①ちょっとわかった気になっている。
多くの人は話し始める時に無意識に目的やらゴールを定めている。相手にもどんな受け答えをしようか、といったそれらが無意識に定められてしまう。
不機嫌になったり怒ったりするのはお互いのそれらを共に気が付けず、理解できずの産物。
俗に言う仲良しは似たそれらを持ち、一緒に過ごすうちに同じそれらを持てるようになる。

②人の話し方 仲良し編
 人は話し始める前、ないし話している過程で無意識に目的を持っていたり、ゴール(理想の流れ)などがあるのでは無いか。
 友人は人は話し始めるより前に、無意識に近い意思の範疇で話す目的や理想の流れ(ゴール)などが先に存在すると。
 則ち過程にしろゴールにしろ、心地良さを求めているのではなかろうかと言う自論。

 そして本題に移る、仲の良さとは何か。
 以前、私はその心地良さの似ている前提を必要とした。
 友人曰く、それを話す相手を区分選別してて、 話しの結果で話す内容や回数を重ねる度に
再区分がされていくうちに、仲良いというカテゴリーのが発生して理解度が高いとか低いで選別されていくのかなと言う論。
 確かに前提としては不要だったなと、仲良しを筆頭にしてしまったが故の失敗。

 お互いがお互いを理解している状況なんてそう無い、ならば私の言葉で表現するなら話す相手を主に感覚で選別した後に徐々に区分、再区分されていくのではないだろうか。
 仲の良さとはその理解度の高さとも捉えられるが、心地良さと言ってしまえば容易だが、思考的?論理的?な理解よりも感覚的な心地良さに近しいものだと思える。

 そして「目的を理解して欲しくて話す→誰に?→理解してくれそうな人→どう生まれるのか?」については、0から1が生まれるのと同じようだと考える。
 誰もが初めから仲良しでは無くやむを得ない、ないし受動的な勉学、仕事、趣味などのコミュニケーションのきっかけを通し、話せるようになる。
 そして「今までの積み重ね→仲の良い人と理解度が高い→仲良い人とは?」当人の積極性に拠ったコミュニケーションによる積み重ね→仲の深まり、理解度の高まり→仲良い人では無いだろうか。

 怒る、不機嫌になるのは理解して欲しいから、知って欲しいからで强間違いでは無いだろう。
 幼少期の私の母は父と毎日のように言い争っていた、私はそんな両親が嫌だった。
 だから理解して貰わなくてもいいやと諦めたんだ、理解してもらわなければ次々と諦める羽目になるが、嫌を積み重ねるよりはマシな現状だ。
 仲良しとは信用と信頼、好きと嫌い、心地良さなどが相まって生まれるものなのではなかろうか。
 つまりは何だ?