自分で考えて生きる







アメンバー申請の際、メッセージを表記させていただいているのですが、それでも面識のない方から申請を
多くいだだくのでこちらに表記させていただいています。

アメンバー限定記事は、個人的な経験について書き綴っているため、セッションを受講してくださった方など
交流のある方でないと理解できないことも多いため、数年以上交流があるような方を対象とさせて戴いています。 ご希望に添えず申し訳ありませんが、予めご了承ください。






        本当の意味で健全な心の修養ができる成長の階段を一歩ずつ。


怒りは、基本的に、加害と被害の構図の関係の中でしか湧くことができないし

俯瞰している状態では、怒りは、怒りとして感じるより

むしろ、マグマ??なんかよくわからないけど

噴き出るような・・・流れがすごい川のような・・・

感情というよりも、何かの流れ??エネルギーと表現があっているのか??

そんなのように感じる

概念になっていない意味付けされてない状態だと扱いやすいが

(意味付けされてないが、不快感を感じる圧のようなものの時は

扱いやすいが、)「怒り」と認知するといき、(そこまでいっているとき)

反転させるのに非常に筋肉が必要になってしまう。

 

心の平和(平和ってだけだと私には陳腐に感じてしまって、どちらかというと

全く波風立たない心の状態)を実現させる系の本の中に

 

実質的に区別がなくなった時、究極の忍耐となり、その忍耐により

それが可能になってくるという話が書かれているのを読んで

 

結局、練習をずっとやっていて思うのは

コースのテキストなどの中にも書かれていたが

あなたの一番の応答となるまで練習し続けなさい。

そうなるまでやり続けなさい。という言い切りで書かれていたが

 

そうゆうことに尽きる。忍耐力がついた時にも、微動だにしなくなのは

 

至極当然なことだし

 

または、信じていることをひっくり返す作業をし続けれることで

 

今まで信じてきたことと真逆のことを信じれるようになった瞬間

 

感じ方が変わってしまう原理も頷ける。

 

試験勉強の本の中で

 

覚えてきたことや勉強してきたことで立ち向かえる問題なのだと

 

書かれていたが、どんな勉強も、同じだなと。

 

 

加害と被害の構図から解放された視界で見れるようになるのも

日々の努力でしかない。

 

カフェで本を読んでいたら、耳に入ってきた話から

私が思ったこと、人間って一生こうゆう話を

話して感じて、終わっていくことが主の動物なのかなーとも思った。

(こんな終焉まじかになっても、こうゆう種類の内容をするのかーと)

 

私は、それを手放していく話に興味があり、

信じているものを変えていく努力で感じ方が変わったことで

経験する体感を話していくことに興味があるので

聞き飽きてしまった話なのでそれ自体に興味が持てない話ではあるのだが、

逆に、自分が10代の時に友達と主の話の内容だった話を

もうすぐ人生終了のフェーズに入っても飽きないで

話せていることに、そうなんだ!!ってびっくりした。

 

 

高級老人ホーム内のカフェだったので

お金に全く困らない人生を構築しても

人間って自分の心の中にある敵味方がある状態を

無くしていかなくても、幸せに感じて

生きれてしまうもので、へーーと思う。

違和感に感じる人と、そうじゃない人がいるんだなーー

 

確かに、衣食住に困らないって状態だったり

心の中に色々葛藤(争い)があっても、物理的な友達はいたり

すると、特段困っているわけではないから、あまり興味が持てない

ということもあるのかもしれない。

 

中には、経済的に恵まれても、友人に恵まれていても

必ず経験する嫉妬心や虚無感や私たち人間の生き方全般

そんなものに違和感を感じ

獰猛さや偏見、軽蔑に向き合うことに興味を持つ人もいる

 

 

自分の親(自分が他界寸前な訳で既にこの世に存在していない存在)が

嫌いだったそうで理由は自分の言ったことを聞いてくれなかったことが

気に入らなかったらしいようだったが、もうすぐ、自分と思っているものとも

お別れの時期に入っているのに、すでにいなくなってしまった存在が

自分に対してとってきた態度(えこひいきの態度が気に入らなかった)を

理由に恨みを心に所持し続けるメリットはなんだろう。

 

被害的感情は人を嫌いにさせる

してもらえなかったから嫌い。

嫌いなのは結構だが、ずっと恨みが自分の心に残こしている。

 

恨みってそんなに魅力的な感情なのだろうか

恨みを所持していると、どんないいことがあるのだろう。

なくなると軽くなって、その自由感がいいんだけどなー。

 

世の中って狂った物事で溢れている。

怒ったところで、信念が深まるだけで、

心が重くなるばかり

 

どれだけ、間違った行動をする人に腹を立てても

相手は間違っていても気にならないし平気なのだから、タイミングではないし

外にある生じる過失や罪にいちいち叱責しても、罪悪感が相手も居心地悪くなって

自己正当化を見るばかり。

 

長い目で見たっ時に

中に罪を見て、中処理していく術は、外側の悲惨な状況をもっと戦場にしていくより

マシな戦術のように思える。

 

 

 

 

 

 

緑って癒される。

 

赦しを実践していて思うこと

 

心の贅沢だなーーって

お金では手に入れることができない、この贅沢

恐怖がなくなっていく贅沢

 

欠乏から解放されていく贅沢

楽しいし豊かだなと改めて思う。

 

自我の知覚を手放しても幸せに生きていける、この事実に感動する。

怒りは罪悪の投影という言葉をストッパーにして

内面へのアクセスしていくことをやり続けるだけでも

心の平和が確立していくこの感じ、面白い。

 

 

現実面も、結局、努力していくことで、形が作られていく様も

こう努力するのかが、見えるのは嬉しい。

 

世界の仕組みを学べる機会が多く

あらゆるレベルで学べる。

 

 

話を合わせたりしなくていいことを

豊かさに感じていた昔、とても豊かなように感じたが、練習して

その習慣を打破できると

次なる幸せや自由が待っていて

そうゆうことかーーって次の学びがあって

 

学び成長していくことは本当に尽きない。

 

あっという間に人生も終わってしまいそうだが

今を懸命に貪欲に学んでいきたい。

 

 

逮捕しない姿勢におかしいだろうーと声をあげている市民が捉えられ

 

悠々と入国するプーチン大統領

 

この世界らしいなーと。

 

「衣食足りて礼節を知る」で結局道徳や約束も生存が確保できている時だけで

 

その多くが、こんな事情を呈しているのが常識なのだろう。

 

自我としての私たちが作る世界は、全てが、こうゆうことを軸とした

 

関係性が主だということに腹も立たず、そうだよね。と思えるようになったのは

 

訓練して進歩したなーと思う。

 

自分とも、他者ともお別れする日がくる中で、

 

色々なことを罷り通らせる自分を経験していくのは大変が気分がいいのだろうか

 

後悔する時とは、多分自分が落ちぶれたり、制裁を受ける立場を経験することが

 

なければ、反省もないし、振り返りもないし、単に気分がいいだけで、制裁するのは

 

大体が難しい。極端で反感をかうようなやり方だと、映画で表現されているような

 

罪を犯す=罰せられるという経験もあるかもしれないが、そのまま逃れてしまえることの

 

方も多いように思う。

 

背に腹はかえられないモンゴルかーー。

 

これを見て真似する人が多くなるのか、反面教師にしていく人が多いのか・・・

 

ドラマで表現される、〇〇社長は、法の上にいる方なので・・・を

 

ドラマではなく目の当たりにみることになるとは衝撃。

 

国レベルでそれをしているって・・・。

 

 

 

可愛いホットケーキ合格爆  笑

 

誕生日が平日だったので、お仕事に没頭だったが

 

そんな私に夜に、手作りホットケーキケーキを作ってお祝いしてくれて

 

嬉しかった。

 

(後日、お休みの時に、自宅でサプライズパーティーをしてくれて

そんな気持ちがありがたかった)

 

ホットケーキのケーキを目の前に

生クリーム欲しいよねって話になって、

家族で仕事終わりの気分転換に

近所のスーパーにお買い物。

ワイワイ楽しい時間だった。

 

 

出来事のある世界で味わうこうした感情の楽しい気分のものは楽しい。

これはこれでありだなと思う。

 

 

 

触れる世界には・・・そうゆう表現から始まるしかないのだが

それは忽然と自然に起こる。

 

語彙がない。感情もなく、ただ平和で静かで穏やかで

誰もいないし、何もないのだが、寂しさがなく穏やかで、筆舌に尽くし難い経験が起こる。

 

経験が起こっても、それは自分にとって、一過性の幸福体験だと理解していて

 

どのくらい経験しているのかわからないが、そう思った時には、消えている

 

思うから消えるのか、消えるからそう考えられるのかは不明だが・・・

昔、知識では、得たことがあったが、忘れてしまったし、今となっては

どうでもいいと思うような知識になっていた。

 

波風がたたない平安な気持ちが持続する境地を手に入れながら

物理的に幸せに生きていくことは両立できるんだなと感じるようになった。

知覚のレベルでは知覚のレベルでの道徳理論と実際とを不調和にならないよう

実際と理論を調和して努力し

心の平穏を勝ち取るには、このレベルでの法則に即して練習して

会得していく。ぶつかることはないのだなと。

 

 

最近、気づくと訪れる、この幸福、確かに悪くないなと感じるようになった。

(求めていたはずだが、バランスの方が幸福には大事だなと思うに至ってからは

がむしゃらに実践して偏っていくみたいな動きから外れたからか・・・なるほどねと

思うようになった)

 

物理的次元で揃ったことで起こる幸福感って瞬間すぎて、満足が続かないし

ただお金や地位、立ち位置は、あっても邪魔になることはほぼなく

むしろ、生きていく上では、便利なものではあると感じる。

 

貧困でも、差別がなければ、助け合って楽しく生きていけるが

飢餓状態は話は別次元になるように思う。

 

「衣食足りて礼節を知る」的を得た言葉だし、事実だなと思うし

自分の器量で得られる衣食住になってしまうが

得てみる努力は最大限してしてみるべきかなと

思うし、大事だなと思う。

 

でもそれだけでは、満足というものは得られないので、怒りからの完全解放を

ダメ元でもあるけれども、目指さずには入れず

その道があるということが大前提になっている書籍を読んで

その思想・考え方にまずは、共感できるようなところから始めて

(それをすることで実際自分がどうなっているのか、よく検討)

 

怒りが湧いてこなくなるような境地を手に入れたいと思っている。

 

年齢とともに、会う数が多くなっていくから経験値も増えるからこそ

人間関係も期待できるものは非常に少なくなっていくのか

パターンが読めてしまうことも多い。

 

 

人間だったら、そもそも大小色々あるにしても、

誰しもが以下のことって経験する。

 

不愉快な経験

被害者的経験

胸糞悪い経験

 

上記のような他者の話をすることで

生じてくる幸福感に私は違和感を覚えるタイプだったこともあり

自分の幸福の質を上げられるような知識や自分の現実の質を上げられるような

考え方を勉強することに興味があってずっとしてきているのだが

 

人間の未熟さ故に犯した過ち故の過失による悲惨さや

人間の不幸な人生をヒソヒソ話しをして

仲間内でその種の話で湧く現象は、

人間の作り出す不幸を自分が経験している事象と対比して

自分はそうじゃないってことのギャップで起こっている幸福感なので、

幸福の質としては大分と低いように感じる。

 

甘いものを食べて幸福感を感じるのと同じで

その種の幸福感は、確かに、幸福感は感じれるのだが

非常に弊害が多いように感じる。

(甘いものを食べて得られる幸福感って

一定を超えると身体を病気にさせるなどして不都合が生じる)

 

そんな話を書いていて、思い出されるのは以下のこと。

 

来訪者にどれだけ自分たちが実は仲が良くないか話し、来訪者が帰った後で、誤解して

自分たちはどれだけ幸せかと相手が実感している姿を妄想し多大な幸福感を感じている

シーンに居合わせたことがあるが、どうゆうメカニズムだとそうゆうことで

幸福感を得られるにか、得ようと思うのか、全く理解ができないが

(虚言者側は、自分がその話をすると、きっと相手は家に帰って家族に話をして、

自分たちは幸せだねって思うだろうと予測して虚言するのだが)

 

そうゆう種類の幸福感しか、味わえない教育しか受けてこなかった不幸が

そこにあるのだろうと思うが、

でも、そんな寂しい幸福感で心を満たし満足なんかせずに

書籍の中にその糸口を探す努力をしてみたりしたらいいのになと思う。

(各人それぞれだけど)

 

人間はどんな状況だろうと教養が低かろうと

諦めずにお日様を見ようとして生きる方が私はいいなと思っている。

 

私などは能力も低く、特段才能や取り柄があるような人間でもなく

幸が多いのか少ないのかと物理次元の境遇を見ていった時に

そうゆう幸福感とは縁遠い薄い境遇だし、所謂、よくある一般庶民的

 

昔で言うなら、貧乏な農民みたいなものだが、

それでも、自分がいる立ち位置から見える、自由や状況

こうゆう風になれたら幸せなんじゃないかと感じたものに向かって努力し進んでいくことで

目指し始めた時の自分よりも、心も状況も幸福なっていっている状況を見て思うことは

怠けず頑張ってみることだなと思うに尽きる。

いいと思って始めたことでも、振り返ってみたら大きく見当違いで間違いの方向に

向かってしまったこともあったが、それは人間で未熟だからしょうがないしね。

 

他の家の夫婦喧嘩をヒソヒソ話題にして

語るその口元の笑みをみていると

それは確かに、幸福感を味わっている。

水を刺すように、人の不幸で沸かすお湯でお茶を飲んでも

沸かす火の素の質低すぎない??

もっと違うことで幸福を感じたくない??なんて言おうものなら

私たち人間は、誤解して、不快に思うに違いない。

でも、もっと幸福を求めてもいいんじゃないかなと思う。

 

自我って悪人ベースだから、悪人の私たちって

こうゆう種類の幸せしか味わってきてないし、自動的すぎて

違和感にも感じないのかもしれない。

 

子供の頃から人間が人間の未熟さから起こす不幸を題材にして

幸福を味わう人間の習慣、違和感でどうにか克服できたらいいなーって

思った、変わった子どもだったが、不幸で幸せを感じている姿を見ても

モチベーションが下がらず、多幸感高い境地は、日々の努力でこれまた

勝ち取っていけるのだろうと思う。

 

 

そういえば、

 

ものづくりなどをしていると、時間の外を経験するが、

終われば時間の中に戻ってくる

なので、極力したくないなーと思うことが多い。

 

楽しい経験だが、やらないといけないことが疎かになってしまうこともあり

時間の外に出る体験は楽しいが、時間の中に戻ってくるので、

結局歳月が過ぎてしまう現象の中になるので

時間の外に出る活動と時間の中で行う活動のバランス取りが大事だなと感じるに至る。

 

取り留めない文章だが、表現は楽しい。

 

 

 

怒りから解放されたら、どんなに幸福だろう。

怒りについて考察をくれそうな本を色々読み続けているが

 

読んだ時は、触発され、怒りへのどの考察も励ましとなり

取り組みも容易になる

 

昔は、読むもの、触れるもの、全部、そうなんだと

鵜呑みに信じていた自分だったが、

これだけ情報が取れるような時代になったこともあってか

自分の頭でよく考えられるようになった。

そうゆう時代なのだろうとも思う

 

ネットが普及して、何でも検索すれば情報が出てくる。

出てこない情報がないんじゃないかってくらい、瞬時にわかる。

 

 

今の自分から見たら、

ニューエイジ思想にどハマりしていた頃は

あれは、スピリチュアル娯楽だったなーと。

 

慣行農法・有機農法・自然農法で例えるなら

 

有機農法を行っている人や自然農法を行っている人それぞれ

慣行農法を蔑視している姿を見た時の私の感想は

 

偏りだった。

 

いちごの差し入れに対して、

「有機農法のいちご??」

「普通のイチゴってめちゃくちゃ農薬かかっているんだよね」と

言っている人を目にして、人が好意で持ってくてた品物に対して

相手の好意が見えなくなって、農薬=人体に有害=悪=叱責対象となるほど

善悪に傾いて、それ以外を排他してしまうことに

陥ってしまうほどの信仰は、人間関係を壊す要因となりうるし毒だなと感じた。

 

いい情報のように見えるものでも、それ以外が悪になってしまう考え方に

なる考え方は、結局、形が違うだけで、内容は同じで心は平和というよりも

思想上敵味方を作ってしまい、物理的な味方も敵としてしまう。

 

心は中立のところにいられるようにした方が生きやすくのどかで穏やかで

幸せである。

 

衣食足りる生活をしつつ、好きなことを専攻して自分の日常で実験してみて

どんな感じか試してみる。

 

 

怒りからは、自由の身になっていた方が、生きやすい。

 

隠蔽ではなく本当に生じてこない状態になったら自由感はすごいだろうなと思う。

だから、無理のない速度で、練習が一番。