大した事無いのに、大袈裟に言ってしまう。

私にとっては、大した事の様に感じている。


例えば「好きな物の良さ」って、誰しもが理解してくれるものでは無いでしょう。

アニメには心を揺さぶられる、けれどオタクを軽視する人が居たり。

逆も然り、匂いに敏感で具合が悪くなり易い人が居たり。


それと何ら変わりない。

例え過半数に「当たり前だ」と言われても、私にとってはその事が過半数の人々以上に大きく感じられるだけで。

理解されたいのは共感されたい以上、褒められたいとも違う気がする。

「救えないかな」なんて言ったところで。



まぁまぁさておき。

私事だがって、そりゃブログなんて私事だろうなんてのはさておき、少々親戚の集まりがありまして。

思いの丈を語らずして眠るなんて勿体無いとすら想わせる感情の様なものをなんとか昇華してやりたい面持ちで向かいつつも休みたさをグッと堪えて。

私は甘えている。

其れを許容して貰えるとも、許容されないのであればどれだけ許容されるのかまた吟味する迄という心持ちで生きながら。

小言はほどほどに、自分がどう在るべきか悩むのであればその甘えと相手をよく見定め、思考する。

保険に保険を、そのまた保険をかけるように生き長らえてきた。

甘ったれの塊でも許される環境はそう多くない、とも思えるが人は人だ。


昨日祖父母の家に1泊して今日帰ってきて、思ったんだ。

やっぱり自宅って、なんて素晴らしいんだろうと。

いつも通りの日常を何不自由無く送れるだけの環境に、自宅という有難みを痛感という言葉では足りない程に感じた。

本当にしょうもない話かも知れないけれど、よかったら読んでくれないかな。

ここまでは前座。



祖父母の家は標高1200m超えの山奥に位置しており、土壁、一部トタン屋根、土蔵を具えている様な古い家でさ。

大家なら人に住んでもらう為に水周りの改築や和室を洋室にする、なんてのは聞く話だろう。

お察しの通り水周り、その中でも風呂場についての話なんだ。

祖父母の家の風呂場は壁にこそタイルが貼られているものの、床はすのこが置かれているのみ。

年季の入ったすのこに、年季の入った浴槽、いや、どこを見ても年季が入っている。

見ようによっちゃあ年季が入っているのはいい事かも知れないが、手が込んでいない年季は負の印象を抱いてしまうものだろう。

すのこなんて取り替えればいい、マットをこまめに交換するなんて手もある。

なんて、話では無い。


風呂場にアシダカグモが見えない方が珍しい。カマドウマやらカメムシやら何やら、何処に潜んでいるかも知れぬ風呂場。

髪は命とまでは言わないが、それなりに気を使っていて荷物を減らそうと見限ってはいたものの、自宅には見劣りしてしまうボトル達。

如何様にも出来ただろうけれど、気合を出してシャワーだけ浴びた。

綺麗になった気がしない。

十分に愛を感じられる祖父母ではあるのだが、祖父母にも都合はある。

わかってはいるからこそ、苦しいものがある。

それも喉元過ぎれば熱さを忘れる。

…火もまた涼し?

何も悪くは無い。なんなら良いのに。

悪く捉えているのは私。

謙虚に、感謝を忘れずに。

失敗を取り返す行動に努める。

さておき。


自己愛に満ち満ちた自宅。

こんなに素晴らしい場所は無い。

ソファに座っていたある日も似た様に感じた。

このソファ、買ってよかったなぁって。

私はミニマリストになんて成れないだろう。

だが逆もまた然りで、お互い成る必要なんてそもそも無いのだと理解している。

虫の少ない環境で、好きに寝返りを打てて、首も痛くならない、身体も痛くならない、快適に眠れる。

家にある食べ物を適当にすれば腹は満たせる。

好きな洋服をその日の気分で着れる。

素晴らし過ぎる。

なんて単純なんだろう。

でも、そう。

辛いからこそ、楽がある。

快適だったからこそ、不快がある。

絶対にどちらかだけなんて事は無い。

行動と思考。

自分なりにやれるだけやればいい。

今まで積み重ねてきたものは確かにそこにある。

うまくいかない事だって沢山ある。

だからこそ、乗り越えた喜びが大きくなる。

見てくれなんて気にしなくていい。

魅せたいのは己のプライドであって、思ったよりみて貰えない。

いい旅だった。