いつもアシスタント参加している絵本ピクニックにて
算数パフォーマー上野真弓先生を招へいしての
特別講座がありました。
フェルトボールさんすう。

講師が素晴らしきエンターテイナー
特にこども向けはそうこなくっちゃね~^^

先生が、親が、楽しそうにやっていてこそ
ナニナニそれ?と子どもが
興味を示しヤル気をだす(かもしれない)もの。

おべんきょうって
机に向かって眉間にシワ寄せてやるものじゃない。
大人がそう思い込んでいるのだとしたら
うけてきた教育の弊害だわきっと。

知るって、学ぶって、本来とっても楽しい
クリエイティヴな営みだよね。



で、数的センスをみがくのに大切なのは

・量の感覚を実感、実体験でつかんでいること
・生活に根ざした、数に関するまなび

ということで
カラフルなマグネット付きフェルトボールを
ホワイトボードにぺったんべったんして
簡単な計算などを。

おとなもこどももたのしい、この感覚。
計算というよりもうアートとの境界領域。
もはやボードが表現ツールとなって
その表現におのおの個性があらわれていましたよ。


ツールやかかわりを工夫することで
こどもの可能性は無限にひろがり進化するね~
親との距離感
のつづき、母編。

昔から大キライだった父とはちがって
母とはずっとそこそこ仲がいいと思ってきました。
一緒にお買い物、こそ
母自身が引っ込み思案だからこそないけれども
にこにこ話のしあえる、ひと。

…が、逆に近年あやしい~


彼女は幼少より学業優秀みめうるわしく
マドンナと周囲からあこがれられ
家庭が貧しいゆえ進学はままならず就職、数年で結婚退職。
いつも家にいて何でもやってくれたよね。 
わお!ザ・良妻賢母。

それでも、だからこそ、重かったのかもしれない。
そんな「いいお母さん」を疎む感情があるなんて
父への強い感情の陰になって気づかんかったよ。


そういえば
幼いときから通わせてもらったあれこれの習い事や
高校や大学への進学に
母の潜在的な願望をかなえている一側面も感じていた。

何をするにも決めるにも父に依存し頼りない様子には
歯がゆさを勝手に感じていた。
(当の二人はそれでバランスとれて仲良しなんだから
いいじゃんね?)

本来しっかりして能力がありながら
夫に子どもに依存的に生きる
(と私が勝手にラベリングした)母をみるにつけ
ああはなりたくないと思い続けた。


母のようになりたくない。
なんで私は女に産まれたんだろう。
男だったらもっと自立して生きていけたのにと
自らの女性性を否定して男らしくがんばった。

ま、要は心の奥底でバカにしてたのね母のことを。

そんなもんで
社会人になりストレスかかった時には
わかりやすく婦人科系を患い
そしてうつになったよ

私はあなたみたいに
なれない、ならない、なりたくない!という
心の叫びを、病気になることで主張する。


そこから
両親に愛があったことを受け容れ
女性らしくあることを受け容れ
何でもジブンデ!でなく
家族に支えてもらうことを受け容れ
夫と張りあうのでなく
違いをみとめ支えあうことを受け容れ


いまやすっかり女性としての今生を謳歌していますわよ。
むかしは全く似てないねと周囲にいわれつづけた母に
外見や言動もなんとなく似てきたような気がする。


そうして関係が落ち着いたと思っていたところ
父なき後に、認知症ゆえ出るわがままや強気が
急に娘たちに向かってきた
これまで40年見てきた母はマボロシ?!と動揺する。

その後さらに時を経て
もうすっかり大人しく老いた母に
ホッとしつつも心配になりつつも
不潔感にまた「ああはなりたくない」と思う。

気持ちのやり場をどこに持っていったらいいのやら?
相手が隣のおばさんと思ってみれば
気持ちよくやりとりできるのに、ねえ。

まだ結論でてません~現在進行形。
息子は、お父さんにもよくなついている
というかむしろお父さんの方が好き。

父子のかかわりがとてもいいのです。
優しくしっかり向き合って遊び
叱るときはきっぱり。
感情にまかせて怒ることは絶対ない。

ともするとキレ気味になりがちな母と
どちらを選ぶかといったら、
そりゃあねえ。

両親ともそばにいるとき

あれやって~
これやって~
抱っこ~
これ遊ぶ~
片づけて~

全部おとうさんに。
まるで執事と思っているかのよう。

甘やかしてもいないのだけれど
それはそれは上手に甘えてる。

「自分は両親にめいっぱい愛されて育った」感を
心の器いっぱいに溜め込んでいっているところ
ではないかしら。

ゆくゆく健全な自己肯定感を高くたもち続けて
生きていくことにつながっていくことと
期待しています。
どうなるかわからんけどね。


してもらったことは、真似っこしてみるから。
ときどき息子も、チチ/ハハの執事。
うん、それもわるくないね。
実家が急に空いてからもう二年余り
まだまだ絶賛お片づけ中。

さすがにナマモノ、服、本など
とっかかりやすいものはだいぶ減らしましたが

重要書類、大量のアルバムに大物いろいろ
やっかいだけどいちいち目を通して分別保管が
必要そうなものが残っています。


人のもののお片づけって大変ね。
もう、家一軒丸ごと逆さにしてふって
全部ゴミ箱にいれちゃいたい!

と同時に

あまりに物がもったいなくて
毎回、切なくてたまらない気持ちになるの。
ありすぎて使われなかった物ばかり。

たんす4つ5つ分の洋服や
布団や毛布類10数枚ずつ
新品箱入りのまま30年以上たった引き出物たち
食器棚2つ以上のお客様用食器
etc…

何人家族のもち物よ?!
老夫婦2人だけでしたのよ。


行き先がちがえば
かわいがって使い倒されたであろう
素敵なものたちが
しまいこまれたまま古びて
一生を終えてしまった。

娘たち(姉と私)の引き出物も
熨斗つきのまましまわれていました。
両親にこそ、使ってほしかったのにね。
あーあ。


でも年をとって介護しながら
断酒離だのときめきお片づけなんて
そりゃできないよね。


そんなことを思いつつ片づけていると

あ、うちだってあのいい食器、まだ出してない。
帰ったら出して普段使いしよう。

と突然思い出したり

何十年前の思い出に突然トリップしたり。

感情が脈絡なくあちらこちらへひっぱられる。


そんなわけで実家のお片づけは
感情がいちいち揺れ動くし実際身体も動かしで
やたらエネルギー消耗します。
家に行くのにも気合いがいるさあ。


どうせあの世にはなにも持ってゆけないんだよ。
ものは、それに関心のない人にはただのゴミ同然。

ものが多いことは幸せの象徴なんかじゃない。
むしろ押しつぶされて窒息しそうな空気を感じるよ。

なにもないこと、すきま、見えないもの、こそ
大事にしたい。


じぶんが本当に好きな
最小限のものと
大切な人たちにかこまれて
こころ軽く心地よく過ごしていたい
とあらためて強く思うのです。
ワクチン予防接種については
いろいろ調べて検討した結果
基本的にいらないと私は思っています。

周辺の友人は同じように
打ちたくない、それで済んできたよという人ばかり。

あるいはせめても
是々非々で必要性を選んで接種する
なるべく時期を遅らせる
など。

これ、世間一般とはちがう
せまい中での常識なんだろうね~

だから
保健所でさんざんおどされるとか
集団生活で非難されるかもなど
聞いていたのだけど

まあちょっと聞かれたりはしましたが
「あ、そういう方針なのね。」
で穏やかにことが済んでいます。


牛乳も、特段の必要ない嗜好品と考えていますが
保育園はアレルギーの診断書ださないと
飲ませないわけにもときいていました。
さてどうしようかな~と思っていたら

1歳児クラスの間は
当初の「まだ飲ませてません」だけ

4月になって
「今年はどうしますか?二歳児はみんな飲んでますが」
と園長に呼び止められ
「まだいいです~
ま、そのうち喜んで飲むんでしょうねえ。にこっ」

以上おしまい。
ちょっと身構えていたぶん、拍子抜けでしたわ。


いまのところ飲みたいと言いだしたりもなく
状況は変わっていない。
そのうち、なるように、なるんでしょう。


あなたと私はちがう。
あなたはそれでいい。
私もこれでいい。

たたかうでもなく折れるでもなく
認め合ってそれぞれに心地よく。