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誠意・敬意・熱意をモットーに、希望の種を蒔き続けています。
大石欣則

 これは支援者であり、同志の「谷川しゅんき 」氏より寄稿いただいた、文章です。

 谷川氏は、日本維新の会徳島2区より、落下傘候補として記者会見までされたにも関わらず、公示前に断念されました。

 その思いを綴るというよりは、政治と真っ直ぐに向き合った記録でもあり、みんなの党への愛情溢るるメッセージでもあります。



いつもみんなの党がいた。
「みんなの党の方々に教えられたこと

-衆議院選挙のある顛末記」
 
谷川俊規
 http://www.facebook.com/ishintanigawa

 公示から4日経った日の夜、私は大学時代の同級生から電話を受けた。毎日放送のアナウンス部副部長という役職を持つ彼からの電話は、日本維新の会の衆議院候補辞退からまだ十日にもなっていない時期だけに取材の電話の可能性もあった。しかし、違った。電話の向こうからの話の趣旨は「まさかマスコミ出身のお前がマスコミにやられるとはなあ。残念や」というもの。私と同じく、マスメディアで25年以上働き続けている彼にとって〈ネット上の中傷でこれ以上戦えなくなった〉という辞退理由は相当なショックを与えた様子だった。私は、彼にあることを伝えた。それを聞いた彼は「そう言ってくれるのは本当に嬉しい。お互い頑張ろうや」と言って電話を切った。

 それにしても、慌しい日々だった。9月の半ばに、日本維新の会が国政に乗り出す、というニュースを聞いたときは、他人事だった。ただ、“もし、公募があれば出てみたいな”と漠然とは思った。だから、日本維新の会の衆議院候補募集ニュースには気を配った。維新塾へ行っていない私にもチャンスがあるなら、という思いだった。そうやって新聞を見続けているうちに、「みんなの党」と「日本維新の会」の目指す政策がほぼ一緒なのを私は理解した。ただ、党が出来てから数年経つ「みんなの党」が私のような、どこの者とも知れないものにチャンスを与える公募をするとは、素人なりにありえない、と思った。そして、なぜだか知らないが「日本維新の会」なら、そういうチャンスがある気がした。

 私の予感が的中するのは、10月に入ってから。「日本維新の会」が維新塾以外の者でも受け入れる二次募集を発表したのだ。心が騒いだ。つまらない組織内のごたごたで前の職場から追われるように出る形となり実質、無職となっていた私にとって、状況も味方しているように思えた。まさに、自分の「維新」と思えた。

 10月25日に、石原慎太郎氏が東京都知事を辞任して国政を目指す、というニュースをテレビで見た時も、やはり他人事。それより、衆議院議員の候補に応募するには、政策の勉強におさらいと思っていた。地方主権で、原発のない社会を目指すぐらいの感覚はきちんとあったが、より細かい部分での補足が必要に思えた。そこに、「みんなの党」の井坂信彦さん(現衆議院議員)のFACEBOOKのページから、同党の江田憲司幹事長の神戸講演へのお誘いがあった。今の国政の状況とみんなの党と日本維新の会の関係を正確に把握したかった私には渡りに船ともいうべき誘いとなった。

 江田幹事長の話を聞きに行ったことで、私の政治に対する姿勢は鮮明になった。ともかく、官僚に任せる政治は終わりにさせなければいけない-漠然と思っていたことだが、「みんなの党」の方々となら同じ方向性でやっていける、と話を聞き終わって確信した。当日、江田幹事長が「11月末までに、維新とは政策を一致させて発表する」というのも心強く聞こえた。簡単に言うと、みんなの党と日本維新の会は合流すると私はこの日、思い込んでしまった。

 思い込んだら行動。締め切り日の11月1日に「日本維新の会」の衆議院候補公募に応募し、続いてFACEBOOK上で友だちとなって下さっていた「みんなの党」の神戸市会議員団団長の大石よしのりさん(現神戸市会議員)に連絡を取った。折り良く神戸市議会報告書のビラ配りの日程とサポート募集を告示してられたのだ。

 11月の5日から10日にかけて、3日間、JRの須磨、須磨海浜公園、鷹取の3駅で1時間半ずつ50年を越える人生で初めての政党のビラ配り。簡単に、「来てくれれば助かります」とメッセージを頂けたのにも驚いたが、規模の小ささにはもっと驚かされた。考えれば当たり前のことなのだが、選挙活動でもないビラ配りをするのに政党が車を出すことなどない。人数も、大石さんを除くと女性の手伝いの方がひとり入っているだけ。それに私が加わる形となったのだが、政治関係のビラを配るのが華やかな形になるわけがない、という発想が私には欠けていた。政治家は金持ち、という勝手なイメージもあった。約2ヶ月経った今では、あり得ない発想なのだが、マスメディアで長年働いていた私でさえそうなのだ。政治家の言動が日々の地味な活動から作り上げられていることなど一般の人はほとんど知っていないと言っていい。何度も言うが、その当たり前の事実を、自分が参加することによって私は知った。

 結局、11月21日に畠中光成さん(現衆議院議員)をサポートしたJR西宮駅と合わせ、4度「みんなの党」の方々のビラ配りの手伝いをさせて頂いた。すべてにお世話になった大石さんに言われるまでもなく、単純に配るという作業でさえ、慣れが必要。私が配ると、持っているビラが減らない。最初の須磨では90分間で20枚も配れなかった。他の場所では、それに比べれば少しはましだったが、似たようなもの。「あんたなんや」みたいな形で敵意を見せる方と顔を合わせることがなかったのが唯一の幸運、という感じで、とても戦力になったとは言い難い。マスメディア出身とはいえ、アナウンサーではない私にとって人前で声を出すというのも簡単なことではなかった。それでも、「こうやればいいんですよ」と事あるごとに教えてくださった大石さんの厚意には、いくら感謝してもし過ぎということはない。

 ビラ配りに参戦させて頂いていた間に、「日本維新の会」の公募は進んだ。11月10日に一次選考に通過した連絡が届いたのに続き、17日には大阪で一次面接があった。報道陣が異様に多かったのは、同じ日に、同じ場所で、石原慎太郎さんの「太陽の党」と「日本維新の会」との合流が正式に発表されたためだったが、この時点ではまだ私には他人事だった。しかし、翌日、18日に再度、面接に及んだ時には、合格どころでなく、いきなり「兵庫9区から出てくれないか」と言われてびっくりした。嬉しさなど通り越していた。考えられないことが起こった、という感じだった。それでも、冷静に「兵庫9区なら出ません」と私は答えた。ここの自民党議員の磐石さ、を素人なりに私は知っていた。「じゃあ、どこなら出られる?徳島や広島でもいいか」と言われ、両親の故郷である淡路島と橋でつながっている徳島の鳴門市のある徳島2区を私は選んだ。選ぶや、その場で党の人(松井一郎幹事長だったと思う)と握手され、「頼んだよ」と言われ、誓約書にサイン、とこの間、10分もあったか、どうか。舞い上がっていた、といえばそれまでだが、ついさっきまで「面接にどうやったら通るかな」と考えていた人間が、「日本維新の会」の衆議院選挙公認候補者にあっという間に成り上がったのだから、平静でいられる方が不思議だと思う。

 それからのことは、あまりに稚拙な選挙活動をした、ということだけは記すが、それ以外は改めて書かない。「みんなの党」で戦っている方々にとって、どれもあり得ない笑い話にしかならないからだ。ただ、「みんなの党」の方々がいてくださったおかげで、もっと世間に笑われたに違いないところが食い止められたのは事実だと思う。

 インターネットに虚偽を記載した私の中傷記事が出されてから3日後、公示日の5日前にあたる11月29日に私は出馬を断念した。

この際も、私は「みんなの党」の方に、救いとなる言葉をいただいている。夕方の6時過ぎに最終的に決断したのだが、その報告を「みんなの党」の徳島でのただひとりの県会議員である森本尚樹さんに、真っ先におこなった。私が立候補断念を告げると「それはいい選択だ」と、電話口からでも心底そう考えてられるのが分かる声で私に応答してくださった。「何をやってるんだ」と怒られても当たり前と思っていた私には、同じマスコミ出身者で、勝手に親近感を覚えていた森本議員の声で本当に救われる気がした。そして翌日、朝一番に「日本維新の会」に立候補辞退をよどみなく伝える力を間違いなく与えて頂けた、と今も思っている。

 断念を決断した夜。日が変わろうか、という時刻に徳島市内のホテルの部屋でテレビを付けた私の目に、ニュースを読むアナウンサーの顔が飛び込んできた。頬がこけた、中年というには少し年配のアナウンサー。この文章の書き出しに登場する、同級生のMBSのアナウンス部副部長だった。ニュースは、近畿地方のローカルなもので、華やかさなど間違えてもない。それを、見た瞬間、私は“仕事しなけりゃなあ”と思った。そしてそれは、「みんなの党」の方々が、市政だよりや党のビラを淡々と配られるのを、自分も参加することで目のあたりにした時に感じたのと同じ思いだった。

 文章の初めに戻る。私は、アナウンサーの彼に徳島で見たテレビニュースのことと、その時思ったことを素直に伝えた。同時に、この文章で、「みんなの党」の方々にそのことを改めて伝えたい、と思った。何事も、誰が見ていようが、見ていまいが地道にやる。そこには抜け道も楽な方法もない。簡単に、「日本維新の会」から公認をもらったことで、そんな当たり前のことを忘れかけた私を、まっとうな道に戻してくださった、という意味でも、「みんなの党」の方々がいてくださる重みを今、私は感じている。ありがとございました。そして、今後もよろしくお願いいたします。(了)




 このように、組織も団体も企業も宗教も関係のない、しがらみのない、みんなの党。

 駅立ちやチラシ配布、結構全国の同志も実行しているんです。

 「第三極の風」で当選したと思われがちですし、実際にそうかも知れません。

 だからこそ、シッカリ選挙区に根を張り、市民のみなさんや市政と向き合っています。
 

 これからも・・・ずっと。
「神戸は、きっともっとずっと素敵になる。」
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神戸は、きっともっとずっと素敵になるメラメラ
神戸市会議員
みんなの党神戸市会議員団 団長

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