万葉集に登場する防人が戦っていた相手とは誰だったのか!
ご先祖が受けてきた歴史を無駄にしてはいけません!
対馬の方はこの歴史をご存知なのでしょうか?
対馬はほんとに歴史的に蹂躙され続けてきた島なんです。
(これら、高校日本史で習うのでしょうか?参考書を見てみましたが載っていなかったです。)
そして、この頃から朝鮮半島の背後には大陸があったのです。
朝鮮の日本侵略
779年、新羅の日本への朝貢
新羅は国内が崩壊へとすすむなか、日本へ御調(みつき)朝貢(=服属を表す朝貢)をする。
811年-813年からの新羅の入寇
朝貢によって北九州の防備が手薄になり、油断したところに、新羅王は国家としての海賊行為の
命令をくだす。
同時期に新羅人集団が商人や漂流者、帰化、難民になりすまして毎年のように来寇しています。
新羅船の20艘余りは五島。小値賀島・対馬佐須浦に入り、
放火、略奪、強姦をおこない そして…島民を捕縛・拉致した!
820年、弘仁・新羅の乱
新羅王は遠江・駿河に移配した帰化人を煽動し反乱を煽ります。
新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼く。
もともと帰化人は博多などに土着して本国と違法な交易をすることを目論んでいました。
それを見透かされ、東国に移されたことを逆恨みしていました。
捕らえられた北九州の民人は大陸の都市部で奴隷市にかけられ、他は新羅王に献じられた
これ以降、反乱が度々おこります。
869年 貞観の入寇 新羅海賊が博多を襲撃
豊前の年貢の絹綿を略奪し、民人を拉致する捕縛した賊の1人が言い放つ
「対馬島を伐ち取らんが為なり」
870年2月 再来するも見事に撃退
878年~879年 元慶の乱
新羅人約300人~500人が秋田城下12村を襲撃
884年 新羅船の対馬襲撃 45艘
893年 寛平の韓寇
「新羅の賊、肥後国 飽田郡 に於いて人宅を焼亡す。又た、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」
畜生・獣にも劣る所業であった。
唐の関与、もはや疑う余地なし。
894年
唐人も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が襲来し、
※ ちなみに遣唐使が廃止された年ですね。
906年 延喜の新羅の賊
最後の新羅寇 連年の飢餓、内乱による崩壊寸前の新羅が最後の海賊行為を試みる
997年 長徳の入寇 (支那系朝鮮国家高麗による)
九州全土を4年にもわたり略奪と殺戮の”地獄”に変えた”高麗の入寇”すなわち
”長徳の入寇”である。
長徳三年(997年 )、高麗人が、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う 。
民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。
生きたまま手に穴を空けられ、数珠のように繋がれて、船に吊らされ、捕虜として連れ去られた。
被害の全容が筑前筑後薩摩壱岐対馬に及ぶ。
数百人の拉致。
1001年、賊は鎮圧されるが公家は権力闘争にあけくれ、尽力した官僚や九州の豪族への
恩賞はなく、”私闘”と淘汰される。
1019年 刀伊の入寇
<対馬の被害>
有名な対馬銀山も焼損し、被害は、対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人
(うち男102人、女・子供244人)であった。
またこの時連行された人の内、270人ほどは高麗に救助され、対馬に帰還した。
<壱岐の被害>
壱岐では壱岐守藤原理忠も殺害され、島民の男44人、僧侶16人、子供29人、女59人の、
合計148人が虐殺された[3]。さらに、女性は239人が連行された[3]。壱岐に残った民は、諸司9人、
郡司7人、百姓19人の計35人であった。
なお、この被害は壱岐全体でなく、壱岐国衙付近の被害とみられる。
記録されただけでも殺害された者365名、拉致された者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。
女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったという。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2858.html
女真族(刀伊)を頂点としながら、9割以上が朝鮮半島の人たちで構成される集団だった
ということです。
1274年 1281年 元寇
文永の役はほぼ高麗人で構成されたと言われていますよね。
もともと保身のため、元に日本を攻めるようそそのかしたのは高麗王。
元・高麗あわせて三万の大軍が対馬、壱岐を蹂躙しますが、博多には上陸できませんでした。
そのときの神風についてですが、文永の役では暴風雨はなかったそうです。
本国である元に報告する際にねつ造したというのが最近の通説だというのです。
日本側の「八幡愚童記」の記録には嵐のことは一行も触れられていないそうです。
それどころか「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見当たらなくなったので驚いた」と書いて
あり、元・高麗軍が早々退散したということが実態なのかもしれません。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3238.html
文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)
https://blogs.yahoo.co.jp/correct_history_of_japan/12515413.html
高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻は、14世紀末から15世紀初めにかけて行われた、高麗、李氏朝鮮
正規軍による対馬への侵攻。倭寇の根拠地と目された対馬(壱岐も目標とされた)を攻撃することで、
その根絶を図るというのが口実であった。
1419年 応永の外寇
応永の外寇(おうえいのがいこう)は、日本史の時代区分では室町時代の応永26年(1419年)
に起きた、李氏朝鮮による対馬侵攻を指す。対馬の糠岳(ぬかだけ)で戦闘が行われた事から
糠岳戦争とも。
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上記記事はこの動画を参考にしました。
繰り返しになりますが、動画より文字おこしをしましたので掲載します。
そして、日本が国家体制を盤石にしていく最中、大陸情勢は大きな転換期を迎えようとしていたのだ…
かつて、新羅と共に日本を睥睨(へいげい)した、則天武、「唐」
その唐王朝も、玄宗以降、衰退の一途を辿る…
唐の武官、安禄山と史思明の反乱…幽州に挙兵した反乱軍 常山、洛陽、南陽、長安
ことごとく陥落し、群雄割拠
かつて唐に領地を奪われ、苦渋に耐えていた諸外国もこの機に乗じ、唐へ侵攻
そして皇帝、玄宗は失意のうちに世を去る。
一時はウイグル国の支援により、長安を奪回するも、唐は二度と浮かび上がることはなかった…
そして、唐の弱体化は半島にも暗い影を落とす…
新羅はこれまでの対外政策で百済・高句麗を討つ為、唐の臣下となり…
百済・高句麗を攻め滅ぼすや、邪魔になった唐を急遽攻め、唐を半島から撤兵させ…
渤海と対立し、危うくなるとまた唐の許しと庇護を請う…
こういった辛辣極まりない振舞いをおこなって極端な利己政策を執ってきた。
だが、渤海に唐との接地を断たれ、唐が衰退し、庇護を受けられなくなり、日本や渤海の脅威に晒され、窮地に立たされる…そして、新羅は大陸の史思明・史朝義と結ぼうとするが、返書が来ることはなかった…
紫 渤海
水色 新羅
一つは新羅を国家として認めていなかった事。二つは唐やウイグルとの戦いで、半島を相手する余裕がなかった。返書無き理由と推測される。
渤海国は遣日使(遣倭使)を、日本へ派遣し、律令国家への礎を築こうとする。
渤海の始祖は、かつて倭と友好関係にあった、百済の扶余と同族であった為、相互関係は比較的良好であり、それがさらに新羅を恐れさせた。窮した新羅は、かつての行為の赦免と国交を日本に求めた。
この新羅の赦免懇願と、国交要求に対し、朝廷の返答は厳しいものであった。
・新羅王族より人質の差し出し
・大陸への朝貢から日本への臣従。
(※王位任命権の放棄)
・太宰府を通す、交易の際の許可の申請。
体裁を気にしないこの新羅は日本の要求を受け、朝貢を行う。
これにより、渤海との交流に、新羅が割って入る構図となった。
朝廷は渤海より新羅を格下とする。が、これが後に日本に災いを及ぼすこととなる…
国交の回復により、半島から極端な差別を嫌い、一部の流民が九州は入り、帰化した。
その帰化人に日本は、口分田を与え、寛大に遇した。
新羅も暫くは、大人しく日本朝貢をおこなったが、遂に本性を露わにした。
新羅・国王は貿易条項の緩和、さらに新羅を渤海と同格に列せるよう、朝廷に要求してきたのであった!
これに対しては、渤海や朝臣の藤原仲麻呂、藤原永手らの反感を買う…
渤海の要請により新羅討伐案が朝廷内で議論され、上奏された。
帝への上奏文によれば「属国であるにも関わらず、非礼だる。」としている。
しかし国内にて氷上 塩焼らによる、恵美の乱が勃発した為、新羅討伐は延期となる。
そして国交を断たれた新羅は逆恨みし、一時的に勢力を盛り返してきた唐より、再び柵封を受けた。辛辣外交の再開である。
かつては私欲を剥き出して、日本を睥睨し、危うくなれば日本に赦免を請い、日本と渤海政府との国交に割入り、調和を乱した…
恵美の乱勃発によって、辛くも討伐を免れた新羅は、さらに根拠の無い逆恨みをし、報復を考えるが、「新羅一国では戦にならない…」
唐を頼ろうにも、国力が衰えて内外の戦乱が激しく、半島情勢に構ってもらえない…
新羅そのものも、恵恭以来、熾烈な王位争い、国家経済の破綻により、国家統制も危うい…
そして一つの愚策を弄した…
海賊行為を公的な国家事業とし、推進する!
『日本紀略』弘仁4年3月18日の条による
悪名高き新羅王の命令による流民や罪人による海賊行為。
かつては「新羅の賊」と呼ばれた、新羅の入寇である。
憲徳→→(王の命令が下る)→→金雄元
この野蛮極まる王の命令に、流民と悪党で構成された朝鮮の土人たちは喜び勇み、北九州は押し寄せる!
(811年~813年)新羅の入寇。弘仁の韓寇である。
新羅からの朝貢以降、北九州の防備が薄くなっていた。
この不意打ちによって、防人たちは撤退を余儀なくされた…
新羅船の20艘余りは五島。小値賀島・対馬佐須浦に入り、放火、略奪、強姦をおこない
そして…
島民を捕縛・拉致した!
対馬を脱した防人たちは、国府軍と合流し再び救援に駆けつけた。
駆け付けた国府軍が目にしたものは、骸の山…
既に女や子供をさらい、目的を達した新羅軍は早々に退散していた…
これに味をしめた新羅王は日本に帰化させた新羅人を煽動し、反乱を煽った!
弘仁11年(820年)弘仁新羅の乱である。
遠江・駿河に配置した帰化人700人が党をなして叛いた。
朝廷からの田畑を拝領した恩に、仇で返したのだ!
「人民を殺し屋舎を焼く」と記された乱民は、やがて伊豆国の穀倉を破り船を盗むなどをした。
国府軍は人海戦術でいぶり出し、鎮圧。
帰化人には田畑と生活費が与えられたが、土人はおそらく博多などに土着して本国と違法な交易を目論んでおり、それを見透かされ東国へ移されたことを逆恨みしたものと推定される。
新羅人の侵略への対策
朝廷は早急に防備を強化す。
事後の対策として新羅語の通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように大量にやってくる新羅人集団を尋問できるようにし、796年以来途絶えていた”弩師”を復活させるなどした。
捕らえられた北九州の民人は大陸の都市部で奴隷市にかけられ、他は新羅王に献じられた…
朝廷はこの一連の入寇によって悟りを得る…
かつれ亡命を受け入れ、恩に報いた土着の”扶余系朝鮮人”と斯盧人を祖とする”支那系の(新羅人)土人”では全く異なることを…
この鮮人の残虐非道な行為と、侵略を阻止すべく、弩師を復活させこの後の”貞観の韓寇”を迎えることとなる…
貞観・寛平・長徳
そして刀伊の入寇へ。
次の動画からもメモしました。
869年 貞観の入寇 新羅海賊が博多を襲撃
5月 対馬の漁師らによる訴えで現地の深刻な状況を知る
小野春風の派遣
6月 貞観の入寇
豊前の年貢の絹綿を略奪し、民人を拉致する
捕縛した賊の1人が言い放つ
「対馬島を伐ち取らんが為なり」
870年2月
再来するも見事に撃退
878年~879年 元慶の乱
藤原保則
小野春風
坂上好蔭(坂上田村麻呂のひ孫)
藤原保則
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%9D%E5%89%87
夷俘が蜂起し、秋田城を急襲
新羅人約300人~500人が秋田城下12村を襲撃
884年 新羅船の対馬襲撃 45艘
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さらにこの動画からも少しメモします
893年 寛平の韓寇
北九州は 新羅人による略奪破壊密航がますます酷くなっていた
文屋善友 対馬の守
田村高良
数えきれぬほどの新羅人の急襲や対馬の侵略に手を焼いた
先人の教えを忠実に踏襲した政策
遣唐使船の派遣中止・新羅との国交を完全に絶つ
そして
→ 「延喜の治」へと平和をもたらした。
906年 延喜の新羅の賊
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最後に、動画についていた興味深いコメントがありましたのでメモ。
こういうことした後、必ず日本は私軍を編成してボコボコにしてるんだけどね。
そのやり方がすさまじい。
家族を殺された男達が船にのって朝鮮半島に乗り込む。何事かと思って朝鮮人がやってくると日本兵がまずやったことは、自ら乗ってきた船を焼き払ったこと。
あっけにとられる朝鮮人に向かってようやく日本兵は刀を抜き、突然切りかかる。
そして、自分たちをやった奴らはどいつだと問い答えられなれば殺す。村から完全に人が消えるまでただ殺す。そして、次の村に進軍する。朝鮮兵も来るがもはや死を覚悟した日本兵には太刀打ちできず、返り討ちにする。財産すべてわたすからと言っても、略奪が目的ではないので交渉の余地はなく殺す。
こうして、幾多の村を壊滅させ、自らの村を焼き払った張本人の領主を見つけると夜襲をかけ討ち取りその一族すべての首をならべて目的が達成されたことを確認すると数名の生き残ったものは皆満足そうに笑って、腹を切ってそこで自害したという。
釜山など日本に近い半島南部では人のいい日本人を何度もだまして嘲り笑っていたら、その場では日本人は何もせずとぼとぼと帰るのだが、その村の人が忘れたころにその日本人はやって来て、夜が明けてみると村人全員が惨殺されていてだまされた日本人もそこで自害していたという話が普通にたくさんのこっている。ただ、韓国人は自分たちがした非道を後世にちゃんと伝えないので、日本人は野蛮と馬鹿にし、そして、ぶちぎれさせ同じ目に会う。日本人の方は覚えているので、さらにエスカレートしてやり返されるのだけれども。
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http://blog.livedoor.jp/waninoosewa/archives/1397160.html
万葉集に登場する防人は本当は韓寇(新羅)と戦っていたのではないのか?
現在の対馬です↓