秀吉が朝鮮出兵した本当の理由 | 日本が良くなりますように

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アメンバー記事は完全な個人的メモとして使おうと思います。メモなので面白くないと思いますが、保守思想でスピリチュアルに抵抗のない方限定で見てもらってもいいです。コメントはお返事等できない場合もあります。


6年生になって歴史が始まりましたが、案の定、歴史の教科書、色々突っ込みどころが満載です。

まぁ予想通りなんですが。


「授業で江戸時代に入った」と言っていたので教科書で周辺をぱらぱらめくってみました。

とりあえず、目にとまったおかしいところ。



豊臣秀吉の朝鮮出兵について:

教科書ではもうろくした秀吉がまるで自らの野心のみの理由で朝鮮へ出兵したかのような記述。

実は秀吉は日本を外国の脅威から守り、外国から侵略されないために朝鮮へ出兵したのです。

当時の覇権国家スペインのことです。


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ねずさんのブログより

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1582.html

上記サイトを出来れば全部読んで頂きたいのですが、長いので概略を述べ、紹介したいと思います。



豊臣秀吉は晩年、朝鮮半島へ攻め込みました。文禄、慶長の役です。


ちなみにそのとき日本と戦った李舜臣はヒーローでもなんでもありません。
釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑んでいますが、あえなく敗退し、露梁海戦(ろりょうかいせん)では、明国と朝鮮の連合軍の指揮を執りながら、日本軍の圧倒的な戦力の前に、戦死しています。
李舜臣によって、日本が海上補給路を断たれたという事実は、どこにもありません。


文禄の役




そもそも、仮に秀吉が耄碌爺であったとしても、当時の日本は、江戸日本も含めて、

各藩がそれぞれ独立した国家を営んでいたのです。

耄碌ジジイの世迷い事で、大枚をはたいて朝鮮までノコノコ出ていくおバカな大名は、全国どこにもいません。


領地がもらえなくても、それぞれの大名は、商業による貨幣経済によってかなりの富が蓄積できた

わけです。あえて、戦争など、誰も好き好んで行うものではありません。


実はそこには、当時のアジア情勢という国際政治が大きく影響していたのです。
そしてそういう国の内外の事情を理解したからこそ、

東北の大名たちまでもが、秀吉の朝鮮出兵に前向きに協力し、兵を出しているのです。


二度にわたる秀吉の朝鮮出兵(文禄、慶長の役)は

16世紀における東アジアでの最大の戦いです。

日本約16万の大軍 対 朝鮮と明国の連合軍は、戦力25万の大軍

(関ヶ原の戦いにしても、東軍7万、西軍8万)

いかに朝鮮出兵の規模が大きかったかがわかります。


当時の覇権国家はスペインです。

世界の8割は、スペインの植民地であり、
スペインによってまだ征服されていなかったのは、東亜では、明国と日本だけでした。

日本に宣教師のフランシスコザビエルがやってきたのは、天文18(1549)年のことです。
当時のスペイン宣教師というのは、表向きの役割はキリスト教の伝道ですが、

裏では立派な軍事組織を持つ、僧兵軍団です。


実際のキリスト教の伝導とは異なり、

それぞれの国民に受け入れられやすそうな調子の良いことを言って改宗させ、

頃合いを見計らって、軍隊を送り込み、人民の殺戮や財宝の強奪、

ひいては植民地占領をしていたのです。


日本が他の国々と違っていたのは、

彼らが持ち込んだ鉄砲という武器を、日本人はまたたくまにコピーし、それを量産、
日本の鉄砲所持数は、なんと、世界全体の半数を占める莫大な数

になってしまいました。

宣教師フライ・ルイス・ソテロらは

鉄砲の数が圧倒的で、とても軍事力で日本には敵わない、ということ。
だから、「福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向ける」

という意味が含まれている内容の上書をスペイン国王に送っています。
(※ねずさんのブログに詳細あり)


こうしてスペインは、日本での布教活動に、まず注力していきます。

スペインは日本だけでなくお隣の明国も、植民地化を狙っています

こちらは、鉄砲をコピーするような能力はなく、単に人海戦術、つまり人の数が多いだけです。
ただ、大陸は広く、その調略には手間がかかる。

ちなみに当時のスペインにとって、朝鮮半島は対象外です。
朝鮮半島は、明国の支配下だったわけですから、明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。
それだけのことです。


スペインは、当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に、一緒に明国を奪わないか、と持ちかけています。ところが日本には、まるでそんなことに関心がない。


そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、国内に治安を回復するかにあったのです。

ところが、日本が秀吉によって統一され、なんとかその治安と太平を回復すると、

今度は、対明国への対策が大きな課題となってきます。

海を渡ってくるスペインが攻めてきたとしても数が少なくなり、日本のほうが有利です。しかし、


スペインが明国を植民地として支配下におさめると、スペインに支配された

明国兵が、数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできたら、これはたいへんなことになる。



元寇の再来です。これは驚異です。
となれば、その驚異を取り除くには、


スペインよりも先に明国を日本の支配下に置くしかない。

火力、武力に優れた日本には、それは十分可能なことだし、

万一明国まで攻め込むことができなかったとしても、


地政学的に朝鮮半島を日本と明の緩衝地帯としておくことで、

日本への侵入、侵略を防ぐことができる。


スペインの誇る無敵艦隊が、英国との戦争に破れスペイン自体が海軍力を大幅に低下し、
海軍力で日本と戦端を交える可能性は、まずありません。

秀吉は日本に太平の世を築くために必要な刀狩りを実施し、日本の庶民から武力を奪っています。

同時にこのことは、もし日本が他国侵逼の難にあったときは、日本の戦力を大きく削ぐことにもつながってしまうのです。

ならば、武力がまだ豊富なうちに、余剰戦力を用いて、朝鮮出兵を行ない、朝鮮から明国までを日本の支配下に置いてしまうこと。これは我が国の安全保障上、必要なこと、であったわけです。


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同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行なっています。

何をしたかというと、

スペインに対して、日本に臣下としての礼をとれ!

と申し出たのです。

最初にこれを行なったのが、

文禄の役に先立つ1年前、天正18(1591)年9月
秀吉はスペインの東亜地域の拠点であるルソン(フィリピン)総督府に、原田孫七郎を派遣し、


「スペインのルソン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手渡します。

世界を制する大帝国のスペインに対し、真正面から堂々と「頭を下げて臣下の礼をとって入貢せよ」などとやったのは、おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。
まさに、気宇壮大というべきです。


対するスペイン総督府にしてみると、これはきわめて腹立たしいことだけれど、すでに無敵艦隊が消滅し、海軍力を大幅に低下させている現状にあっては、日本に対して報復的処置をとれるだけの力はありません。悔しいけれど、放置するしかない。

すると秀吉は、その翌年に、朝鮮出兵を開始するのです。


海を渡った朝鮮出兵ということは、いつ、ルソン島のスペイン総督府に日本が

攻めて来てもおかしくない。
慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。これがマニラの日本人町の始まりです。


さらにスペイン総督府は、同年7月には、ドミニコ会士の宣教師、フアン・コポスを日本に派遣し、秀吉に

友好関係を樹立したいとする書信を届けています。
このとき、膨大な贈物も持参している。

いかにスペインが日本をおそれていたか、ということです。


けれど秀吉は、そんな贈り物くらいで騙されません。
重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡します。
その内容がすさまじいです。


スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、マニラにある

スペイン総督府は、日本に臣下としての礼をとれ


というのです。

そして、それがお嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ、

このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ


というのです。

この秀吉の書簡を受け取ったコポスは、帰路、遭難します。
さて、コポスの遭難のおかげで、秀吉の書簡は、スペイン総督府には届かなかったわけですが、

当然のことながら、


スペイン総督府からの返書もありません。

けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉ではありません。


秀吉が確実に書簡を総督府に届けさせるためにマニラに派遣した原田喜右衛門がいます。
(文禄2(1592)年4月)


在マニラの

支那人約2000人が一斉蜂起して、スペインの総督府を襲いました。
スペイン兵は、応戦しますが、多勢に無勢です。
これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、またたく間に支那兵を

殲滅してしまいます。


日本強し。
原田喜右衛門らの圧倒的な強さを目の当たりにしたスペインのゴメス総督は、

日本の強さに恐怖します。
翌文禄3(1594)年4月に、新たにフランシスコ会士の

ペドロ・バウチスタ・ベラスケスを特使に任命し、日本派遣します。


名護屋でペドロと会見した秀吉の前で、ペドロは、

スペイン王国が、いまや世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。


けれど、秀吉は聞く耳を持たない。
ペドロに対し、

重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請します。

秀吉が、ここまでスペインに対して強硬だった理由


第一

国際関係において、対等な関係というものは存在しないのです。
この時代における国際関係というのは、やるかやられるか、つまり上下の関係しかありません。


第二

もし、秀吉が中途半端に「対等な関係」の構築を図ろうとするならば、スペインは当然のごとく

平和特使と称して宣教師を日本に派遣します。
そして宣教師たちは、日本の内部から切り崩し工作を行なう。

(まさにいま支那や韓国によって行なわれている日本解体工作と同じ)
現に、世界のあらゆる国家が、その方法でスペインの植民地に

されていたのです。

第三

秀吉が目指したのは、あくまでも「戦のない世の中」であったということです。
ならば、日本国内に武器を持たない平和な国を実現するためには、国際的な武力衝突の危険を

日本から出来る限り遠ざける必要がある。

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ところが、慶長元(1596)年のことです。
スペインの貨物船、サン・フェリーペ号が、荷物を満載したまま遭難し、土佐の浦戸に漂着したのです。
救助され船員があきらかにした事実があります。

サン・フェリーペ号の水先案内人が、取り調べの増田長盛に世界地図を見せ、


「スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次は軍隊を送り、信者に内応させて、その伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」と証言したのです。

報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン26人を逮捕しました。
そして彼らを長崎に送りました。
キリシタンを続けたいなら、外国へ出て行け。
日本に残りたいなら、改宗しろ、というわけです。

迷う26名に対し、長崎のイエズス会は、この26名の死罪を長崎奉行に申し出ます。
磷付にして、晒してほしいと、申し入れたのです。

イエスズ会の腹はこうです。
26名の信者を、イエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に

行くことができたと宣伝する。

こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ、侵攻による団結心をたかめる。



要するに秀吉の朝鮮出兵は、スペインによる東洋の支配に対して、統一国家をやっと形成した日本が、いかに国を護るかを考えた上での決断であった、ということです。


もし、秀吉が朝鮮出兵を行なわず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、どうなっていたか。
スペインは、当然のことながら、明国を植民地としての支配下に置いたことでしょうし、当然のことながら、朝鮮半島も、スペインの支配地となったことでしょう。

そしてスペインの支配地となることが、いかなる意味を持つのか。
そのことは、南米の様子が、見事にまで現代に伝えています。

いま、南米に南米人の純粋種は存在しません。
白人種との混血種だけです。

アルゼンチンやウルグアイでは、先住民族がほぼ完ぺきに抹殺されてしまいました。
このエリアの女性たちは、手当たりしだい強姦されたあげく、子を産む前に殺戮されたのです。
ですから、いま住んでいるのは、ほぼ白人種です。

ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアは、全員が、先住民族との混血です。
純血腫はいません。
強姦され、放置され、子を産み、いまに至っています。

日本も支那も朝鮮も、それぞれに純血種を保ちながら、いまに至っています。
なぜそうなったかといえば、秀吉たちが、スペインと真っ向から戦う姿勢を明確に見せたためです。

ちなみに、慶長の役は、秀吉の死去にともなって、中止となり、日本は朝鮮半島から撤収しました。
だから、これは秀吉の気まぐれでおきた戦争だというのは、大きな間違いです。
半島に出兵した大名たちは、それぞれに真剣に戦ったのです。

ではなぜ日本が撤収したか。
こたえは簡単です。

スペイン自体が、英国やオランダに押されて、国力を低下させ、

もはや東亜に構っていられなくなったのです。

わたしたちは、いま、スペインという世界最強の大帝国に対し、一歩も退かず、

むしろ臣従せよと迫った秀吉の壮大な気宇と誇りを、いまこそ見習うべきときに

きているのではないでしょうか。

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短く紹介しようと思いましたがやっぱり面白かったので

結構、長々となってしまいました。



何か疑問におもったらねずさんのブログで検索してみたらいいかもしれません。


↓こちらも参考にご覧下さいm(_ _ )m


日本の植民地化を防いだ偉人・秀吉と家康