というタイトルでは優しさを感じたい人が気になってしまうけれど。
優しさとは何たるか、なんて考える事によって「より優しさを感じることができる」として是非、ご一考頂ければこれ幸いに存じます。
なぜ「優しさ。」というタイトルなのか。
簡単にお話しましょう。
「優しさとは𓏸𓏸である」なんて結論は無く、「優しさとは何なんだろうなぁ」程度の文字に起こす営みを持ってして、「私なりの優しさを伝えたい」という意図があるのではないかなぁ。
𝕃𝕖𝕥'𝕤 𝕘𝕠.
「私は優しい人間だ。」
なんて押し付けていては優しい人間とは言えないだろう。
「優しさとは思い遣りだ。」
なんて仮定して語り出す事もあるな。
「優しい人は生きづらい。」
なんてタイトルの本あったよね?
お戯れ、失礼致しました。
私は、優しさを持って生きていると思う。
が、優しさの解釈なんて千差万別で、論理的に思考して「優しさは~」なんて語れる人はそう居ないだろう。
つまりは感覚として優しさを捉えていて、そこに嫌悪感を感じてしまえば優しさでは無いのではなかろうか。
なんか先のお戯れに近しい話し出しではあるな、さておき。
優しさとは。
「真に相手と向き合って、相手の感情を嫌悪感から遠ざける営み」なのでは無いだろうか。
終わっちゃった。
自分語りでもしとくか。
普段から人に優しく、自分にもっと優しく生きようとしている私は、優しさにもいくつかあるものだなんて思ったり思わなかったり。
「たり」って本来、2つ1セットって言われていた様な気がするので、「思ったりもする」としなかったけれど、省略されていくのも言語らしさいやこれもさておき。
一般的に「優しい嘘」の是非を問うたり、「優しそうな人」「優しい人」なんて言ったり、そんなもんか?あとなんかあるか?
これだ。
何が優しさで、何が優しさでは無いのか。
何を以てして優しさなのか。
それで言うと「優しい人は生きづらい」と言うのも繋がってくるな。
なぜ人に優しくできるのか。
私は「自分をおざなりにできるから」だと思う。
これは私なりで偏りがあるとは思う。
恐らく私は自己犠牲を以てして人に優しいとは思う、けれどそれも優しさでしょう。
なんて事ない会話の中で優しさのエッセンスを感じると、きっと「優しさだなぁ」と感じるのでは無いだろうか。
分かりやすい例ならば、人から攻撃された時に反撃せずに痛みに耐え、寄り添う、抱きしめるなんて表現が優しさなのではないだろうか。
そんな痛みなら喜んで受け入れたい。
まぁわさびはいいけど唐辛子はだめ、みたいな好みもあるよね、それはあるけど。
そんな感じ?