【19】【~瞑想~学習指導のエゴ「よいvs悪い」の先に見たもの】

高校数学教師の仕事の半分は生徒に数学を教えることです。授業をする時間以外にも、方法を研究する、教材を作る、テストをする、評価をつける、採点をするなどの仕事がこれに当たります。


とにかく分かりやすく教えて力をつけさせる、教えてあげた生徒の点数が上がったり、教えた生徒の希望の進路が実現すること。その喜びために一生懸命に教えているのだとしたらそれは教師のエゴです。


例えば「定期試験」。



一斉にテストを受けさせて点数と5段階で評価し、入試のための報告書などに利用します。これに本当に教育的な価値があるのでしょうか。だからといって自分だけやらないというわけにもいきません。ここで一人だけやりませんとか、試験に向けた学習はしません、などということは、これもまた私のエゴとなります。


それは分かっていました。それでは、どうすればいいのでしょうか。そのために色々と試行錯誤しました。工夫もしました。教師としてどのように取り組めばよいのでしょう。


 

せんせーの教え

『仕事やすべてにおいて、”ただする”ことができるようになる。

自分にとっての好きと嫌い、善と悪は2極なので瞑想して超越していく。そうすると自分の本来の姿である自分の魂が分かり、魂として行動できる。』

 


せんせーの教えにあるように「善」「悪」と決めつけているところからエゴは始まるので私は色々な学習の指導法について一つ一つ、「よい」と「悪い」を仮定してそこからどんな感情が生まれるかを瞑想しました。


瞑想においてはこれが基本です。
「マイナスの感情は感じ尽くし、プラスの感情は手放します。」


例えば「定期試験」をすることが
【よいことだとして】
試験をすることは・・・当然である。生徒のためになる。
→これはプラスの感情です。よい感情なので何の感情も持たず試験をしている自分を思い、感情を手放します。

試験をしてはいけなかったら・・・なぜ?それはおかしい!
→これはマイナスの感情です。その疑問を感じ尽くします。

【悪いことだとして】
試験しなければならない・・・やってもムダ
→これはマイナスの感情です。この感情を感じ尽くします。

試験をしなくてもよい・・・よかった、これでよい。
→これはプラスの感情です。試験をしなくてもよくなった学校を想像し手放します。


どのように考えても感情が出てくるということは真理ではなく、これはエゴだということ。何らかのエゴを持ってそれぞれの仕事をしているということがよく分かりました。


そうして私は一つ一つの指導に付随するエゴを見ることにした。定期試験に始まり、テストの採点、成績をつける、小テスト、補習、プリント作り、与える指導、分かりやすい授業、受験のための講習、カンニングの指導、その他諸々、これらはすべて、するもしないもどちらもエゴだとわかりました。


それでも、根深く違和感が残っていたものが「授業中に生徒が寝る」ということでした。色々と瞑想をする中で「善」「悪」のエゴをとったあとにも


つよく「悲しい」という感情が残りました。


眠る=永遠の眠り。それも何人も次々に教え子が死んでいくような、そんな光景が記憶の中でフラッシュバックする。戦争中だ。日本の子どもたちです。感染症にかかり、1人また1人と、避難させた子どもたちが死んでいく。
私の過去生をハッキリ思い出した! 私は昔の日本で先生をしている。


そこに深い悲しみがありました。瞑想を終えて目を開けて、私はひとこと、「ありがとう、生きてくれて。」と言った。誰に対して言ったのだろう?


私が先生をしていたのはこの人生が始めてではないとそのときに分かりました。こんなふうに、今の人生のエゴを一つ一つ取りのぞいていくと、瞑想をすすめるにつれて、過去生の記憶がふと訪れることが何度もありました。


これは本当に過去生ですか?妄想や空想なんじゃないのだろうか?と思う一方で、記憶にないものがどうして、妄想したり空想したり出来るのか、とも思えるのです。


どこかで見聞きした情報だとしても、たくさんの情報を見聞きして生きてきた中で、どうしてその記憶だけが印象に残っているの?と問うと何かそこに運命を感じ、同時に私の人生が今のこの私のものだけではないという確信に変わっていきました。私はもうたくさんの経験をしてきたんだ。


せんせーが言っていたことばを思い返す。

 

『地球上の人達は何度も生まれ変わって物質次元の2極の世界を堪能しました。その中で十分堪能した魂は、いわゆる成熟した魂と呼ばれ、2極の体験を卒業するのに相応しい存在となります。

地球自身も成熟し、2極を超越して愛から生きれる星へと進化しようとしています。そして人類もそれに合わせて進化しようとしています。』


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このようにして、瞑想をすすめ、1つまた1つと、過去生の自分に出会うたびに、魂が静寂の境地に導かれていくのを感じました。

 

瞑想をしていると、初恋をしたときのように胸がドキドキして、その感情が誰に対しても向いていない。そのようなドキドキを嗜むためにまた、目を閉じて座っている。

 


この感情は誰のものでもない、私のものだと分かります。それでは私とは誰なのでしょうか。


洗面所で顔を洗って、鏡に映る自分の顔が昨日見た顔とは違って見える。
何でもないまいちにを過ごす中で、不思議な旅に出たようなそんな気持ちを味わいます。


お読みいただきありがとうございました。

 

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☆from 星野絵美☆

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