思い出した。
私唐揚げが好きなんだけどさ。
どんな唐揚げが好きかと言われると結構どんな唐揚げでも良くて、強いて言うならカリカリで粉っぽくないのが好き。
「好き」とは言ってもそんなにこだわりは無くて。
「嫌い」なものにはとことん何が何故嫌いなのか、考えてしまう。
なんかふざけんなよな。
好きなのは好きでいいくせに、嫌いなものはなぜ嫌いなのか説明させられていた様な気がするよ。
説明した所で「それがいいんじゃん」「こうしたらいいんじゃないか」なんて言われたとて嫌いなものは嫌いだよな。
今は嫌いでいいでしょ。
これから好きになるかもしれないけれど、今はその好きを受け入れられないんなら相手の好きを受け入れられるようになったらいいと思うんだよな。
なんで自分の嫌いが相手の好きまで嫌いになってしまうのか、どの程度理解すればいいのか理解していないから?
好き嫌いが絡むとコミュニケーションは途端に感情に寄る。
感情に寄れば相手の感情よりも自分の感情が優先されてしまう。
故に理解はできても許容できないのかね。
あ、ヒップホップならこだわりを持って好きかもしれない。
けれどライブに行きたいかと言われるとそこまででは無いかな。
それは明確に人混みが嫌いだから、かも。
なんだか最近、地球温暖化を感じるな。
埼玉って本当に暑いよな。
暑い、というより不快指数が高い。
そんな土地で生まれ育ち、他の土地に移ればまた不満が生まれ、埼玉に戻れば懐かしいという感情が生まれるのだろう。
そこに過去との比較から生まれる発見やら、また地球温暖化を感じるのやら、冬は何れ無くなるのやも知れぬな。
でも今後、どうなるんだろう。
熊谷の気温は50度を超え、不要な外出は控えられ、人類がそこに住まうことが適わぬってこの漢字?様になってしまうのかな。
はたまた夏は40度で打ち止め、高温が長く続く様になるやも知れんな。
海沿いや山に人々が追いやられ、海面が上昇して山の民が利権を得る世の中になるやも知れんよな。
そんな世の中に成ろうと、私はのうのうと暮らしていたいものだ。
なんの話やって?
ただの独り言に過ぎんよ。