だったら最初から思惑ミエミエな政治の世界の権力闘争の方が、私にはずっと分かりやすい。

 

 

世の中で言われているほど、政治の世界だけが汚いわけじゃない。

 

政治の世界が汚いのなら、それは世の中の反映でしかないのだから、自分たちはキレイで政治は汚いという、その思い込みは、一度疑った方がいいのではと強く思います。

 

 

というのも、国会議員というのは、47都道府県から選挙を経て選ばれているわけなので、国会は全国各地から人が集って作っている“国の縮図”でもあります。

 

 

だから国政が変なら、政治を動かしている選ばれた人たちが変である。選ばれた人たちは、誰に選ばれたのかといえば、有権者(国民)による選挙である。

 

 

「自分は選挙に行ってないから関係ない」では決してなくて、「投票に行かないことを選んだ」という、立派な投票行動であるのです。

 

 

愛と平和が大好きなスピリチュアルな人たちが、なんでここで“ワンネス”に基づいた行動を取ろうとしないのかと不思議なのですよね。

 

祈ったり、彼らのいうところの“愛”(あまり純粋なものではない気はしますが)を送ったり、“浄化”してみたり。

 

それが役に立たないとは言いませんが、政治の現実を知る人間からしたら、いくら祈ったところで、一票にもならないですからね。選挙は投票所に行って、投票用紙に名前を書いてもらわないと勝てないのです。

 

だからいくら祈ったところで、実際の選挙を通じて変えていく方へエネルギーを投下しない限り、各自の勝手な願いで終わってしまのです。いくら祈っても嘆いても、現実は変わりませんからね。

 

 

なので国や社会が良くなるようにとお祈りすることと同時に、現実的に国や社会が良くなるために、コミットすること。

 

 

ただ選挙に行くだけじゃなく、選挙のプロセスからもっと“噛んでいく”ことが必要ではないかと痛感します。

 

 

現状をみれば、「予算配分という見返り」を期待して応援する人たちがいて、そういう人たちの応援を受けたら、次の選挙で勝つために、そういう人たちに便宜を図るような政策や予算付けに反対することは難しいわけで、

 

 

特定の人たちや団体だけのためでなく、純粋に国家国民のために、フェアネスを実現するために頑張ってもらえるよう応援する良識的な支援者に支えられて、

 

変な勢力に頼らなくても選挙に勝てる、心ある政治家が増えれば、国政を動かすプレーヤーの質が変わってくる。

 

 

そして権力というパワーを、より良い政治力として発揮すれば、それは世の中が大きく変わっていく、いい力になると思うのです。

 

 

スピリチュアル業界、あるいはスピリチュアルを多少かじってるような人たちが、ほんと嘘つきというか悪質だなあと感じるのは、本当のことを言わないところだと思う。

 

 

なんで自分は「認められたい」「承認されたい」と、ハッキリ言わないんだろう?

 

 

愛や平和の美辞麗句で本音を隠して、自分の劣等感を隠すために、心の闇を埋めるためにこの世の“栄光”を求めているんだと、素直に言わないんだろうと思うのです。

 

(ちなみにこれは政界で正義と平和を叫んでいる人たち、また声高に愛国を叫んでいる人たちにも共通であると感じます)

 

 

スピリチュアル業界だけじゃなくて、教会とか行っても、神の愛を学びながら、なんでそんなに世俗的なんだと驚くような人たちもいますし、教会内での出世に野心ありありな神父様がおられたり。

 

 

結局のところ、この世のプレーヤーは人間であり、人間がやっている限り、政治の世界に限ったことではなくて、会社組織であれ町内会であれ政治そのものだし、

 

横並び同列意識で縛り合うような(そして裏ではお互いにつぶし合う)人間関係=サル山があちこちで生まれるのだろうと思うのです。

 

 

だから魔界はなにも政界だけじゃなくって、everywhereだし、政治の世界が可愛く思えるくらい、この世の多くの人たちも結構どす黒いじゃん、と正直言って思うのです。

 

 

もちろん私も、欠点だらけの人間です。片付けられないし、書類やお金の管理ができない。人の言うことはきかないし、好き嫌いがハッキリしてるし、こだわりが強くて、“社会人”としては崩壊しているので、自分は完璧な人間じゃないし、完璧な人間はいないというのは分かっている。

 

 

だけど嫌いな人は嫌いだし、自分が納得できないことはやりたくないし、“適当にうまくやる”ということがどうしてもできない。

 

 

嫌いな人におべっかを使ったり、社交辞令を駆使して平和にやり過ごしたり、そういう高度なことができない、極めて単純な人間なのです。

 

 

意地悪で強欲な人たちは好きではありませんが、そういう人間としての個性の発露は好みの問題であって、

 

私が本当に嫌なのは、実は支配欲とかどす黒い欲望があるのに、表面は人に好かれようと違う自分を演じている、その二面性が嫌なのです。

 

 

すっかり有名になった豊田真由子さんなんか、個人的にはにこやかに丁寧に接してくださったのですよ。

 

だけど「たぶんこの人、本当は違うんだろうなあ」というのは感じていたのですが、電話で怒鳴りながら歩いていたとか、やっぱりちょっと変だというのは、各地で目撃されていたりする。

 

そこまで無理して、表面的にはいい人を演じて精神が不安定になるくらいなら、常に“威張りキャラ”で通せばいいのに、と思うのですよ。

 

誰に対しても。あるいは“完璧にいい人”を演じようとせず、“多少気分に波はあるけど、まあまあいい人”くらいを目指していれば、逆に愛されたのではないかと。

 

 

他人事のように報道されてるけど、豊田真由子さんのような“二面性を持っている人たち”って、別に珍しくないじゃないですか。

 

さらに高度に、アシュラマンや十一面観音菩薩よりも多くの“顔”を使い分けている人たちもいますでしょう?

 

 

アシュラマンは悪魔超人であっても、“怒り”の裏の顔は友情に涙を流す熱い心がありましたが、“外向け笑顔”の仮面の下は鬼、という人たちは、程度の差こそあれ世の中にはかなりの数だと思います。

 

私の父なんか、外面はやたらいいけど、家の中では暴君ですし。怒鳴り散らす姿は、“男版豊田真由子(インテリジェンスのレベルは高くない)”という感じです。

 

だから外で無理して“いい人”を演じている分、家での姿(自分の思い通りにならないと暴れる)が本性なんだろうなあと思う。家族は迷惑でしかなく、誰も幸せにしないし、愛されることもありませんけど。

 

本当に、罵倒された秘書の方には(きっと他にもたくさんいらっしゃると思いますが)、心からお気の毒にと思います。

 

 

だけど「もうこういうこと(身内への暴力)はやってはいけないんだ」ということが広く世の中に共有されたということは、良かったんじゃないでしょうか。

 

 

運転中の秘書の頭を後ろから蹴ったとか、ひと昔前はそういうのはめずらしい話ではなかった。

 

もちろん、政界にもジェントルマンはいらっしゃるのですよ。だけどそれは、政界にしかいないわけじゃなくて、変な人もジェントルマンも、どこにでもいるということを私は言いたいのです。

 

 

政界で起こっていることは、どこでも起こっていることであり、特別な世界の特別な出来事では決してない。いじめが学校だけじゃなくて、職場でも地域でも起こっているように。

 

 

政治の世界しか知らなかったときは、なんて魔界だと思っていたけど、この世も結構魔界であり、魔物だらけだなあという理解に至り、ブログのサブタイトルに「魔界(永田町)歴15年」としていたのを、「政界(永田町)歴15年」と差し替えました。

 

 

政界は単に政界であり、魔界だと思っていたのは、それは私の価値観を挟んでいただけ。

 

 

まつりごとの世界は、スピリチュアルな世界だけじゃなくて世の中は、ある意味政界以上に闇が深いと思うほどですし。

 

 

例えば背が低いコンプレックスを権力欲で埋めようと政治家になる人がいたとして、自分のコンプレックスを“目に見えないものが見える”能力で埋め合わせようとするスピリチュアル好きな人と、自分の劣等感を何かで埋めようとするという、その両者の動機において、何に違いがあるんでしょう?

 

 

そして、どちらも一概にいい悪いではない。政治家になって、権威を得て自信を付けて立派にお仕事されたら、それは世の中にとって良いことであり、“見える”ようになった能力を使って人を幸せに導くことができたら、それはいいことである。

 

 

だけど不幸なのは、「政治家である」とか「“能力者”である」という、そういう自分に“付加価値”がなければ自分に自信が持てないという場合。

 

 

別に何があっても、何もなくても、自分のことが好きだという、健全な自己愛と自尊心がなければ、どっちもただの“バランスの悪い人”でしかありません。

 

 

一部だけを見て、全体を一緒くたに判断することも我慢がならないことのひとつです。

 

 

私は「政治家はバカばっかりだ」と言われたら、真剣に怒ります。だってバカじゃない、素敵な政治家を知っているから。

 

「スピリチュアル業界は(あるいは宗教界は)、汚い」と言われたら、そんなことはないと怒ります。本当に清らかで美しい活動をしておられる方々を知っているから。

 

その世界にいる全員がおかしいわけじゃないのです。それはこの地上にいる全員がおかしいわけでもなく、また清らかでもないのと同じことです。

 

 

政治が悪いとかスピリチュアルは意外と闇が深いとか、この世がおかしいとか、そういう短絡的な結論に至る前に、“天に唾する”よりも、自分自身の進化向上に努めること。

 

 

そして安易に“全体”を批判し自分が正義になったかのように語るのではなく、個別のいい人たちを見つけて知り合い、心ある人たちの美しい志がくじけてしまわぬように、支え励ましていきたいと思うのです。

 

 

黄泉の国のように思ってたけど、政治の世界はそんなに汚いだけの世界じゃない。それは同様に、他の世界も、この世自体もそんなに悪いわけでも、美しいだけでもない。

 

 

だからこそ、より良い方向へ変えていけるように、根強く持っていた悪のイメージを変えて、政治に前向きに働きかける人が増えたら、そんな明るい希望を心に宿して行動する人たちが増えたら、きっと政治は良い方へ変わり、この世はもっと明るくなっていくはずだと、本気で信じています。

 

 

 

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林檎絵:リンゴの国のあゆみさん林檎