死後の世界

 

神や守護霊や霊界という言葉を使うと、うさんくさいと思う人もいるでしょう。しかし、臨終の瞬間に虫の知らせを感じた人、憑依された人、除霊する人、気の力で病を治す人、予知をする人などがいるので、見えない力があることは否定できないと思います。

 

あなたの心だって、目に見えませんが、悲しくもなり嬉しくもなります海外では心霊捜査を行うところもあれば、日本では昔から結界を張って国を守っていました。エクソシストと戦う霊媒師や、不治の病を治す心霊治療家も世界中にいます。200桁の13乗根を1分ほどで暗算する人もいれば、マラソンを2時間ほどで走れる人もいます。それは能力あるいは使命の違いだと思います。何かの能力がある人とない人の区別について、なぜなのか説明できないからと言って、能力が存在しないわけではないし、その能力が一生続くわけではないのです。

 

亡くなった方は仏様と呼ばれますが、全ての人が成仏しているとは限りません。それは、悪事を反省できない霊と、被害を受けて恨みを捨てきれない霊がいるからです。そして、この世、あの世で一番強い力は、権力やお金や腕力ではなく、人の思念です。つまり、人に恨まれたり、人を恨んだりすると、相手だけでなく、自分を苦しめることになるのです。悪意を持って人を痛めつける人、反省できない人が地獄のような下層に引き寄せられるのは仕方がないことです。彼らを救うには、相当魂レベルが高くて霊力も強い人が必要で、そのような人は、世界中にあまりたくさんいないと思います。

 

しかし、被害を受けて恨みを捨てきれない人は、もともとの魂レベルが普通より高い人が多いので、善い言霊を響かせることによって、自力で助かってくれることが多いのです。

だから、私の使命は、そのような恨みの層に通じてどっぷりつかってしまう可能性がある人々に気づきを与えその人たちが自力で恨みを捨てられるようにお手伝いをすることだと思っています。

 

人はお互い影響を与えます。いじめ加害者とつるんでいると自然といじめに加担するようになり、ベジタリアンとつきあっていると、自分も野菜を食べる割合が多くなってきます。誰と一緒に時間を過ごすかが、自分の考えや行動に大きく関係するため、他人や自分に悪影響を及ぼす人から、すぐに離れなければなりませんそうしなければ、自分が加害者側となり、罪もない人を被害者にしてしまい、関係する人たちを深く悲しませてしまいます。

 

 

子孫に正しく生きてほしい

 

この世とあの世は、思念でつながっています悪意を持てば悪霊とつながり、恨みを持てば恨みの霊とつながります。愛と調和の思念を持てば、守護霊や神とつながります。引き寄せの法則と同じ、類は友を呼ぶ、です。

 

例を挙げましょう。

中学のとき、数人の生徒が、一人の生徒に重傷を負わせる事件が起き、被害者は数か月入院したそうです。加害者たちは初犯で14歳くらいだったので、しばらくして学校に戻ってきました。学校では、加害者にいつか因果応報がくるだろうとささやかれていましたが、彼らはすでに悪霊と同通していたのか、注目を浴びたことに得意になっているようにも見えました。

 

被害者と加害者にはそれぞれ、守護霊とたくさんの先祖霊たちがいます一人の人間の両親は二人、さらにその両親(祖父母のこと)が二人ずつ、と計算していくと、直系の先祖だけで、7代さかのぼれば254人います。計算しやすいように、1代が平均して20歳で子供を産んだと仮定すると、7代前は140年前となり、江戸時代です。このころの倫理観として、人様に迷惑をかけるとは何事か、という時代です。自分の子孫が人様に重傷を負わせてしまったとすると、自分たちの名前が汚されたと思うでしょうし、自分の子孫が理由もなく殺されかけたとすると、無念でしょう。加害者・被害者双方の先祖508人のうち、成仏している先祖霊たちは、お互いがこの事件をとても悲しく思い、加害者の命の火を早く終わらせたいと思ったはずです。猫を殺せば7代たたる、ということわざにもある通り、1人を痛めつければ500人以上の先祖霊たちの心情に影響するのです。

 

事件から6年ほど経って、私がたまたま病院に行ったとき、死相が見える人から声をかけられました。最初は誰かわからなかったのですが、名前を聞くと、中学時代の番長格の人でした。あまりの老衰ぶり、目が落ちくぼみ、頬はこけ、生気のない表情に驚きました。その人は、「自分は昔悪いことばっかりやった罰でね、もう死期が近くて。クリスチャンになったんだ」と言いました。死がいつ訪れるかわからない恐怖と諦めが漂っていました。宗教に入信すれば自動的に天国に行けるわけではありません。人を傷つけなかったか、幸せに生きたか、自分の使命を果たしたか、人を助けたか、それが天国に行くかの分かれ道なのです。

 

加害者は霊界で、守護霊や先祖霊たちの正しい心眼と同調したときに初めて、自分がした恐ろしい事件の責任を取らねばならないと悟るでしょう。非常に苦しい試練があると思われます。

 

縁の絆

 

私は我が子が赤ちゃんの頃、ベッドから落ちそうになる直前に、そばで昼寝していても瞬間的に目を覚まして子供を抱きかかえることがあったり、我が子が幼児になった頃は、子どもと同じ内容の夢(前世も親子だったような夢)を同じ時に見たりすることもありました。血肉を分けた我が子に関しては、特に感覚が研ぎ澄まされ、我が子を守りたい、幸せにしたいという気持ちが前世も今世も働くからだと思います。同様に、我が子がなぜ私を選んだのか、おなかのなかがどうだったのか、生まれるときはどうやって出てきたのか、私との絆の記憶を語ってくれたこともありました。もしあなたが親や子供との絆を覚えていなくても問題ありません。走馬灯を見たとき思い出します。

 

孫やひ孫が将来生まれるときがあれば、我が子同様に守りたいと思います。つまり我が子だろうが7代後の子孫だろうが、人として正しく幸せに生きてほしいと思います。もし自分がいつか霊界に召されたら、自分の葬式も墓もいらないけれど、子孫に望むことは、他人を傷つけるような人間にはなってほしくないし、どんなに苦しい目に遭っても、人を恨んで不幸になってほしくないということです。それが最高の供養だと思います。

 

あなたの7代前までの先祖254人のなかには、高い霊格者や強い霊能力の人々が一定数いたと思います。目に見えなくてもそばにいて、あなたがちゃんと正しい選択をするように見守っているのです。あなたが、おいしい、といってごはんを食べているときは、あなたが健康で豊かでよかったなあ、と目を細め、自分たちが貧しい時代を我慢して生きてきた甲斐があったと思っているはずです。あなたが苦しんでいるときは、困ったようにあなたの顔を覗き込んで、自分たちも生きてるときはつらかったことがあったなあと思っています。あなたが誰かを助けるときには、あなたを誇らしく思い、そうだよ、みんなこうしてつながっているんだよ、とほほ笑んでいます。あなたが嘘や悪口を言うときには、低い霊に囲まれたあなたを、少し離れたところから悲しそうに見ています体を持たない霊たちは、ものや体を使うのではなく、思念を使いますが、ただ私たちが彼らを見たり聞いたり触れたりできないだけで、あちらからは丸見えだと思われます。

 

自由と責任

 

愛するのも、憎むのも、傷つけるのも、恨むのも、赦すのも、無関心でいるのも、人間にはすべての自由があると同時に、その結果/責任が伴います。

理不尽なことをされて、悔しくて赦せない、そう思うのは当たり前です。でも、あなたが不幸にならないように、加害者から距離を置き、裁きは神に任せてください。あなたを傷つけない人と接点を持ち、自分を忙しくしてください。そして、中立な目で眺めてください。自分と相手の間に勘違いがないのか、なにかの因果応報という可能性はないのか、と。

 

幸せは争奪戦ではありません。みんながなれるものです。