過失を裁きで対処しない生き方を定着させていく実験 | 自分で考えて生きる

感情的には怒りから解放されたいと願いつつ

 

現場は結構大変なものだ。

 

怒りから自由であるのは、夢かもしれないとさえ思えてくる強敵である。

 

徳川家康の遺訓にも、堪忍は無事長久の基怒りは敵と思え

 

とあるけど、堪忍の徳を育てるのは、思うのは簡単だけど

 

自分の習慣にしていくには、大変な道だなと思っている。

 

でも、育っていくのも事実で、私などは、堪え性もない性分だから

 

堪忍の徳は丈夫に育っていかないし、生育不良かなーと思える有様だが

 

頑張っている!!とは思う。爆

 

堪忍の意味を辞書で調べると、相手の過失を我慢して許すことという意味だが

 

我慢で許すと、精神衛生上不衛生になるなと私は感じるので

 

無罪性の視点から眺めて自分の信じている信念の妥当性を疑っていけるようになるための

 

怒りの考察視点の方が好みだ。一番納得できる回答でもある。

 

相手は確かに間違えているし、その過失を責めることは妥当だし正当性もある

 

でも、それをしても、攻撃性から自由になれないし、自分も過失を犯して

 

人から誹謗を受けて落ち込んでみたいな物語をずっとみても、面白みに欠けると感じる。

 

人の過失を冷笑、蔑視、陰口、糾弾、叱責(激しいことも多少の皮肉の差はあるとしても)は

スカッとする経験となるので、手放すのが大変な経験だが

 

個体の人間同士のレベルで、この経験をとらえていては、一向に怒りからも罪悪感からも

自由になれない。

 

この次元で見ると、自分の怒りには、正当性があるし

この野郎と本気で思えることばかりだからだ。

 

罪の種類の形は色々あるが、自分が悪くないのに、10、0の割合で

 

こちらが悪者になる経験って、真面目に胸糞悪いこと極まりない。

 

相手の狡さを暴いて悪意を木っ端微塵にしてしまうことも考えるが、

 

本人に言って、謝ってもらっても、とにかく、きりがない。

 

自分がこうゆう経験をした時よりも、自分の友人がこうゆう目に遭った場合、

 

泣き寝入りなどせずに、こてんぱん。

 

でも、とにかく、相手が認め謝ってもきりがない。

 

なんせ、罪悪の物語だから。

 

ひっくり返していく技を覚えて、このひどくつまらない物語から

 

抜け出していくために物語を使う人生にシフトしたことは

 

とにかく嬉しい。

 

私的には、非常にこうゆう話や世界観が好物なのだが

 

ビジネスの業界では、余りこうゆうことに関心がある人がいない特徴も

 

非常に面白い一つだ。世界って面白い!!