スピンオフ編~東京都北区滝野川・幕末の浪士たちが眠る『近藤勇と新選組隊士の墓』 | Love Beef Cutlet? Eternal Traveler~生涯旅人

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全国各地のビーフカツを紹介している超変人の超マニアックなブログです。最近は国内、韓国、中国などのB級グルメについても書いています。

ビーフカツを求め全国各地を彷徨う超変人の超マニアックなブログです。今回はスピンオフ編。ビーフカツやその他の食べ物からは離れ、これまでの国内外の旅などで印象に残っているスポットなどをご紹介します。

 

今日は

東京都北区滝野川の

『近藤勇と新選組隊士の墓』です。

 

『新選組』には

『新撰組』という表記もありますが

墓碑に『選』の文字が刻まれていますので

今回は『新選組』で表記します。

 

墓碑では二点しんにょうになっていますが

PCでは変換できませんので

一点しんにょうにします。

 

最寄駅は

JR埼京線の『板橋』。

 

余談になりますが

この駅は摩訶不思議な駅で

駅舎のほとんどが北区で一部が板橋区

ホームは1/3が板橋区

残り2/3が豊島区に属しています。

 

閑話休題

 

駅から徒歩30秒

東口広場の前に

周囲とは異質なスペースがあります。

 

この場所から北1㎞に位置する

『寿徳寺』の境外墓地で

『近藤勇と新選組隊士の墓』です。

 

大理石に刻まれた近藤勇の座像。

 

近藤勇は

1834(天保5)年に

武蔵国多摩郡上石原村~現在の調布市野水に

百姓の三男として誕生しました。

 

またまた余談です(・・・くどい?)

馬鹿みたいな話ですが

『百姓』と言う言葉は差別用語に当たるとして

放送禁止用語になっています。

 

言葉に罪はなく

罪があるのは差別を込めて使う人間です

・・・語学屋のつぶやき。

 

閑話休題

 

幼名は宮川勝五郎ですが

1848(嘉永元)年に

江戸牛込にあった天然理心流剣術道場に入門し

翌年には同派の三代目宗家

近藤周斎の養子となり

後に近藤勇を名乗るようになります。

 

1863(文久3)年

第14代将軍徳川家茂の上洛警護を目的に

江戸幕府が浪士を募り組織した

『浪士組』に参加し京都に向かいます。

 

『浪士組』には近藤の他に

後に『新選組』の中核となる

土方歳三、沖田総司、長倉新八なども参加しています。

 

近藤勇像

背が低かったようですね。

 

『浪士組』一行が京都に着くと

組の発案者である清河八郎は

上洛の真の目的が

朝廷に尊王攘夷の志を建白することであるとし

『浪士組』の江戸帰還を提案しました。

 

清河の提案に異を唱え京都に残った

近藤勇、芹沢鴨らは『壬生浪士組』を結成し

初代筆頭局長に芹沢が就任します。

 

1863(文久3)年9月

『壬生浪士組』は

新たな隊名『新選組』を拝命し改称します。

 

改称直後

近藤勇、土方歳三らは

所業に問題のある芹沢鴨を暗殺し

近藤が『新選組』局長となります。

 

近藤勇埋葬当初の墓石

 

『新選組』の攘夷派弾圧

新政府軍との戦いなどについては

語り尽くされていますので割愛します。

 

近藤勇は

1868(慶応4)年4月

流山で新政府軍に捕縛され

同月25日(新暦5月17日)に

板橋刑場で斬首されました

~享年満33歳。

 

その首は京都三条河原にさらされ

胴体は滝野川三軒家(現、北区滝野川6丁目)の

無縁塚に埋葬されました。

 

明治新政府は

『新選組』の遺族に対し

遺品の所有を禁じたとも言われ

近藤勇が埋葬された場所には

墓碑銘のない石が置かれていました。

 

1876(明治9)年

『新選組』元隊士の長倉新八が発起人となり

旧幕府典医松本順(・・・マツジュン?)の協力を得て

近藤勇ほか殉死した隊士の供養のため

板橋刑場近くのこの地に墓碑を建立しました。

 

墓石には

近藤勇とともに

土方歳三の名も刻まれています。

 

長倉新八は

近藤勇と意見衝突し袂を分かちますが

明治維新後は数少ない『新選組』の生き残りとして

『新選組』の顕彰に努めていました。

 

またまた余談ですが(・・・くどいくどい!)

永倉新八は『新選組』の中でも屈指の剣豪で

1894(明治27)年の『日清戦争』開戦時

55歳の彼は陸軍の抜刀隊に志願しますが

『お気持ちだけ』とやんわり断られています。

 

これに対し長倉は

『元新選組の手を借りたとあっては

薩摩の連中も面目丸つぶれというわけかい』

そう自嘲したと伝えられています。

 

近藤勇の諱は『昌宜(まさよし)』ですが

何故か墓碑には『冝昌』と

逆さまに刻まれています

・・・しかもウ冠ではなくワ冠で。

 

墓碑のとなりには

『新選組』の他の殉死者のためと思われる

無縁塔が建っています。

 

敷地内には

長倉新八の墓碑もあります。

 

長倉は

1915(大正4)年1月

虫歯が原因で骨膜炎と敗血症を併発し

北海道小樽市で死去しています。

 

墓所は小樽と札幌に造られたほか

近藤勇の墓所の発起にであったこともあり

当地にも建立されました。

 

墓碑の揮毫は

長男の杉村義太郎と親交のあった

蜂須賀正韻侯爵によるものです。

 

『近藤勇と新選組隊士の墓保存会』は

寿徳寺とともに毎年

近藤勇の命日にあたる4月25日

若しくはその直前の日曜日に

墓前供養祭を行っています。

 

私は近藤勇や『新選組』を

擁護する立場にはありません。

 

むしろ否定的なスタンスですが

『新選組』を慕い敬う方々の

思想を否定することも致しません。

 

近藤勇と新選組隊士の墓

東京都北区滝野川7-8-10

 

次回は、本日15時に他人の迷惑を顧みず私の好きな曲をご紹介するMUSIC編。The Lovin' Spoonfulの『Summer In The City』です。