友人は自分を写す鏡、ねぇ。

今日はふたつくらい認めておきたいので、思考のアイドリングにこれ考えてみようか。

思考のアイドリングとは言え、した所で。なんて節は大いにあるけれど、最近手に入れたばかりのBluetooth mini keyboardのタイピング練習も兼ねてね。


所で、私は前置きと前座って厳密には別物という認識をしているのだが。

前置きは誰でも使える話の前に話される与太話などを指す、前座は落語などの噺家が用いるエンタメの一部という認識。

さておき、お察しの通り前置きを認めようとしている、なんならこれも前置きで既に認めている。

前置きといこうか。



「行動が大事」なんて巷でよく聞く話。

巷ってどこなんだろな、さておき。

行動がなぜ大事なのか。

そりゃあ行動しなければ次に進んで行かないから。

それはそうなのだが、どうやら行動ってそれ以外にも大事とされている理由があるのではなかろか。

なんて思いましてね、何を思ったかって?

まぁそう焦るでないよ、どうでもいい話をじっくりとしようでは無いか。

確かに、行動しすぎてしまっては疲労してしまう。

けれど程よい行動、程よい疲労に留める、留められたのであれば得られる恩恵があると思うのよな。

だからそれはなんなんだって。

そのひとことすらもテンポロスで鬱陶しいよな。

それは気力。


私も不思議だと思う、ってお前に何がわかるんだって話。

私は幼い頃から、幼い頃の記憶なんてそう残っていないなんて前に書いた気もするけれど、驚くほど無気力で、今となっても相変わらず。

それって普通のことかも知れないけれど、大人になるって「嫌なことでも我慢して、仕事だからって気力を振り絞って、自分のやりたいことをおざなりにする」みたいな解釈されていないか?

ろくに仕事をしない人間を大人に成り切れていないだとかガキだとか、思われているんじゃあないか。

金を稼いでいれば誰も文句は言えなくて、そう言う人たちは特別だからと斜に構えて。

うん、すごく嫌いだ。

今更、どうしようもないと諦めるのも大人か?

それを変えられる人間はそう居ないだろうけれど、みんなで諦めていては起こる訳が無いだろう。

できそうな奴に勘違いさせて、そいつを壊す勢いで希望に縋る世の方が100倍はマシだね。

すんごい脱線してるね。


行動させられると休みたくなる。

行動しないと暇だと嘆いたり、手短な快楽に溺れ

たりもする。

そもそも、そんなにやりたいこともないクセして他力本願で生きている人間が多いのか。

それでもこれがいいと思うものはそれぞれあると思うけどさておきだね。

行動なんてなんでもいい。

ちょっと散歩するんでも良いだろうし、家事をするんでも良い。

そうやって手に入れた気力を何か本当にやりたいことに使うべきだと思うけれど。

いやぁ、何が言いてえんだって?

気力があったとて無駄にするくせに、気力を欲しているんだよ。


なんて認めているうちに気力も出てきただろう。

こんな気力の起こし方もある。

もう前置きだけで十分だよね。

SNSも似たようなものなんだろう、投稿しては承認欲求を満たせるだろうという希望的観測を糧に人々は努めるのだろうな。

友人は自分を映す鏡の話は次にしようかね。