スピンオフ編~東京都墨田区両国・震災の恐怖と戦争の愚かさを学ぶ『東京都復興記念館』 | Love Beef Cutlet? Eternal Traveler~生涯旅人

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ビーフカツを求め全国各地を彷徨う超変人の超マニアックなブログです。今回はスピンオフ編。ビーフカツやその他の食べ物からは離れ、これまでの国内外の旅などで印象に残っているスポットなどをご紹介します。今日は、東京都墨田区両国の『東京都復興記念館』テーマにします。

 

 

最寄駅は

都営地下鉄大江戸線

JR総武線の『両国』。

 

 

大江戸線A1出口から徒歩2分

JR駅からは同10分

『都立横網町公園』の中にあります。

 

 

1922(大正11)年

東京市は陸軍被服廠の移転に伴い

跡地を買い取り

公園の造成を始めました。

 

その最中1923(大正12)年に

関東大震災が発生し

周辺の人々がここに避難しましたが

運び込まれた家財道具を伝って火が広まり

3万8000人以上が犠牲になりました。

 

『東京都復興記念館』は

1931(昭和6)年に

『震災復興記念館』として開設されたもので

震災直後そしてその後の復興に関する

写真、絵画、遺品などが展示されました。

 

 

鉄筋コンクリート造り2階建てで

築地本願寺など

多くの神社を手掛けた『伊藤忠太』が

清水組(現清水建設)副社長も務めた

『佐野利器』とともに設計したものです。

 

第2次世界大戦後

現在の名称に変更するとともに

東京空襲の歴史や

戦災復興に向けた取り組みも

展示に加えられました。

 

 

展示は

階段の右側の部屋から始まり

大震災発生と被害状況に関する

遺品や写真が展示されています。

 

 

黒焦げになった

クッキーやビスケット。

 

 

震災直後の空き地

避難民や家財道具で

地面が見えません。

 

 

日比谷交差点

 

数寄屋橋側から撮影した写真で

倒壊した建物の残骸が散乱し

市電が立ち往生しています。

 

 

銀座界隈

 

市電が交差していることから

現在の銀座4丁目交差点と思われます。

 

まだ火の手は迫っていませんが

この直後に銀座は丸焼けになりました。

 

 

浅草仲見世と浅草寺

 

浅草寺は

奇跡的に被災を免れたため

ご利益を授かろうとする

参詣者が絶えなかったそうです。

 

 

丸の内内外ビル

 

完成間近の外壁が倒壊し

生き埋めになった作業員54名が

犠牲になりました。

 

左下部に矢印で示した

人影を見て頂ければ

このビルがいかに大きいものだったか

お分かり頂けると思います。

 

 

田端駅

 

北の玄関口である

上野駅が全焼し

東北本線の始発駅は

田端駅になりました。

 

震災後の一番列車には

地方に避難する人々が押し寄せ

機関車までしがみつくほどの

大混乱になりました。

 

1970年にインドを旅した時

何度も大混雑の鉄道を利用しましたが

これほどではありませんでした。

 

 

交番に伝言の貼り紙

 

東京駅丸の内南口にあった交番

壁一面に貼られた尋ね人の貼り紙。

 

当時ラジオ放送はまだ始まっておらず

新聞も復旧していなかったため

このような原始的な方法に

頼るしかなかったのですね。

 

因みに

日本でラジオ放送が始まったのは

震災2年後の

1925(大正14)年です。

 

 

展示室の一角には

『竹久夢二』画伯が

震災後の東京の街を描いた

スケッチも展示されています。

 

こちらは

浅草寺のおみくじ売り場を描いたもの。

 

美術音痴ですので

いい加減な言葉かもしれませんが

夢二画伯の従来のタッチとは

少し異なるようにも思えます。

 

 

不忍池の端でたばこを売る娘

 

この絵は

夢二画伯のものだと納得します。

 

画伯が心暗澹とならざるを

得ないとして添えた言葉

 

~煙草をパンに換へて終わったら

この先き娘はどうして

暮らしてゆくのであらう。

賣るものをすべてなくした娘

殊に美しく生まれついた娘

最後のものまで賣るのであらう~

 

 

2階の一部には

第二次世界大戦と東京空襲に関する

写真や資料展示があります。

 

こちらは

女子学生による軍事訓練

日本政府や軍は

なんと馬鹿なことを考えていたのでしょうね。

 

 

1944(昭和19)年11月24日以降

日本が無条件降伏する翌年8月15日までに

東京は米軍による空襲を

106回受けました。

 

この写真には

日時や場所の説明がありませんが

ほとんどが焦土と化していることから

敗戦間際のことと推察されます。

 

 

こちらも日時は記されていませんが

警視庁屋上から撮影した

爆撃5秒後の銀座方面です。

 

 

数寄屋橋近辺

 

道路の右側手前から

安田銀行(後に富士銀行、現みずほ銀行)数寄屋橋支店

朝日新聞本社と日劇(現有楽町マリオン)。

 

安田銀行が罹災しているので

1945(昭和20)年1月27日と思われます。

 

 

銀座尾張町交差点

 

現在の銀座4丁目交差点

徐々に復興の兆しが見えています。

 

 

一方では

掘っ立て小屋が

町の各所に建てられ

復興いまだ遠しといった

気運もあったようです。

 

さほど遠くないところに

国会議事堂が見えますので

都心部であることは

間違いないようです。

 

 

米軍憲兵による交通整理

 

敗戦以降

連合国との平和条約が発効された

1952(昭和27)年4月28日まで

日本は米国主導の連合国軍による

実質的な占領下にありました。

 

連合国軍は進駐軍と呼ばれ

米軍のMP(憲兵)は

交通整理まで行っていました。

 

MPの背後に三越が写っていますので

銀座4丁目の交差点ですね。

 

 

館外に出ると

『震災記念屋外ギャラリー』があり

建造物の一部や自動車など

大型被災物が展示されています。

 

 

魚雷

 

『東京高等商船学校』

(現東京海洋大学越中島キャンパス)内で

焼損した魚形水雷(魚雷)の残骸です。

 

 

釘の熔塊

 

大日本麦酒(現アサヒビール)吾妻橋工場内で

樽に入った大量の釘が

震災後に発生した猛火の高熱で溶け

鉄の塊になったものです。

 

 

自動車の残骸

 

自動車のボディが焼失し

シャーシだけが残ったもの。

 

この自動車は

車両番号第一号という

古い歴史を持ち

震災直前まで

銀座の明治屋商店で

使用されていたそうです。

 

 

地味な博物館ですが

震災の恐ろしさと

戦争の愚かさを

じっくりと学ぶことができます。

 

東京都復興記念館

東京都墨田区横網2-3-25

03-3622-1208

9:00-17:00

月曜日及び年末年始休み

入館無料

 

次回は、本日15:00にオンストリート編。過去の旅などで脳裡に焼き付いている街角の光景をご紹介します。テーマは、東京都港区元麻布です