スピンオフ編~東京都台東区浅草・いくつもの石碑が建ち並ぶ浅草寺境内の隠れスポット『新奥山』 | Love Beef Cutlet? Eternal Traveler~生涯旅人

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ビーフカツを求め全国各地を彷徨う超変人の超マニアックなブログです。今回はスピンオフ編。ビーフカツやその他の食べ物からは離れ、これまでの国内外の旅などで印象に残っているスポットなどをご紹介します。今日は、東京都台東区浅草の『新奥山』です。

 

 

最寄駅は

東武スカイツリーライン、東京メトロ銀座線

都営地下鉄浅草線の『浅草』。

 

もしくは

つくばエクスプレス線『浅草』。

 

 

どちらの駅からも徒歩5分程度

まずは『浅草寺』本堂で参拝します。

 

 

本堂に向かって左方向に50mほど進むと

西参道出口近くに小さな広場が見えます。

 

 

こちらが『新奥山』と呼ばれる場所で

何やら石碑がたくさん建っています。

 

江戸時代

『浅草寺』本堂の西北一帯は『奥山』と呼ばれ

大道芸人や見世物小屋などがある

江戸庶民に人気の盛り場でした。

 

『奥山』の名前の由来は定かではありませんが

本堂の奥にあることから

そう呼ばれたのではと考えられています。

 

近年になってこの一角を『新奥山』として整備し

諸碑が移設されたり、新たに建立されました。

 

 

広場に足を進めると

直ぐ右手に建つのが『瓜生岩子之像』です。

 

瓜生岩子は余り知られていませんが

1829(文政12)年に陸奥国(現在の福島県)で生まれた

明治時代の社会事業家で

孤児・窮民の救済、授産指導などに尽力しました。

 

当初は地元での活動でしたが

『日清戦争(1894~1895年)』が始まると

東京・下谷に居を移し

いも飴、飴粕の利用で戦時食品の普及を図りました。

 

同時期に後藤新平と出会い

無料診療所の全国設置を企画・推進しましたが

1897(明治30)年4月に

志半ばで68歳の生涯を終えました。

 

 

岩子の像から半時計周りに廻ります。

 

岩子像の隣には石碑がいくつかありますが

よく分かりませんでのパスします。

 

 

隣には『浅草観光讃緒之碑』

1968(昭和43)年に

浅草観光協会が建立したもので

浅草観光に貢献した方々の名前が刻まれています。

 

 

『石井漠「山を登る」記念碑』

 

石井漠は1886(明治19)年に秋田で生まれた

日本の創作舞踊の創始者で

日本近代バレエの創造、浅草オペラの旗挙げ

300曲以上の創造舞踊を制作するなど

幅広い芸術活動を展開し

1962(昭和37)年に74歳で亡くなりました。

 

第二次世界大戦中

中国慰問公演の際に交通事故に遭い

右眼が完全に失明

左眼も虹彩炎を患い視力をほぼ失いますが

その後も障害に喘ぎながらも

精力的に活動を続けました。

 

 

没後1年の1963(昭和38)年

石井の活動を顕彰するために建立されたこの碑には

実妹の栄子とともに踊った『山に登る』の姿が刻まれ

題字は谷崎潤一郎の揮毫によるものです。

 

 

『映画弁士塚』(右)と『喜劇人の碑』(左)

 

明治時代に入り

『浅草公園』が開園すると

興業街は西側の『六区』に移りましたが

その前身が『奥山』だったことから

芸能関係の碑が建てられました。

 

『映画弁士』とは

無声映画の上映中に

傍らでその内容などを解説する専任の解説者で

ナレーターの前身とも言われています。

 

もっとも人気があり有名だったのは『徳川夢声』で

石碑に刻まれた弁士たちの先頭に刻まれています。

 

『喜劇人の碑は』

笑いと喜びを与えてくれた喜劇人たちに感謝の意を表し

1982(昭和57)年に建立されました。

 

 

私が一番興味を持っているのが

『喜劇人の碑』の隣にあるこの一角です。

 

 

中央にあるのは

『曾我廼家五九郎顕彰碑』。

 

曾我廼家五九郎は

1876(明治9)年に徳島県で生まれ

16歳の時に自由民権運動に感化され

上京して板垣退助の玄関番となります。

 

その後、壮士として弾圧を受け

大阪の中江兆民の許に身を寄せますが

川上音二郎などの壮士芝居で役者となります。

 

1907(明治40)年には

曾我廼家五郎の喜劇一座に入門し

曾我廼家五九郎を名乗り喜劇役者となります。

 

1910(明治43)年に独立して一座を立ち上げ

1912(明治45)に浅草に進出しています。

 

レリーフは

当たり役『ノンキナトウサン』

題字の『群盲撫象』は五九郎の好きだった言葉で

揮毫は新幹線の『岐阜羽島』駅を誘致した

政治家の大野伴睦です。

 

『群盲撫象』とはインド発祥の寓話で

象の鼻や牙など別々の一部だけを触った盲人たちが

その感想を語り合いますが

触った部位により感想が異なり

それぞれが自分が正しいと主張して対立します。

 

その後、話し合いを進めて行くうちに

同じ動物の別の部分を触っていたことに気付き

対立が解消されるという内容です

 

 

閑話休題

 

『曾我廼家五九郎顕彰碑』を取り巻くのは

『永生の壁』。

 

1964(昭和39)年

日本の芸能団が招かれて訪中し

日中友好の端緒を作りました。

 

このことを祈念して

1965(昭和40)年に

この『永生の壁』が建立され

題字の『永生之碧(壁ではなく)』は

当時の中国の指導者のひとり

郭沫若の揮毫です。

 

 

壁には

さらなる日中友好と世界平和を願って

約300人の文人・芸能人が

思い思いのことを書き連ねています。

 

こちらは

上司の命令で捕虜を刺殺した為に

C級戦犯として処刑された元兵士の悲劇を描いた

TVドラマ『私は貝になりたい』に主演したフランキー堺の

ずばり『私は貝になりたい』。

 

この作品は2008(平成20)年に

中居正広、仲間由紀恵主演でリメイクされています。

 

 

『永生の壁』の隣には

一段高くなったコーナーがあります。

 

 

石段を上った右側には『半七塚碑』が。

 

『半七』とは

岡本綺堂の代表作『半七捕物帳』の主人公です。

 

1949(昭和24)年に

『半七』を慕う『捕物作家クラブ』の同人らが

岡本綺堂の業績を称え建立したものです。

 

 

『半七塚碑』に対面するように

一匹の丸々としたカエルがいます。

 

前足は普通に2本ですが

よく見ると変わった姿をしています。

 

 

後足が1本だけで

オタマジャクシの尾のように中央に付いています。

 

『青蛙神』という中国の妖怪で

蝦蟇仙人が従えている

3本足のヒキガエルの霊獣です。

 

道教では福をもたらす存在として信仰され

岡本綺堂も『青蛙堂鬼談』シリーズを書き

大きな関心を寄せていました。

 

 

正面にあるのは『戸田茂睡墓』。

 

戸田茂睡については

全く知りませんでしたので調べてみました。

 

江戸時代前期の歌学者とのこと

・・・そもそも論として『歌学者』って何のこっちゃ?

 

和歌の本質・作法、古歌の解釈、故実、歴史など

和歌に関する総てを研究する学問を『歌学』といい

その研究者が『歌学者』だそうです

・・・初めて耳にしました。

 

一時期、岡崎藩本田家に仕えましたが

出家して浅草に居を構え古典の研究に勤しみました。

 

伝統的な歌学が秘事口伝を主とし

師の歌説に門弟が盲従する風習に反対し

歌学の革新を主張したそうです。

 

 

『戸田茂睡墓』の隣には『力石』があります。

 

江戸時代後期から明治にかけ

大きな石を持ち上げて力を競うことが流行りました。

 

此処にある石は

浅草寺境内行われた『力比べ大会』で使われたものです。

 

 

中でもひと際大きいものは

1874(明治7)年に熊次郎という男が持ち上げた

100貫(約375㎏)の力石。

 

江戸時代後期に町火消、侠客として活躍した

新門辰五郎が1875(明治5)年に亡くなる前に

熊次郎の偉業(?)を称え

『力石・熊遊の碑』として建てました。

 

 

『三匠句碑』

 

江戸時代の俳人

西山宗因、松尾芭蕉、榎本其角の句が

それぞれ一句刻まれた石碑で

1809(文化6)年に建立されたものです。

 

 

この他に

正岡子規の句碑など

いくつもの石碑がありますが

本日はここまでにしておきます。

 

新奥山

東京都台東区浅草2-3-1 浅草寺境内

 

次回は、本日15時に他人の迷惑を顧みず私の好きな曲をご紹介するMUSIC編。今回は、Dary Hall & John Oatesの『Everytime You Go Away』です。