幸福感の種類 | 自分で考えて生きる

 

可愛いホットケーキ合格爆  笑

 

誕生日が平日だったので、お仕事に没頭だったが

 

そんな私に夜に、手作りホットケーキケーキを作ってお祝いしてくれて

 

嬉しかった。

 

(後日、お休みの時に、自宅でサプライズパーティーをしてくれて

そんな気持ちがありがたかった)

 

ホットケーキのケーキを目の前に

生クリーム欲しいよねって話になって、

家族で仕事終わりの気分転換に

近所のスーパーにお買い物。

ワイワイ楽しい時間だった。

 

 

出来事のある世界で味わうこうした感情の楽しい気分のものは楽しい。

これはこれでありだなと思う。

 

 

 

触れる世界には・・・そうゆう表現から始まるしかないのだが

それは忽然と自然に起こる。

 

語彙がない。感情もなく、ただ平和で静かで穏やかで

誰もいないし、何もないのだが、寂しさがなく穏やかで、筆舌に尽くし難い経験が起こる。

 

経験が起こっても、それは自分にとって、一過性の幸福体験だと理解していて

 

どのくらい経験しているのかわからないが、そう思った時には、消えている

 

思うから消えるのか、消えるからそう考えられるのかは不明だが・・・

昔、知識では、得たことがあったが、忘れてしまったし、今となっては

どうでもいいと思うような知識になっていた。

 

波風がたたない平安な気持ちが持続する境地を手に入れながら

物理的に幸せに生きていくことは両立できるんだなと感じるようになった。

知覚のレベルでは知覚のレベルでの道徳理論と実際とを不調和にならないよう

実際と理論を調和して努力し

心の平穏を勝ち取るには、このレベルでの法則に即して練習して

会得していく。ぶつかることはないのだなと。

 

 

最近、気づくと訪れる、この幸福、確かに悪くないなと感じるようになった。

(求めていたはずだが、バランスの方が幸福には大事だなと思うに至ってからは

がむしゃらに実践して偏っていくみたいな動きから外れたからか・・・なるほどねと

思うようになった)

 

物理的次元で揃ったことで起こる幸福感って瞬間すぎて、満足が続かないし

ただお金や地位、立ち位置は、あっても邪魔になることはほぼなく

むしろ、生きていく上では、便利なものではあると感じる。

 

貧困でも、差別がなければ、助け合って楽しく生きていけるが

飢餓状態は話は別次元になるように思う。

 

「衣食足りて礼節を知る」的を得た言葉だし、事実だなと思うし

自分の器量で得られる衣食住になってしまうが

得てみる努力は最大限してしてみるべきかなと

思うし、大事だなと思う。

 

でもそれだけでは、満足というものは得られないので、怒りからの完全解放を

ダメ元でもあるけれども、目指さずには入れず

その道があるということが大前提になっている書籍を読んで

その思想・考え方にまずは、共感できるようなところから始めて

(それをすることで実際自分がどうなっているのか、よく検討)

 

怒りが湧いてこなくなるような境地を手に入れたいと思っている。

 

年齢とともに、会う数が多くなっていくから経験値も増えるからこそ

人間関係も期待できるものは非常に少なくなっていくのか

パターンが読めてしまうことも多い。

 

 

人間だったら、そもそも大小色々あるにしても、

誰しもが以下のことって経験する。

 

不愉快な経験

被害者的経験

胸糞悪い経験

 

上記のような他者の話をすることで

生じてくる幸福感に私は違和感を覚えるタイプだったこともあり

自分の幸福の質を上げられるような知識や自分の現実の質を上げられるような

考え方を勉強することに興味があってずっとしてきているのだが

 

人間の未熟さ故に犯した過ち故の過失による悲惨さや

人間の不幸な人生をヒソヒソ話しをして

仲間内でその種の話で湧く現象は、

人間の作り出す不幸を自分が経験している事象と対比して

自分はそうじゃないってことのギャップで起こっている幸福感なので、

幸福の質としては大分と低いように感じる。

 

甘いものを食べて幸福感を感じるのと同じで

その種の幸福感は、確かに、幸福感は感じれるのだが

非常に弊害が多いように感じる。

(甘いものを食べて得られる幸福感って

一定を超えると身体を病気にさせるなどして不都合が生じる)

 

そんな話を書いていて、思い出されるのは以下のこと。

 

来訪者にどれだけ自分たちが実は仲が良くないか話し、来訪者が帰った後で、誤解して

自分たちはどれだけ幸せかと相手が実感している姿を妄想し多大な幸福感を感じている

シーンに居合わせたことがあるが、どうゆうメカニズムだとそうゆうことで

幸福感を得られるにか、得ようと思うのか、全く理解ができないが

(虚言者側は、自分がその話をすると、きっと相手は家に帰って家族に話をして、

自分たちは幸せだねって思うだろうと予測して虚言するのだが)

 

そうゆう種類の幸福感しか、味わえない教育しか受けてこなかった不幸が

そこにあるのだろうと思うが、

でも、そんな寂しい幸福感で心を満たし満足なんかせずに

書籍の中にその糸口を探す努力をしてみたりしたらいいのになと思う。

(各人それぞれだけど)

 

人間はどんな状況だろうと教養が低かろうと

諦めずにお日様を見ようとして生きる方が私はいいなと思っている。

 

私などは能力も低く、特段才能や取り柄があるような人間でもなく

幸が多いのか少ないのかと物理次元の境遇を見ていった時に

そうゆう幸福感とは縁遠い薄い境遇だし、所謂、よくある一般庶民的

 

昔で言うなら、貧乏な農民みたいなものだが、

それでも、自分がいる立ち位置から見える、自由や状況

こうゆう風になれたら幸せなんじゃないかと感じたものに向かって努力し進んでいくことで

目指し始めた時の自分よりも、心も状況も幸福なっていっている状況を見て思うことは

怠けず頑張ってみることだなと思うに尽きる。

いいと思って始めたことでも、振り返ってみたら大きく見当違いで間違いの方向に

向かってしまったこともあったが、それは人間で未熟だからしょうがないしね。

 

他の家の夫婦喧嘩をヒソヒソ話題にして

語るその口元の笑みをみていると

それは確かに、幸福感を味わっている。

水を刺すように、人の不幸で沸かすお湯でお茶を飲んでも

沸かす火の素の質低すぎない??

もっと違うことで幸福を感じたくない??なんて言おうものなら

私たち人間は、誤解して、不快に思うに違いない。

でも、もっと幸福を求めてもいいんじゃないかなと思う。

 

自我って悪人ベースだから、悪人の私たちって

こうゆう種類の幸せしか味わってきてないし、自動的すぎて

違和感にも感じないのかもしれない。

 

子供の頃から人間が人間の未熟さから起こす不幸を題材にして

幸福を味わう人間の習慣、違和感でどうにか克服できたらいいなーって

思った、変わった子どもだったが、不幸で幸せを感じている姿を見ても

モチベーションが下がらず、多幸感高い境地は、日々の努力でこれまた

勝ち取っていけるのだろうと思う。

 

 

そういえば、

 

ものづくりなどをしていると、時間の外を経験するが、

終われば時間の中に戻ってくる

なので、極力したくないなーと思うことが多い。

 

楽しい経験だが、やらないといけないことが疎かになってしまうこともあり

時間の外に出る体験は楽しいが、時間の中に戻ってくるので、

結局歳月が過ぎてしまう現象の中になるので

時間の外に出る活動と時間の中で行う活動のバランス取りが大事だなと感じるに至る。

 

取り留めない文章だが、表現は楽しい。