スピンオフ編~神奈川県大和市下鶴間・県内でも数少ない宿場の商家建築『旧小倉家住宅』 | Love Beef Cutlet? Eternal Traveler~生涯旅人

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ビーフカツを求め全国各地を彷徨う超変人の超マニアックなブログです。今回はスピンオフ編。ビーフカツやその他の食べ物からは離れ、これまでの国内外の旅などで印象に残っているスポットなどをご紹介します。今日は、神奈川県大和市下鶴間の『旧小倉家住宅』です。

 

 

最寄駅は

小田急江ノ島線『鶴間』。

 

 

駅東口から

神奈川中央バスの

横浜駅西口行、町田バスセンター行

鶴ヶ峰駅行のいずれかで約5分

『下鶴間』バス停で下車します。

 

『鶴間』駅から徒歩でも30分程度ですが

道順が複雑なためお勧めできません。

 

 

バス停の直ぐ近くに

白い塀の土蔵と古民家が見えます

・・・この画像は『鶴間』駅行きのバス停からのものです。

 

 

古民家の外に

高札場を復元したものがあります。

 

高札場は

基本的な法令を墨書した板を掲示する場所で

庶民への法令の徹底を意図したものです。

 

禁令の掲示は奈良時代から見られましたが

江戸時代に発達し

1873(明治6)年まで続きました。

 

 

この辺り旧下鶴間村には

高札場が2か所ありましたが

その内の1か所がこの付近にあったそうです。

 

掲げられた高札はその写しで

右端が1868(慶応4=明治元)年に

明治政府が太政官名で立てた

5つの高札『五榜の掲示』の第二札で

徒党、強訴、逃散を禁止し

それを発見し役所に届け出れば

褒美を与えるとされています。

 

中央の高札は

『五榜の掲示』の第三札で

キリスト教や邪宗を禁止するものです。

 

神道を良しとした明治政府が

キリスト教の活動を公式に認めたのは

1899(明治32)年のことですが

1873(明治6)年の高札の廃止と同時に

事実上は黙認されていました。

 

左端は1870(明治3)年のもので

火付、盗賊、人殺、偽札つくりなどを発見した時は

役所へ届け出ることを定めています。

 

 

高札場の裏手にあるのが

『旧小倉家住宅』で

2006(平成18)年に開館した

『大和市下鶴間ふるさと館』として保存されています。

 

 

『大和市下鶴間ふるさと館』には

小倉家の母屋と土蔵が移設復元され

母屋は内部公開されていますが

土蔵は外観のみの見学になります。

 

 

母屋は、東海道の脇街道である

『矢倉沢往還』の下鶴間宿に残された

宿場町時代の唯一の商家建築です。

 

木造平屋、入母屋造りの屋根で

建築面積は153.4㎡

土間のほかに

『みせ』、『ざしき』、『なんど』、『おくざしき』の

四間取りになっています。

 

建築年代については

棟札などに直接的に示す資料はありませんが

座敷の板の裏に『安政三年』と書かれていることから

1856(安政3)年に建てられたものとみられています。

 

 

内部の見学は

土間から入ります。

 

画像正面が表になり

かつては『矢倉沢往還』の街道に面していました。

 

 

土間には下鶴間宿に関する展示がありますが

中でも興味深かったのは

イギリスの外交官であり日本学者の

『アーネスト・サトウ』の日記です。

 

 

土間に面した

街道寄りの部屋が『みせ』になり

12畳半の広さがあります。

 

小倉家は

創建時から昭和20年代始め頃まで雑貨商を営んでいて

取り扱い品目は建築材料、金物、薬品など

多岐にわたっていたそうです。

 

 

『みせ』には当時売っていた薬品が展示され

『救心』や『毒掃丸』など

現在も売られている薬もあります。

 

 

こちらは『征露丸』

でも何か違和感がありますね。

 

現在は『正露丸』ですが

当時は『征露丸』という漢字が使われていました。

 

日露戦争が勃発する2年前の

1902(明治35)年に

大阪の『中島佐一薬房』が

当時のロシアとの関係悪化を反映し

『露(ロシア)を征伐する』という意味を込め

『忠勇征露丸』の名で発売し

『征露丸』の愛称で親しまれるようになりました。

 

第二次世界大戦終了後

他国を征伐するという名称は

国際信義上好ましくないとの行政指導があり

『正露丸』に改名されました。

 

現在でもいくつかの会社が

『正露丸』の名で製造販売していますが

奈良県にある『日本医薬品製造』だけは

いまだに『征露丸』の名称を使っています。

 

 

陳列棚の反対側には

薬材を挽いて粉末化する

薬研が置かれています。

 

 

『みせ』の奥にある部屋は『なんど』

といっても8畳あり

私の部屋よりも広くて羨ましいです。

 

訪問したのが3月始めだったことから

七段飾りの立派な雛人形が2組飾られていました。

 

 

『なんど』の隣には『おくざしき』がありますが

その間に急な梯子が掛かっています

・・・平屋造りの筈なのですが。

 

 

梯子の先には

屋根裏部屋と言うよりは

物置のようなスペースがあるようです。

 

 

床の間を持つ『おくざしき』は8畳の広さがあり

違い棚こそありませんが

書院造りを思わせる様相です。

 

 

こちらの部屋にも

七段飾りの雛人形が

・・・3組全てが小倉家のものかどうかは不明です。

 

 

こちらは『ざしき』

10畳の広さの板張りで

中央に囲炉裏があります。

 

この部屋が

小倉家の居間兼食堂だったのではないでしょうか。

 

 

立派な神棚が備わっています。

 

 

『ざしき』には

小倉家の歴史などに関する

資料などが展示されています。

 

 

『ざしき』のもともとの床板の裏面には

絵や文字が二重三重に書かれています。

 

描かれている絵は

『黒船』や『力士』などで

かなり稚拙な落書きの類です。

 

 

こちらは『力士』

かなりアヴァンギャルドな絵ですね。

 

 

驚いたのは土蔵から発見された短銃

アメリカのスミス&ウェッソン社製の

6連発リボルバー。

 

小倉家の母屋の一部が郵便局として利用され

当主が郵便局長を務めていたことから

郵便保護銃ではないかと考えられています。

 

郵便保護銃とは

現金書留などに対する強盗被害に対処するため

郵便配達員が所持を許可されていた銃で

1873(明治6)年から実施されていましたが

1949(昭和24)年に廃止されました。

 

郵便配達員が拳銃を持っていたなんて

西部劇の世界のようですね。

 

 

土蔵は

1918(大正7)年に再建されたもので

木造2階建、切妻屋根になっています。

 

 

土蔵の後ろ

バス通りを挟んだところに

もう一棟古民家が見えます。

 

 

小倉家が分家した本家の長谷川家

現在でもお住まいで一般公開はされていません。

 

 

こちらは管理棟の外側に置かれた

明治時代の下鶴間宿の写真。

 

横浜居留外国人向けの英字新聞『The Far East』の

1871(明治4)年10月4日号に掲載されたもので

『旧小倉家住宅』も写っているとのこと。

 

説明がないので正確なことは分かりませんが

藏があることなどから

街道沿いの右側一番手前の家ではないでしょうか。

 

 

大きな施設ではありませんが

宿場の商家建築として

神奈川県内でも数少ない建物は

興味が尽きません。

 

旧小倉家住宅

神奈川県大和市下鶴間2359-5

大和市下鶴間ふるさと館

046-272-6556

10:00-16:00

月曜・火曜日と祝日の翌日休館

入館無料

 

次回は、本日15時に他人の迷惑を顧みず私の好きな曲をご紹介するMUSIC編。今回は、Nightの『Hot Summer Nights』です。