父方の祖父母より、誕生日プレゼントに本を二冊頂いた。

その本の紹介は出来ないか、共有という表現ならば差し支え無いだろう。


まずはこの一冊。

昨日届いて昨夜、プロローグだけ読んだ。

このような構成の本を以前にも一冊だけ読んだことがあるが、後々紹介するとしよう。

そもそも、私に本を読む習慣は無かった。

本を読んだといえば小中学生の頃の朝読書程度。

小学生の頃は家にあった漫画を読む程度、中学生の頃は「リアル鬼ごっこ」の映画を知ってから山田悠介の小説を読み漁っていた程度。

「ビブリア古書堂の事件手帖」のドラマを知ってから小説を買ったはいいものの、本棚の肥やしになっているな。

YouTubeやサブスクが主流の現代において、活字を読み想像力を働かせるより動画コンテンツの方が楽なのは火を見るより明らかだ。

さておきなのだがもう少しだけ。

どんな映像作品にも脚本が存在する。

そこにどの程度の労力が割かれているのかは幅があると思うが、どの程度の労力が割かれていようがそういったコンテンツにおいて多数に認められてこその価値であることに違いは無い。

確かに、無名で素晴らしいものもたくさんあるとは思うけれど。

無名だからこそ素晴らしい、なんて皮肉もある。


とりあえず、頂いた本は読破せざるを得ないのでぼちぼち読んでいくけれど。

なぜこの本を私に贈ったのか、邪推は止まない。

止まないが、良い意味で祖父母もそう賢くは無いだろう。

シンプルに、私の幸福を願って。

大抵、悪意かもしれないけれども当人にとっても悪意だと理解した上で悪意を渡すなんて所業、そうそう有るものでは無いだろう。

ならば悪意として捉えないこと、善意だと勘違いすることが生きる上で重要だと考える。

そうだな、考えないで生きられるのは幸せかもしれない。

それはそうとして、考える人間は考えない人間にまたひとつ頭を悩ませなくてはならなくもなるのだろう。

出来る者が出来ぬ者を助けるのは自然の理だろう、そんなこと誰も望んじゃ居ないとしてもそうすべきなのだろう。

ちなみにもう一冊はこれ。

内容としては先程共有した本と大差無いように思えるが、その違いを見つけるのも一興か。



そして後々紹介すると言っていた一冊。

こちらは紹介だから少しだけ引用しようか。

引用の書き方とか知らねぇけんども。


 救済(196頁)

“小説というのは、ギリギリの、極限の怠け者に、神が最後に用意した救済的な仕事なのである”


 異物(194-195頁)

“小説でも書いてみようかと言う人は、必ず内部に異物を飼っている。その異物を許す許さないの闘いが文学だと思う”


 表現者(210頁)

“表現しようとする人間は、行動しない人ですよね、結局。つまりなんかあるわけ、空想とか過剰なもんが”


この本は母方の祖父母が管理している山荘で見つけた。

ところで山荘って響きすごくいいな、やっぱり。

なんとなく「勉強しないと」という焦燥感から何冊か本を買い、ついでに読書の習慣を身に付けられないものかと邪な心で今ではこれまた何冊か肥やしになっている。

が、この一冊は調子が良かった時に読んだ。

なんとも好き勝手言ってくれている。

この人は小説家、映画監督なのか、今調べた。

人生の苦悩に打ちのめされていた私にはちょうどいい本だった。

今となってはそう気楽に読みたい本では無い。

誕生日プレゼントに頂いた王道に相応しい方が合っているな。


上記した引用が刺さる通り、私は極めて怠惰で異物を飼っているのだろう。

だが現世を生きなくてはならない。

死ねばいい、なんて思考は正しく現代の賜だろう。

生き死になんて大した問題では無いが、其れによる人々の感情は大した問題だろう。

其れをなんとも出来ないという問題も併せて。

本添えるだけ添えて好きなこと認めてんな。

この苦しみの世に生きる、みたいな本は紹介したっけ?

共有だけしておこう。

長い割に中身の無いブログだな。

ブログなんてそんなもんって処で。

現在取り扱いがねぇって!

床鍋博人って人の本、見かけたら流し見してみて。