私の名前「趣味たばことか拗らせちゃうくらいには考える人間」にしてみたけれど、それって一概に拗らせた結果に至るものでも無いよな。
私は紛うことなき考える人間、考える事が趣味という表現で差し支えない人間だと思うのだが〜。
考える人間と言うのも、考えない人間が多いと感じられる世の中だからこその、ある種の皮肉のような表現に該当するよな。
そもそも人間なら考えない方が難しいもので、仏教徒の頂みたいなものを成し得ている哲学的ゾンビこそ良しとされる価値観もあるよな。
大なり小なり考えているだろうし仕事において、社会において考え無しに生きられる人はそう多く無いと思う節はあるな。
じゃあなぜ「考える人間」という表現を用いるのか、結局の所いくら考えて居ようが私みたいなのが人類の役に立てる程、有能では無い事くらい私にも分かってはいるつもり。
それで居て、答えの無い様な事をうだうだと考えられるのは私の強みであって、大した事のない事象においても等しく、うだうだと。
共有するにはあまりにも退屈だが考え続けられる現状を鑑みるにそれは私の天命であって、それが私に何を齎すのかは神のみぞ知る。なんて言ってみる。
私が何を選び、それぞれを如何様にするのか。
そんな事は宿命によって定められているのだよ。
思考によって良くも悪くもなる?
その思考に至る事も、良くなる事も悪くなる事も、等しく宿命だろうよ。
宿命によって何が齎されるのか。
なんて事ないかも知れない、なんて事あるのかも知れない。
大事なのは「だからこそ、思うがままに生きていい」という事。
後悔したって仕方ない。
人のせいにして何になる。
より良く、より良く。
「どうしたってどうしようもない」とも言えるし、「どうしたってどうにでもなる」とも言える。
この思考は私に齎された私にとって確かに良い事のひとつ。
こう成る為に手っ取り早く、勘違いしてくれねぇかなぁ〜なんて思惑。
これ義務教育にしない?
やだよな、どうしようもない世の中を肯定する事になるもんな。
考える事が趣味って話に言及していなかったね。
話がある事にまで及ばなくていいわって?
まぁええやん、たばこ吸いながら読んでみって😉
仮に私の言葉が残ったのならそれが宿命。
ディグりたいも、無に帰す時を待ち侘びるも。
残らない事には言及しない、上目指してっから。
さておき。
趣味の定義は専門ではなく楽しむ事、らしい。
ほら、考えるの趣味やんな。
現代においては専門レベルで考えられる人間を「専門家」と称するよな。
世の中にありふれている自伝なんて趣味で考えている人間が金を持った産物なのではなかろうか。
哲学は趣味で考える対象が人間にまつわり、さも専門レベルのような面構えに成ったものの様に感じられるな。
まぁ、なんでもいいんだけどさ。
専門家は理系の営みで、趣味は文系の営みって印象があるな。
何にせよ、私は考える事を嗜んでいる。
酸いも甘いも等しく旨いもんで。
そら時にはしんどいけれど、喉元過ぎれば。
話逸れるけど、窘めるってのは良くない事を注意するって意味らしいな、念の為嗜むを調べたらひとつ勉強になった。
窘めるって難しいもんだよなぁ、相手にとっては良い事なのかもしれんやん。
良くないと思い、注意するって相手を少なくとも上には見ていない営みだろうし。。
こんな処にしておこうか。
あざした。