知識偏重の弊害?! | 追伸 4jhから愛をこめて

増えたと感じているのなら、

その学びは間違い。

 

足りないと感じ始めていたら、

それは学びが進んだということだよ。

 

かつて王陽明は、学習の成果について、

そんなことを言ったという。

 

 

まるで、なぞかけだ。

 

しかし、これは、知識偏重型の教育を、

的確に表現した言葉と言われる。

 

 

それはこんな状況をみて、

王陽明が言ったのかもしれない。

 

これから授業を始めようという教室、

生徒たちは、掃除をしたり、机を並べたり、

資料を準備したりしている。

 

そんな中、準備もそぞろに、一人の生徒が、

あれも読んだ、それも知っている、

これも覚えたと自分の学習の成果を

学友に自慢げに話している。

 

その生徒は、テキパキと掃除をしている、

一人の学友に聞いた、

 

「君の学習の成果はどうだい?」

 

すると、本当恥ずかしそうな顔をして、

 

「私は本当に足りないところが多すぎて、

 恥ずかしいと思っています。

 

 親を敬いなさい、困っている人がいたら、

 助けてあげなさいと教えてもらっているのに、

 親孝行も十分にはできていないし、

 困っている人を見ても、助けてあげることを、

 億劫に思ってしまったり、周囲の目を気にして、

 できない自分がいます。

 

 本当、何を学んでいるのかと

 恥ずかしくなります」

 

東洋の学びの目的は、人の誰もが持つ、

良き心(良心)に従って、いつでも、

生ききれるようになることと言える。

 

自分の中にある弱い心に負けることなく、

勇気をもって、正しいと感じたことを

行動できるようになること。

 

そういう人物になることが学ぶ目的だ。

 

決して、知識をたくさん身につけ、

人との競争に勝ち、出世することではない。

 

良き心のままに生ききれる強い心で、

たくさんの人を幸せにすること、

 

その過程で必要ならば、知識やスキルは、

幸せにしたいという気持ちが強ければ、

それほど強く求めなくとも身につく。

 

 

王陽明が生きた時代、1400年代、中国。

朱子学全盛で、科挙試験をベースとした、

いわば学歴社会が成立していた。

 

科挙で好成績を修め、出世することを

目的にたくさんの若者たちは科挙に挑んだ。

 

しかし、科挙の合格者たち他が作った政府は、

利権、汚職、賄賂に塗れていた。

 

民を幸せにすることが目的の政治家は、

自分が幸せになるために民に犠牲を強き、

 

病気、怪我をする人を治す目的の医者は、

お金になりそうな患者をより好んで診ていた。

 

王陽明は、知識偏重社会の歪みの中、

古き良き儒学に立ち返ろうと、

儒学の古くて新しい解釈を語り始めた、

 

それを後世の人は、陽明学と呼ぶようになる。

 

 

 

 

追伸 4jhから愛をこめて

 

昨日、盛和塾大阪で、

イストワールの加藤社長の経営体験発表を聞いた。

良心が感じたものを、どんどん実践されていく。

謙虚に学び、その足らず、行動で補っていく。

 

昨日は、正直、自分がものすごく恥ずかしくなった。

自分はみなが掃除をしている中、自慢げに、

知識が増えたと傲慢、怠慢になっている。

 

大切なのは、知識やノウハウを得ることではない、

私心、弱き心を、ちょっとでも磨き高めること。

 

加藤さんはじめ皆さんに、

大切なことに気づかせていただきました。

深謝、九拝。