インタビュー<22>北海道からの挑戦~オプチャから悟りを求めて~愛へ気付き向日葵を届けるように🌻

ブーケ2M.Iさん 北海道 40代 専業主婦

ーこの瞑想を始められたきっかけは何ですか

当時の私は、夫との関係性も悪く、子育てにも悩んで毎日が辛くて無気力で空っぽの状態の中で彷徨っていました。夫婦間の会話も無く、意思疎通も難しい状況でした。ワンオペ育児の中、子供の癇癪も酷く同年代の子とのトラブルも多く心身ともに疲弊していました。

そんな現状から抜け出したくスピリチュアルや占いに興味を持ち始め、ラインのオープンチャットからせんせーに質問したのがきっかけで悟りや教えに興味を持ちました。オープンチャットでは、占い、スピリチュアルいくつかのオープンチャットに参加しました。「悟り」や「解脱」等のワードで検索するとせんせーがいらっしゃったいくつかのオプチャにたどり着きました。

せんせーがオプチャ主ではなくて、他の方が主をされているので、せんせーのように本格的な悟りの方が現れると、オプチャ主さんはせんせーのことを嫌がって退出させたりされて、私としてはもうちょっと質問したかったなぁ~、という形でお別れしてしまうのです。結局いくつかのオプチャからせんせーがいらっしゃらなくなってしまいました。

オプチャでの出会いですから、匿名性の中でやり取りをしていたもので、せんせーの存在はどこの誰かわからないので、がっかりしているとたまたま、奥さんのマリさんと別のオプチャで出会い、そこのオプチャ主さんは心が広くて、マリさんと交流することができました。それでマリさんと繋がってからせんせーにたどり着くことができたんですよね。

当時はどうしても悟りたいと思ったので、きっと私がしつこくせんせーを追い求めたんでしょうね。振り返ってみると、母が新興宗教に入っていて、私も一時は入信しました。ですが母の姿を見ていて、そこで疑問を持っていたので、幼少期のころから、神とは何だろうと、ずっと子供の時からの疑問があったんです。

どこの宗教でもそうですが、信仰してる人って愛から生きてるかというとそうでもなく、我欲に生きていたりとか、プライドがあったりとか説いている教えと行動がアンバランスで反比例してる、お経を聞いて何がありがたいんだろうって。なんかそういうのが元々根底にあったので、お釈迦様の本とか、子供でも分かる仏教の本などを読んで悟りを求める気持ちが小さなころからありました。

だから、結婚して夫や子供のことで悩んだ時も、一時は、子育てセミナーのようなものも学びましたが、それはもう学んでおしまい、という感じでした。私の求めているのはこれではないというのが分かって。でも、現実的に子どもや夫のことで悩んでいる、その現状が起こってくる真理を深いところから知りたかったのです。そうして、本当の悟りを教えていらっしゃるせんせーと出会ったことで、何が何でもせんせーのもとへたどり着きたいと思いました。

オプチャでは個人の連絡先を交換できないのでこのブログを頼りに連絡をとらせていただきました。その時はまだ瞑想を始めたばかりで、いろいろな方のお話を読ませていただいていましたが、そうなんだ・・・とちょっと他人事で読んでいました。今私がここに体験談を載せていただけるなんてほんとにいいのかなという戸惑いも感じています。

はじめて連絡をとらせてもらって、体験した瞑想項目は、カラスへの嫌悪感や、鳴き声、色、見た目、存在などについて、感情を感じていき、やってみてすぐに気にならなくなりました。こうしてどんなことも瞑想していけば悟りの境地に行ける!と、その時の私にとって希望が見えた瞬間でした。

そのようにして出会ったこの瞑想法で、2極を完全に無くすことが目標となりました。迷い無く悟りを目指して進む事が当然で、瞑想も習慣となり続けることは自然なことでした。

ー愛を見出すまでの苦労と愛を見出したときのことを教えてください

少しでも気になる事(物、人、状況)を片っ端から(過去も含め)瞑想していました。夢の中でも瞑想項目を探し瞑想している状況でした。項目は紙に書かずに、思いついた事柄をどんどん瞑想しています。外出中でも次々に項目が見つかったら、次々に片付けている感じです。

接客者の態度や他人の言動で気になること
歩きタバコであったり、ルール違反者であったり
障害物や、障害となる人、病気、怪我、他人のトラブル
事故、天災から連想される感情

イジメ、転校、引っ越し、親しい人の別れ
祖母への嫌悪感、父への嫌悪感、孤独感
親戚への煩わしさ、などの人間関係

噂話、誹謗中傷、男尊女卑、貧困、幼少期の労働
短命、弱肉強食、権力と腐敗、戦争、環境破壊
騙し合い、平和

苛立ち、躾、暴言、暴力、癇癪
周囲からの目、お世話、逃げ道が無い苦しさ
煩わしさ、疲労感

などなど、いろいろなテーマからそれぞれ項目を見つけていき、特に瞑想の時間を設けるというわけではなく、四六時中瞑想をしているような状態で、とにかく、2極を無くしたい一心で次々に瞑想をしていきました。

ある日の夢では、亡くなった祖母から何か言われ一生懸命に考えているのですが思いつかず、目覚めた時に物凄い疲労感が残っていました。その当時を振り返ると、未練や執着の項目を探してたのだと思います。

瞑想に取り組んだ中でも、体からは多くの瞑想項目を見ました。

瞑想を始めた頃は、足の小指や脛等を殴打したような痛みに襲われました。実際には殴打していないので数分で痛みは収まりました。項目の検討もつかないので、せんせーにアドバイスを頂きながら、殴打について、女性性や男性性について項目を探し瞑想していました。そうすると、男尊女卑の考えや男性に嫌悪感があり、自分の中に女性を卑下している部分があることに気が付きました。

接客した男性が横柄に感じた数分後に、股関節に痛みが出て歩くのが困難になったこともありました。そのときには片側の股関節だけに痛みが出たので男性に対する不信感からと、男性に対する嫌悪感も項目として残っていました。そうして浮かんだ項目を全て瞑想したら収まりました。(自分が男性の場合も瞑想しました)

物が当たったわけではないのに足の小指の爪が紫色になった時は、子供についての項目を探し瞑想しました。そのときはせんせーから男性との約束ごとで自分自身を縛っているものはないかとアドバイスを頂き、子供に束縛されている(約束も含みます)不満が根底にありました。子供から項目を見せられることは多いです。愛と愛情(エゴ)の違いや忍耐と我慢、依存についての気付きや、自身の幼少期の不満や不安や恐怖に関する項目も見せられます。

便秘や浮腫のときは、忍耐ではなく我慢が隠れていたので項目を探し瞑想しました。我慢には2極がありますが忍耐にはありません。相手の成長に繋がるものは、全て受け入れられているのかと見つめた時、我慢が隠れていると必ず2極が訪れます。我慢やエゴが潜んでいないか、常に振り返りながら瞑想しています。

例えば家族に対して良かれと思う忠告などです(躾を含めて)。子供の躾ができ、家族の健康を気にかける良妻賢母だと見られたいとの思い(エゴ)が隠れていました。

この瞑想に出会った当初、子供の癇癪や幼稚園でのトラブルに頭を悩ませていたのですが、一人で対応しなくてはいけなくて、旦那とは必要最低限の会話だけでした。最近は、子供とも積極的に関わり、私との間にも入り手助けしてくれるようになりました。瞑想を進めていき、いま、振り返ってみると半年から一年の間に少しずつ変わってきたように感じます。

ー愛を見出した時のことを教えてください

私の場合はとにかく、悟りたい、2極をなくしたい気持ちが大きくて、愛を見出したいというものはあまり重要ではなく単に一つの通過点として過ぎていきました。愛を見出すということと悟りということの繋がりが分からなくて、私としてはまだまだ2極の項目を残しながら「愛を見出した」ことが何か特別なことなのかどうかが分かりませんでした。

ただ、この2極の瞑想法に出会って瞑想が板につき、ふと振り返ってみるとどんどんと項目が減っているなという実感はありました。項目を減らしていくということと愛を意識するということはまた違うなという学びがあり、愛を見出さなければ愛からの行動もできないのだなと思い始めていきました。

意識レベルの向上(2極の瞑想、超越)と愛を大きくする事は車の両輪

とせんせーから教わり、そのバランスをとるようにと常に意識していきました。

そして愛について意識を向けて、入浴中に内観や瞑想していると、朝日が登るように少しずつ愛が姿を見せてくれるようになりました。完全に姿を表した時は、自分の体から放射状に金色の光がどこまでも広がってゆくような感じでした。とても心地よくこんなふうにして光の中に入れてあげるような存在であることが愛というように、ブッタの後光がさしているようなイメージで漠然と感じました。

ーその後の変化、目標、現在の状況を教えてください。

愛についての重要性が分かるようになり、愛からの行動なのかという視点をもつことで日々の行動を振り返り、残りの2極を探し瞑想をするようになりました。愛を基準にして瞑想項目を探せるようになったので、今までのように単にエゴを探していくのとは違い、一つ一つの瞑想の質も上がっていると感じられます。

当初の私はエゴから悟りへ執着していたなという気づきもできて、今では愛を見出して愛を意識することによって瞑想を通して、相手の魂の声に耳を傾け、寄り添いながら成長を見守れるようになりつつあります。

具体的には、子どもを通して感じることが多いのですが・・・

子どもがエスカレーターで身を乗り出したり走ったりしたら、自分のエゴを満たすための注意なのか、相手の成長を促すための注意なのか振り返ります。子供の躾もできない親だと思われ恥ずかしい等のエゴからの注意なら、項目を探し瞑想しています。

子どもの暴言と暴力、乱暴的なものが気になっていました。とにかくそのテーマから全部すべて瞑想していきましたが、次に出てきたのがいじめでした。うちの子が他の子にいじめを受けていて、なぜそんなことをするのだろう、その子に対する不信感や自分が子どもの時のことを全部瞑想していきました。

他には、ここ二年間で息子の視力はものすごく落ちてしまいました。1年生の時には1.0あった視力が、3年生になり、0.3以下になってしまったんです。すごく勉強してるとか、テレビゲームやっているとか全くそういう事も無くて、ごくごく普通にテレビもそんな普通ぐらいで、病院では特に目の病気ではないと言われました。

そういった中でどんどん目が悪くなってしまったら、最悪失明してしまったら、見にくいのではないかという心配、子どもがそのことによって周りに迷惑がかかるということの不安、そうしたものを瞑想していきました。

そして最悪失明してもいいかな、というところの境地に行けばよいのですが、そこに隠れていたものが「エゴで何かが曇っていて、なんか見たくないなあ」という思いがふと湧いてきました。まだ自分の本来の姿がエゴのほうに意識があって物事をエゴの世界にいたいなというかこうエゴを通して物事まだみたいなあというところが見つかりました。

そして、項目を探し瞑想するのですが超越する事ができずにいて、すーっと魂の声に意識を集中したら、他人への不信感や恐怖感からくる不安、苦しみや悲しみが深く深く根を張っていました。自分自身のそのようなところを解放していくとともに、子どものスピードに合わせ、愛で包み込むように見守っています。

また、「我が子」と私がこだわってしまうことがエゴになるので、よその子と自分の子で私の態度がどのように変わるのかというのが一つの見るポイントだと思っています。きっとそこで自分と他人を区別しているというふうに思って、今度は自分に落とし込んで、じゃあ自分と他人の境界線は何だろうと自分と子どもは別物だと思ってるから、そのしつけだったりとか、そういう点で見てるのかなという風に思っています。子どもを所有物として見てないかと、その境界を探すようにしています。

▷ 瞑想を通してすべての分離を統合していけば、この世にはひとつの意識、ひとつの命しかないことが分かります。自分は相手、相手は自分になるように自分の中で境界と分離をなくしていきます。

せんせーから教えていただいている真理と、実態として起こってくる現実を照らし合わせてどのようにすり合わせるのかということが今の私自身の課題となっています。真理のほうに偏りすぎていていると、まだそこに至っていないと思うことで瞑想項目をエゴが探しに行くような形になり、数ばかりこなしているような状況にもなってしまいます。もちろん、2極をすべて瞑想したいと、エゴを探してここまで取り組んできたことはそれはそれで大事なことだったと思っていますが、その段階も卒業する必要があるのですね。

エゴ探しをする自分から卒業すると、あるがままで物事を見られるようになるはずです。あれもこれもと探すのではなく、出来事が起こったな、そうだったな、という感じで。

電車の車窓からただ景色を眺めているような状態 あるがままに観るということ
そんな状態に早く自分もなりたいと思います。


でも実際に瞑想に出会って、具体的な瞑想項目に取り組んできた分、確実に進んでいるなと感じる出来事もありました。近ごろコロナがだいぶ落ち着いてきて、久しぶりに友人と会ったときに、以前はその話を聞くとそうだよねと同調していたところから、今はそうなのかと落ち着いて話を聞いて、冷たい態度ではなくて、友人の言っていることもわかるし、理解はできるんですけど、ただ聞いている自分を感じて、以前とは変わってきたなと実感します。

友人から、子供の将来についての話を聞いていて、話がどんどんどんどん積み重なっていって、最終的には自分の子供が結婚できないんじゃないかって・・・、まだお子さんは、学生なのにそんな先の先の心配していて。こうしなきゃいけない、ああしなきゃいけないっていう、余計な取り越し苦労というか。

そんな友人を見ていて、この瞑想に出会う前までは私もこんなふうだったなと思えました。きっと自分も常に恐怖と恐れと不安とともにいました。私も彼女に言ってあげたいなと思ったことで、今までせんせーがおっしゃっていたのはこういうことだったんだと、ストーンって腑に落ちた瞬間がありました。

次はその眺められるところからどうアプローチするかというところで、この2極の瞑想をおススメするのも一つですけど、それ以外にもその人その人に沿っていけるように助言ができたり寄り添えたりすることでも愛が広げられるのかなと思っています。

ー瞑想や愛を見出すことについて、みなさんに役に立ちそうなことを教えてください。

また、今は私もオープンチャットを運営しています。せんせーに参加していただき、みなさんと2極の瞑想を学べるような場をつくるためです。

ただ私が、スピリチュアル的な知識も乏しく、メッセージが降りてくるわけでもなく、ただ瞑想をしてきたというだけなので、瞑想の仕方はお伝えできますけど、その方の背景を理解してアドバイスできるかというと、まだまだそこまでではないのが現状です。せんせーが入ってくださって、いろいろ質問に答えてくださっている事で私自身の学びになります。質問されている内容や書き込みを見て、自分はどうだろうと見つめ直すきっかけになることもあります。

私は北海道在住ですが、そのオプチャに関西圏の方も参加されていて、京都へ瞑想に行かれたり、京都での総会にも参加されていると伺って、そういう形で誰かをつなぐことができた事は嬉しいですし、オプチャの中でもその方が一生懸命に瞑想されていることで本当に励みをいただきます。オプチャでは、2極の瞑想をされている方、眺めいているだけの方、2極の瞑想意外で統合されている方がいますが、そこに私がわかる範囲ではありますが、私が気づいたことを書いたりすることで、何かしら皆さんの成長に繋がるような投げ掛けができないか模索しています。そのような経験がまた対面で会う人たちにも影響を及ぼしていくような、そんな形で私も人々に働きかけができたらという思いでいます。

最後に余談ではありますが、私は向日葵の花が大好きです。8月生まれということもあり、生まれた時から常に身近に感じています。いつも私に顔を向けてくれているように思え、向日葵を見ると自然と笑みこぼれ温かな気持ちが湧いてきます。向日葵の花びらは綺麗な黄色で、凄く美しく金色のキラキラと輝きが見えます。その光は上に向かっていき、空全体、宇宙まで照らしているような感じです。心の本質を純粋で素直にしていくことで、光に満ち溢れている向日葵をいま、想像(創造)し人々に届けに行こうと思います🌻🌻





ー編集部より(とこ)
瞑想会でせんせーや仲間と一緒に2極の瞑想を学んできた私からすると、北海道にお住まいでオープンチャットだけでここまで来られたM.Iさんの集中力には脱帽です。幼少期より、お母さまの入信されていた新興宗教から不信感や色々な疑問を抱かれ、悩まれてきて・・・それがゆえにここに導かれたのですね。「愛」をとばして先に「悟り」に向かう方もおられるようですが、初めはただ「悟り」にフォーカスされていたM.Iさんが愛の重要性に気づき新たな視点で行動されるようになった。これもご自身の魂が望んだ必然だったんですね。とにかく自分の中にあるエゴを取って取って取りまくる・・・ある程度エゴがなくなってきたら、どこかに項目が落ちていないかいつも探す・・・という時期を経て、エゴ探しから卒業してあるがままを受け入れる段階へ、私も意識を変えるきっかけをいただきました。現在は皆さんの成長につながるようにと、オープンチャットの運営に果敢に挑戦されていますが、それによってひとり、またひとりと愛の輪が広がっていっていきますように。
 

 

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