初めまして、私はしがないたばこ好きです。

今日は、私が此処に至るまでの一部を書き起こしてみたいと思います。


その前に少し、お含み置き頂きたいお話をさせて頂きます。

私はエンターテインメントやコメディとして怒りを用います。不適切な表現や強い言葉なども厭いません。そこには「私という人間の感情を率直にお伝えしたい」という意図がございます故、ご容赦頂ける方のみお楽しみ下さい。

そんなお話は世の中にありふれたコンテンツだと思う節はございますが、今一度お話させて頂いた次第です。

それでは本編へ入りましょう。


「タイムマネジメントをするだけ、やるだけなのに何でやらないの?」

これが私の不満の種になった。

私はそれなりに行動力があるとは思う。

普段、その不満の種に対して「無理をしない、思い立ったが吉日」なんて思っていて、幸せな日々を送っている。

人生は思うより早く転がっている。

そんな不満の種は無視をして尚、早く転がっていると思う。

そもそも価値のある人間なんて相対的な話に過ぎず、皆等しく無価値なんて捉え方も可能ではなかろうか。

唯、私がこの不満の種に出会ったのにも理由はあると思う。

それはハイデガーの哲学書「存在と時間」のせいだ。ちなみに本書を読んだことは無い。本書の解説書を読んでいるところだ。

ではなぜ本書のせいなのか、それは世の中にありふれているコンテンツのひとつ、YouTubeの解説動画だ。多分これ。

私は人がそこに居るのには理由がある、みたいなこと言ってた気がするのだが、その程度の呪いにかかっているみたいなんだ。

つまり、私がこの不満の種を発見し、不満の種を植え付けた人はせっせと水をやる訳だ。

それで勝手に育つなり、枯れるなり、する訳だが。

そこに私の責任感が相まって、自分の土地にその種が埋まっているのなら育ててやりたいという慈悲、枯れて失望されたくないという自尊心があるのでは無いだろうか。


「.やるだけ」と言えばそうかもしれない。

けれど、芸術家には彼らなりの苦悩がある。

私は少しだけ論理的に考えては、感情を誰よりも大事にしたい類の人間だ。

わかって欲しいのさ。

芸術家の良さを引き出す為のあれこれを。

賢いと言われる人間に対し、その営みには辿り着けない境地があるという希望的観測が常に内在しているという事を。

承認欲求。

真の芸術家ならそうかもしれないが、何事も1か0では無いのだよ。私。

現代において1,0じゃ厳しいって。

凡人においても厳しいって。


その人と出会い、その人を慕い、その人の言葉には意味があるんだよ。

その意味について考えられる私でもあるだろう。

そうして今、此処に至るんだろう。

確かにその人には私にとって価値がある。

此処に至れた故に思う。

ここに感謝の述べると共に、本文を終わりたいと思う。

ありがとう。

あとこれからよろしくお願いします🙏