【神の愛に生きるー旧友との対話より】
先日、小学時代の友人、りまちゃんとラインビデオでお話しました。中国で暮らしていた彼女ですが、昨年のうちに引っ越しをして今は福岡に住んでいるそうです。こうして離れていてもオンラインで親近感を持ってお話できました(^^♪
京都南の田舎町で共に育った私たちですが、彼女のお父さんもお母さんも京都の人ではなく、まぁ、よくあの町を選んで暮らしていたもんだねぇ~と、いろいろお話をしました^^
りまちゃんは、一家で聖書の伝道活動に励んできました。子ども時代から、彼女は熱心なクリスチャンだったことが心に残っています。ゆっくりお話をするのは久しぶりのことだったし、当時は気づかなかったことやそれぞれの思い考え方を交流することが出来ました。
私は瞑想を通して神の愛を見出したり、それを広げていきたいと考えていますが、りまちゃんは子どもの頃から聖書の教えをずっと大事にしてきて、今も勉強し人々に伝道されていて、お話を聞いてとても参考になりました。
りまちゃんが聖書を始めたのは、お母さんが子育ての頼りにしようと聖書の勉強を始め、お父さんもそれに賛同するように始め、一家で取り組むようになったという経緯からでした。聖書を学び進め、学童期へと成長する中で、心の中でどうしても探求したかったことがあったそうです。それは、「私はなぜここに存在するのだろうか?創造主はいるのだろうか?」ということ。
りまちゃんは子ども時代から聖書や他の本を読み、色々と考えたけれど、やっぱり、神がいて自分を創ってくださって、生かされて生きているんだ、と分かるようになって中学生の頃にはその活動に人生を捧げようと思うようになったそうです。
私の中では、りまちゃんは勉強がよくできて、みんなが部活動をしている代わりに聖書の伝道に土曜も日曜も励んでいるという印象が残っていました。でも学校生活ではのびのびと楽しんで、お互い好きな人の話とかしたり、手紙を交換したりと、普通の子どもでした(^^)
りまちゃんは地元の進学校へ、私は部活(バスケ)で高校を選びました。私たちの町は本当に、のほほーんとしていて、小学校でも、中学校でも、競い合うこともなく、勉強もする人はする、しない人はしない、それでオッケー、という感じ、みんな仲良しでした。
だから高校から街に出て、お互いカルチャーショックがありました。私の場合は、タバコや茶髪、暴力などをする学生たちの行動にはじめはびっくりしましたが、その中で個性的な友達や先生との交流を楽しみました。
りまちゃんの場合は、勉強に力を入れる学校だったので、偏差値やクラスの順位のことばかり。進学指導の厳しい校風でした。そんな中で、人より勝ちたいとか、上下をつけて人を見ようとする、自分の中にある嫌な部分、傲慢な部分に気づいていったそうです。はじめは、勉強を頑張ることで神は喜んでくださると思っていたけれど、そのような経緯で勉強に価値を置くことから離れて行ったと教えてくれました。
私は、高校時代の勉強はとても楽しくて、知への探求心に気づく日々。理科や数学などの科目にはまり、真理を探究したいという気持ちを持つようになりました。やがて高校の数学教師になり、進学校で11年ほど勤めました。けれども母校で経験した、人とののびのびとした触れ合いや、知への純粋な意欲よりも優先される受験主義を肌で感じました。そうして競争社会に子どもたちを育てて進ませていくことに、やがては自分も小さな子を持ちながら仕事をするようになって色々と悩みました。
家でも学校でも勉強勉強、塾に通わせて進学を促して、そのため、各家庭が教育費の捻出に経済不安を抱えている。勉強して社会に出て仕事をしてお金を稼いで、そういう、人々の営みばかりがあって、営みの中心がスコッと抜け落ちているような、教師自身もそういう社会人の一人でしかなく、これでいいのかなと疑問を覚えました。
これからは「心の時代だ」とよく耳にしたけれど、どのようにして心の時代を実現していけばいいのか当時は見当もつかずに、行き詰りました。
そうしていったん教師の仕事は退職し、ご近所さんに誘われて聖書を勉強するようになったり、また、そのころ知り合った人とのご縁から、この2極の瞑想にも取り組むようにもなりました。
私はフルタイムで公務員として働いていたころ、「働いて、教育の仕事を通して社会に奉仕して、学んで、実践して、反省して、成長しこの仕事を続けていく。」と思っていましたが、ここ数年でずいぶん考え方が変わりました。
小学校時代から伝道活動をしているりまちゃんは、新卒のころも聖書を学んで人に伝える仕事があるから、学校で英語教師として務めたこともあったけれど、非常勤講師の形で働き、中国語をスカイプで教えたり、パートで事務の仕事をしたりと、フレキシブルに働き、それに見合った生活を選択しています。
伝道活動を生活の中心において、バイトのように仕事をしていく価値観は、神の言葉を人々に伝えていく無償の仕事を本職だと思っているからこそできるのだと思いました。りまちゃんはそうして小さなころから聖書に出会って、その生き方で人々に貢献してきました。私は今更だけど、学校や社会という別の枠にあるものを知って、神の愛に基づく生き方をしたいと思うようになりました。
聖書や仏典、古くから人々が大事に継承してきた教えもあれば、今ではニューエイジや精神世界という分野も聞くようになり、より、地球の人たちが神と愛や宇宙の真理を求める時代になってきました。
そんな私に対して、りまちゃんが有名なこの聖句を伝えてくれました。
(マタイ7章-7)
「求め続けなさい。そうすれば与えられます。
探し続けなさい。そうすれば見つかります。
たたき続けなさい。そうすれば開かれます。」
私はふと、中3の時の数学の先生が卒業文集に書いてくれていた言葉だなぁと思い出し、子ども時代から現在に至るまでの色々な出来事とともに、聖書に綴られた真理と叡智に思いを巡らせるのでした。
りまちゃんが小学時代に思ったこと、なぜ自分は生きているのだろうか?自分とは何者だろうか?それは誰もが一度は疑問に思い、答を探そうとしたのではないでしょうか。「何のために生まれて、何をして生きるのか」と、アンパンマンのテーマにも取り上げられています。
生かされていることの意味、生命を維持しているのは自分ではなく神なんだということ。理科の教科書にも書いてあるような生命のしくみは決して「自分」で出来るものではありません。
こうして息を吸い、息を吐くということ、食物を食べて唾液が分泌されること、細胞が呼吸をしたり分裂したりすること、新しい命が誕生することも、物質的にも精神的にも、すべて私たちの中に住み給う神の為す業であると、どこかそれを「当たり前のこと」として、生かされていることを忘れてしまって、あくせく自分で「生きている」、そんなふうに思ってはいないでしょうか。
私たちはみな、大いなる生命である神に生かされて生きています。
瞑想を実践したり、真理を探究することで、「真」なる自分に出会っていける。この神の愛に基づいて生きよう。りまちゃんとの対話から、たくさんの学び、気付き、そして励みをもらいました(^^♪
小学時代からの親友に感謝、ありがとう
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