【人々に仕える生き方を語り合う】


今日は、以前のせんせーの投稿を読んで、ひろことえみが互いに意見を交換したことを投稿したいと思います。


ニコニコひろこ

(引用) 悟って人々に仕えることは、エゴが無いために自分よりも相手が中心になります。
↑↑
このことから自分の思考と行動を振り返ってみました。

私はこれまで割と多い割合で他者を優先し、エゴイストな夫にも従って譲ってきました。

それが悟るためにもやるべき方法だと思ってやってきたけど、

【尽くすことがしんどいと思いつつも身を削ってまでする】自己犠牲をやり続けていました。

これが私のエゴだと、気付きました。

以前の私は、このエゴをこれはエゴであってはならない、完全に尽くす人になるのだ、と自分に苦行を課し、それを瞑想していました。

苦行に苦行を重ねることにもなり、一向に晴れない、なんだろう?と少し視野を広げ自分を見つめました。


テイカーとギバーを調べてみたところ、
「頑張っていれば返ってくる」という発想が実はテイカーそのものであったということを知り、この自己犠牲を徹底的にやめること、
(前にも気付いて瞑想したけどまだ残っていた)


これが今、私の瞑想の課題です。

その課題を瞑想をしても、側面にエゴがあると取れきれず、その課題が残ったままになっているのですね。


嫌なことを引き受けるのを止めよう!と誓っても、断りきれないのは
揉めるのが面倒というのが強いです。


えみさんは、このような事はもう超越されていますか?



ニコえみ

私は以前、公立の教員という仕事をしていて、生徒のために尽くしなさい、ということが仕事のベースになっていました。

授業、宿題、指導、行事、部活、・・・・

生徒のため、生徒のためと、

本当に生徒のため??
と思えることも多々ありました。


悟っていなければ、「自分」があるから、人々に尽くすことはできない
と、瞑想に通い始めたころに、せんせーが話してくださったことを思い出します。


尽くしたつもりでいても、苦情を言われることも、恨みを買うことも、疎ましく思われることもあります。そこで、二極の感情が起こり、また振出しに戻る。


そうして何か思うことがあるならそこからまた瞑想をするチャンスがあります。


例えば、ひろこさんの言葉をお借りして瞑想をするなら、

>嫌なことを引き受けるのを止めよう!と誓っても、断りきれないのは揉めるのが面倒というのが強いです。

ということに対しては、

◎嫌なことを引き受けたとき
・苦しい、しんどい、という気持ち&引き受けなくてもよかったらどうか?
・何かが返ってくると期待している自分は恥ずかしいな&ギバーでい続けられる自分だったらいいなという気持ち
・見返りを期待しているの人に対してどう思うか?&ギバーの人に対する憧れ、いいなと思う気持ち

◎断ったとき
・もめ事が起こるとどんな気持ちか?&起こらなければどうか?

◎断り切れないとき
・自己犠牲を払うことに対してどんな気持ちか?&払わなくてよかったら
・自己犠牲を払っている人をどう思うか?

などの瞑想をしたり、

「無償の愛」「自己犠牲」などのフレーズをネット検索して、文献を読みながら

これできているかな?
これが出来る自分をどう思うかな?できなかったらどうかな?
これができている人をどう思うかな?

そういうところあるよね、しんどいねー
しなくてよかったらほっとするよね
そういう思いを人にさせてしまったらつらいねー、させない方がいいよね

・・・と感じて瞑想します。


2極(=プラスとマイナスの両極)の瞑想を実践しながら、自分とは、この両極を行ったり来たりする存在だと受け入れることだと思いました。


そういう感情の揺れを経験しながら瞑想をして、両極へ行き来する人間業を完了していくことが、悟りの境地へ行くことだと今のところは思っています^^


例えば、兵隊ならば、仕事で人を殺さなければなりませんが、国家のためなどの大義を掲げて、いくら尽くしても心が晴れないように、間違ったことをしていては心が晴れないのかもしれません。

そのように、「~~のため」が本当に、神の愛に基づくものか、人々の幸せや愛に貢献するものか?


相手に尽くす=相手の愛、良心、成長に尽くす=神に尽くすということであって、相手のエゴに尽くしてしまっていることにも、注意しないといけないとも思っています。



ニコニコひろこ

相手のエゴに尽くしていたことが、よくよく分かって、スッキリしました!

夫の思いつき発言でまたもコロコロ話が変わって振り回されっぱなしになり、もうついていけんわ!と、キッパリ自分の意見を言いました。

それを言うと夫が困る事が分かっていたので、今まで言わずに飲み込んで従ってきましたが、言うとやっぱり困った表情をしてました。


ですが、
それを終始見ていた娘は、私にニコニコ寄り添ってきてニコニコ
「ママ、よー言った!」とでも思ったのでしょう
中立な意見は人を安心させる事ができると感じました。


えみさんの教員というお仕事のエピソードから、我が家での娘の学習面や習い事などについて思い当たることがあります。

生徒のため、娘のため、というのが
尽くすことに執着すると、お節介に変わり、やらなければ無理にやらせるという押しつけに発展し、本人を苦しめることになる


せんせーの記事で
(引用) 相手のエゴを助長することや相手の要らないものまで押し付けたりします。
↑↑

とあるのは、社会の成功や貢献のことだけではなく、家庭生活にもあることだと思いました。


厳しくても本人の個性を尊重した上での厳しさはあたたかく、子供にとって成長につながるし、人への信頼や達成感、喜び、さらなる意欲など得るものも多いように思います。


できるのにやらない甘えに喝をいれてくれたり、必要な時に必要なだけ手を差し伸べる距離感や、見守られている安心感があると、人は伸び伸びと成長するのでしょうね


それが言葉ではなく、空気感で寄り添う
それが、人の幸せに貢献することだと思いました。




お互いに、日常の家庭生活や仕事を振り返り、「人々に仕えること」について意見を交換しました。相手の愛や成長に貢献していくというスタンスでいつもあることで、家族や仕事だけの人間関係にとどまらず、縁するどんな人にも接していきたいです。


(引用)
ひとりが全体のために働く人たちばかりの世界を想像してみましょう。そこに争いや競走はなく、平和や協力があり、誰一人欠けることなくみんなが豊かに暮らせます。



というせんせーのメッセージに共感しますドキドキ


私たちは瞑想を通して、神の平和や愛を自分の中に見出しました。これからさらに瞑想を続け、このような平和な世界を作ることに貢献していきます。


引用記事はこちらです
https://ameblo.jp/loveandwisdomforyou8128/entry-12585123923.html

 

 

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