いたい、イタイ、痛い。

凝り固まっていて、骨に結着して固まっていた筋肉の塊を、

無理くり引き剥がそうとする荒療治。

 

おじぃ、痛いよ。

 

こんな痛い施術は何年ぶりだろう…。

今どきは触ることもしない無痛治療が当たり前なのに。

 

家に帰った後も、体や頭に熱を持ったように全身が炎症反応を起こしてる。

 

それにしても自分と体が引っ付きすぎていて、むしろ自分を感じれてなかったところから

痛みの刺激で今、やっと自分の体を感じている。

 

不思議なもんだ。

 

さっきまでは重たい塊を引きずりながらも見えない重力に抵抗し

触らないよう、そーーーっと生きてきたのに。

 

今やその引き剥がされた痛みのおかげで、体を持ってることに気が付いた。

 

時に体や自分に近い家族を臍の緒がつながった自我の延長線上に

相手の都合も気持ちも聞かず、使いまわす日常の中で

思い通りに動かないと、ケチをつけるか、ダメ出しするの横暴さ。

 

これが日常、空気化した対象とくっつきすぎちゃった自我の成せる業。

朝、目が覚めてこの本のことを思い出し、

体の構造について考えた。

 

そして、自分と向き合えていない自分に瞑想だなと思った瞬間、

田んぼの草取りを手伝いにやってきた友人の口から

何度も何度も瞑想だ瞑想だとメッセージをいただく(笑)

眼を閉じて、体の中に自分がいることを意識すると、

痛みとは別に自我の存在を感じることができた。

 

普段は無自覚で、それが私だと気づくことも

分離して観察することもできなかった自分が、

 

いまは気づいている私とは別の私がいることを

はっきりと玉ねぎの皮を剝がすかのように

別々にその存在を認識することができている。

 

熱を持って、ぼーっとしている体の外では、

子どもの笑い声や、田んぼの水路の水の流れの音や鳥たちのおしゃべりが聞こえる。

 

自我とくっついた自己の所有する支配的なエゴとの関係の中に

遠慮の無い愛の欠如を見る。

 

それを甘えというと許される気もするけれど、

結果、痛い目を見るのは自分でしかない。

 

ああ、そうか、支配していたのはこの私か。

なのに思い通りにいかないのは、

外側の誰かのせいでもタイミングの悪さでも無かったらしい。

 

一つ一つを分離させて

理解、観察、共感し、

もう一度所有しなおし、花を育てるように水やりを怠らずに。

 

自己との対話を通して、

宇宙との対話を通して、

 

自分を 世界を 愛するプラクティス。

 

※再版されてました😊