こういった類の話は好きだ。
だが一周廻っても魅せ方が全て。
在り来りでつまらないビジネスモデルの様に、人から注目を集める事もあまりにもつまらない。
余談はさておき、書くとしよう。
タイムマシンで行けるなら、そうだなぁ。
ソクラテスの生きるより前に産まれようがソクラテスには成り得ない。ヒカキンに成り得ることも無い。ピカソにもスティーブジョブズにもスティービーワンダーにも明石家さんまにも成り得ない。
彼らはそれぞれの時代において彼ららしく在る事が価値とされる訳で、私が違う時代に生きようと価値になる事は無い。あくまで現状の私の話。
要はタイミングで、その時代そのタイミングに如何に振る舞うかによって価値を得る。
自分らしく在る事はいつか訪れる、価値と成り得るタイミングの為に唯、そう在り続けるべきなのではなかろうか。
文字通り滑り出したな、話を戻そう。
行けるならば、行かない選択肢もある訳だ。
私は行かないだろう。
未来に行ったら、過去に行ったらなんて希望的観測にうつつを抜かすな。
これは自戒だろうが。
私は思うよ、己を愛せぬ者に他者を愛せない。
等しく過去を肯定できぬ者に、未来など肯定できる訳が無い。
「世界が5分前に創られた」なんて仮説はさておき、これまでの自分が生きてきた過去は自分らしく無いなんて思うのかも知れない。
けれど、確かに自分が生きた人生だ。
その中で大なりこの瞬間は自分らしく在れたと思えるだろう。
小なりも等しく、自分らしさなのだよ。
もうひとつ、脱線させよう。
自分らしさ、自分探しなんてのが「最近の意識としてある」と私には感じられる。
簡単に言ってしまえば「どう在りたいか」だろう。
そんな事を考えもせずに自分とは何か、分かる訳が無い。分かった気になる様に人なんて「気になる」レベルでしか無いだろうよ。
そうしてから過去を肯定して自分らしさを定めるも良し、否定してこれから創り上げるも良し。
話を戻そう。
過去を変えれば未来が変わってしまう?
それはそうだろう。
未来はそこから始まるから周囲の変化でしかない、語るに足らぬ。
過去において「行きたい」と思うのは後悔しているからなのでは無いか?
さて、本題へ入ろうか。
バック・トゥ・ザ・フューチャーやら時をかける少女やらシュタインズ・ゲートやら四畳半タイムマシンブルースやら、タイムトラベルする作品はいくつか観た。大して覚えてはいないが。
そしてまず思うのは、人生は一本の線のように繋がっている事。仮にa線としよう。
そしてその線上の出来事が大きく変化することで他の人生、bという線に乗る。
原則、些細な変化は有ろうと今生きている線に戻ろうとする。これは余談。
つまりは過去を改変すれば今は二度と訪れない。
後悔を亡きものとしては今は二度と手に入らない。
過去に戻ろうとやることは今と同じ。
その後悔の地点を知って戻りひとつ越えたとて、先は今まで通りの知らない世界。
今に戻れる可能性はある、けれどどの線に乗れるかは未知、今と変わらないよ。c線、b線、e線かも知れないけれど、a線の過去しか知らないじゃん。
「両親が出逢わなければ、自分が居なくなる」
そんな訳があるかw
a線上の人生において産まれたというだけで、c線に移り生きるだけ。両親と二度と会えない可能性も孕んでいる。
c線上においては両親も全く以て別人の様かも知れない、結婚して自分では無い子供を設けているかも知れない。
独り言はこんなもんかな、希望を打ち砕きたい訳では無いよ。
希望、理想なんて毒にも薬にも成り得るよって話。
毒のくせに不味くないのが厄介でさ。
自分を否定しなくてもいいじゃん、否定寄りな自分が居るだけ。
これからどう在りたいのか。
お手隙の際にご一考頂ければ、これ幸いと言ったところで。