「おらが町」の元市民球団。 | 大石よしのりオフィシャルブログ Powered by Ameba

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誠意・敬意・熱意をモットーに、希望の種を蒔き続けています。
大石欣則

かつては、「おらが町」のサッカークラブ、市民球団だった、ヴィッセル神戸

2003年に累積赤字42億円で民事再生となり、楽天の三木谷氏が救済。

そこから、稼げるサッカークラブへと様々な施策を講じてきた。

で・・・市民球団から営利企業へと変わり、ボクの応援する気持ちも萎えてきたという次第。

~概略と歴史

1966年創部の川崎製鉄水島サッカー部1987年に川崎製鉄サッカー部に改称)が前身となり[1]1997年にJリーグへ加盟した[1]。ホームスタジアムはノエビアスタジアム神戸[1]、練習場はいぶきの森球技場である[1](詳細は#スタジアム・練習場を参照)。

チーム名の「ヴィッセル」は、英語の「VICTORY(勝利)」と「VESSEL(船)」を合わせた造語[1]。「勝利の船出」を意味し、国際港湾都市・神戸をイメージ[1]。神戸市民の夢を乗せ、勝利に挑戦し続けるチームである事の誓いもこめている[1]

マスコットは神戸・兵庫に馴染みの深い、をモチーフとした「モーヴィ(MOVI)」[1]。牛の鳴き声「モー」と勝利「ヴィクトリー」を合わせた造語。

1995年

1月1日、ヴィッセル神戸としてスタートした[1] が、練習初日であった1月17日阪神・淡路大震災が発生し[8]、選手らは岡山県倉敷市のグラウンドで初練習を行った[7](2月6日)。なお、神戸市内の練習場「いぶきの森球技場(旧)」は1995年7月に完成した。また6月に後にクラブの象徴的存在となり、「ミスター神戸」と称されたFW永島昭浩が加入した。

運営会社の筆頭株主だったダイエー(資本金10億円のうち、50%を出資)が震災の影響から3月に撤退した。当時強化部長だった安達貞至がスポンサー獲得に奔走、5月31日に運営会社の商号を株式会社ヴィッセル神戸に変更。ユニフォームにも白と黒のストライプにオレンジのラインが襟と袖に入っていたがダイエー撤退に伴い、オレンジからエメラルドグリーン(ヴィッセルブルー)に変更した。

1996年

リーグ後半戦となる16節を前に当時現役デンマーク代表ミカエル・ラウドルップが加入[9]。最終節でNTT関東に3-1で勝利したことで、ジャパンフットボールリーグ(JFL)準優勝[10]、1997年シーズンからJリーグへ加盟した[1]

1997年

リーグ第2節の名古屋グランパスエイト戦では永島昭浩が2ゴールを挙げ、チームはJリーグ初勝利を挙げた[11][12]。同年、Jリーグ史上初のフェアプレー賞(高円宮杯)を受賞した。

1998年

韓国代表FW金度勲を獲得し、永島との強力2トップを要したものの、シーズン途中には16連敗を喫するなど低迷。J1参入決定戦で札幌を下して何とかJ1残留を決めた。

1999年

は監督に川勝良一が就任。2ndステージは7位となり、2016年に更新されるまで長年クラブの最高順位記録だった。

2000年

DF海本慶治がクラブ初の代表選手に選ばれた。2ndステージは連敗が続くなど苦しい戦いながらJ1に残留を果たした。この年限りで永島が現役を引退した。

2001年

京都を退団したFW三浦知良、MF望月重良、DFシジクレイ、清水からMFサントスらが加入。神戸ウイングスタジアムのこけら落としとなった試合ではクラブ史上最多の3万813人を動員した。

2002年

横浜から城彰二、G大阪から播戸竜二らを獲得するも、1stステージでは5連敗を喫するなど低迷し、川勝が辞任し後任にコーチを務めていた松田浩が昇格する形で就任した。2ndステージ開幕前にFWオゼアス、MFアリソンを獲得。最終節で清水を下しギリギリで残留を果たした。

2003年

新たに副島博志を新監督に迎え、公式戦3連勝スタートを切ったが、1stステージ第14節大分戦ではワースト記録となる8失点で敗れるなど、年間通して多くの失点を喫する(リーグワースト63失点)。それでも終盤にカズ、播戸らの活躍で最終節を待たずして残留を決めた。

ダイエー撤退後、メインとなるスポンサーは現れずに苦しい経営が続き、毎年赤字を計上。Jリーグ昇格1年目の1997年末時点での累積赤字は約25億円[要出典]1998年シーズン終了後には伊藤ハムがユニフォーム胸スポンサーから撤退。この補填のため神戸市から9億円の無利子融資を受けたが、条件としてチームのリストラを要求される他、運営会社も減資を行い年間予算も13億円まで大幅に切り詰めた。[要出典]

母体企業を持たない神戸の年間予算は他クラブと比較しても少なく、年間入場者数も伸び悩んだ為、不足分を地元自治体である神戸市からの単年度貸付に拠らざるを得ない経営が続き、年度ごとに額を増やしながら借入を繰り返した。[要出典]2003年12月15日、運営会社の株式会社ヴィッセル神戸は東京地方裁判所民事再生法の適用を申請した[13][14]。累計赤字約42億円で神戸市からの無担保融資は約15億円にのぼった。[要出典]

2004年 - 2005年

2004年

1月14日、兵庫県出身で楽天の代表取締役である三木谷浩史が代表を務める株式会社クリムゾンフットボールクラブ(2004年1月5日設立)が2月1日付でチームの営業権を譲り受けた[13][14]。神戸市はチーム運営から撤退し、スタジアム使用などの側面支援を行う事になった。神戸市の株式会社ヴィッセル神戸に対する最終的な債権額は11億6500万円。ほとんどが神戸市からの貸付金であり回収不能となった。[要出典]

イワン・ハシェックが監督に就任。2002 FIFAワールドカップトルコ代表FWイルハン・マンスズが加入したが、イルハンは出場は3試合にとどまり、シーズン途中に自らの希望で退団。2ndステージ開幕直前には、元東京Vのパトリック・エムボマ鹿島アントラーズから平瀬智行、チェコの名門FKテプリツェからMFパベル・ホルバトらを獲得するなどテコ入れをおこなった。クラブは下位にとどまったが、播戸がリーグ戦17得点をあげ、得点ランキング3位タイとなった。

運営会社は楽天ヴィッセル神戸株式会社(旧・株式会社クリムゾンフットボールクラブ)である[2]。2004年に同社が設立された当初は合同会社クリムゾングループ楽天代表取締役三木谷浩史の個人資産管理会社)からの全額出資であり、楽天からの出資は無かった[5] が、2014年12月楽天が運営会社の全株式を取得した[6]

Jリーグから開示された2021年度の経営情報で、J1神戸の営業収益は前年度比35・5%増の63億8900万円だった。

観客数制限が長期化し、入場料収入は4億8600万円(前年度比15・2%増)と、12億円を超えていたコロナ禍前に大きく及ばなかった。