純粋が好きな人へ 「悪」は人の不完全さのあらわれ | 365日希望をもたらす天使の教え

365日希望をもたらす天使の教え

スピリチュアルガイド(ティーチャーガイド)から自動手記で受けとった愛と希望のメッセージをお届けしています。

違うことはいけないことでしょうか

いいえ

すべては違っているのです

 

たくさんのものが

それぞれに違って

それぞれの美しさを放っています

 

それを楽しむか

それを間違っているとするのか

それはあなたの心次第

 

そこに愛さえあれば

どんなものも輝くことができるのですから

 

マリアandとしえ

 

 

 

 

 

 

 

なんだか、どこか今のこの状況は、戦争中みたいだ

そう感じます。

 

何がだろう?

と考えてみました。

 

きっと、自分一人ではコントロールできない

もっと大きなものの中で苦しい思いをしている

ということだと思います。

 

私がここで言っている「今の状況」とは

 

ひとつは日本で世界でコロナの感染が広がり続けていること

 

もうひとつは地球温暖化による

日本では主に豪雨、洪水、猛暑

ヨーロッパなど世界各地で起きている

熱波、山火事、雨が降らない、干ばつ、洪水などによる被害のことです。

 

 

また、プラスチックの汚染は地球中で起こっていて

推定で海に毎年1000万トンのプラスチックがもれ出しているのに、年間4億トン(2016年)ものプラスチックが生産され続けていて、

 

南極、北極、太平洋の無人島、深海にまでプラスチックが見つかり、海洋生物がそれを食べ、生態系を脅かしているという事実。

 

(海洋プラスチック汚染 中嶋亮太著より)

 

 

国連がここにきて、やっと

「地球温暖化は、人間の活動が原因」と発表したことをNHKのワールドニュースで知りましたが。

 

今まで認めてなかったってことでしょうか。

人は自分の過ちを認めるまでに時間がかかるのだなぁと感じました。

 

 

そんなことを感じていたところに

NHKの「映像の世紀」という番組で中国の1900年代の歴史を2時間ほどにまとめたものを見ました。

 

 

私は、学生の時からあまり歴史に興味が持てずにきました。

高校3年生の日本史の先生の話がとても興味深くて、初めて面白みを感じ、

社会科の良い先生にずっと出会えてこなかったんだなぁと気づきました。

 

先生の教え方で興味が持てたり、持てなかったりってありますよね。

 

 

また、ある時

「学校で教える歴史は政治史ですね。文化にスポットが当たっていない」と語っている人の話を聞いて

 

「ああ、なるほど、言われてみればそうだな。

権力に興味のない私には、権力の移り変わり、政権争いに興味が持てなかったんだなぁ」とわかりました。

 

 

そんな私がなぜ中国の歴史を見てみようかと思ったかと言えば、ほとんど何も知らないので知るのもいいなと思ったのと、ノンフィクションに魅力を感じるからでした。

 

事実は小説より奇なり

 

現実世界で起こった人間のストーリーって深みがあります。

本当のことですからリアルです!

 

「人間とは」という

人間の心理、在り方にもたくさんの気づきがあります。

それは、同時に人間である「自分」について知ることでもあります。

 

 

中国の歴史を見て特に印象的だったのは、

毛沢東が一度政権を退いた後に文化大革命を起こして政権に返りざいた時にやったことでした。

 

以前の政権に関わっていた者たちを糾弾し、辱め、暴力をふるい、殺す。その時の映像は生々しいものでした。

 

 

毛沢東の望む以上に群衆はその方向にどんどんエスカレートして、ついには、毛沢東が若者を街から追い出し、農業に追いやるまでになりました。

 

しかし、

やがて時がきて、弾圧されていた勢力が力を持ち、今度は毛沢東側の人間は裁判にかけられ、処刑されます。

 

人間はそういう「危うさ」を秘めているのだと感じました。

 

 

「正義の反対はもうひとつの正義です」

 

温暖化ストップに奔走する環境活動家の谷口たかひささんが言っていましたが、彼は自分と違う考えの人に対し、

 

「相手は相手で自分とは別の正義を持っている」

と認識したのでしょう。

 

 

「自分こそが正しい」と

ある考え方に夢中になってしまうと

そうでない人を「悪」と決めつけ

「対立」することになってしまうのだと思います。

 

危険ですね。

 

絶対的に「正しい」ことってあるのでしょうか?

 

自分が「正しい」と思い込んでいるだけとは言えないでしょうか?

 

 

「人の良いところ」は

感じよう、見つけようと意識することで見つけられますが、

「嫌なところ」「嫌いなところ」を見つけたり、指摘する方が簡単です。

 

人との「違い」を見つけることは

人との「共通点」を見つけることよりたやすいのだと思います。

 

 

純粋で清らかなものが好きな私ですが、

残念ながら人間は不完全です。

 

混じりけがあるということですね。

純白とはいかない。

 

二分された白と黒があるのではなく

さまざまな濃度のグレーもあるし

 

人間の心もこの世界も

単色ではなく

さまざまな色が入り混じったマーブル模様なのだと思います。

 

多様だということですね。

 

ある時、ガイドがそのビジョンを見せてくれて

深く納得しました。

 

 

私は植物が好きで、ベランダや室内にグリーンをいくつも育てているのですが、葉の一部が枯れたり、葉の全体が黄色になって落ちてしまったりということがあります。

 

すべてが元気であり続けるということはありません。

 

それでもその木全体としては生き続けている。

 

 

人の体と心、この社会、世界もそんな風に

元気で健康的なところもあれば、病んでいる部分もあり

そして、死と再生を繰り返しているのだと思います。

 

 

中国の血生臭い勢力争いや民衆の暴挙を目の当たりにすると

「人間って残酷な生き物だなぁ」と嫌な気持ちになりました。

 

また、人間が作り出したプラスチック製品で地球のあらゆる生き物に害を与えているのに、今だに毎日膨大に量産していることを知って吐き気がしました。

 

 

「対立から生まれる好ましいものはない」と知りながら

人間の「悪」に怒りと嫌悪を感じ始めている自分がいました。

 

 

そんな翌朝

 

 

「悪は人間の不完全さのあらわれ」

 

 

というメッセージを受け取りました。

 

なるほど

 

人間はもともと不完全

愚かなところを持っています

 

失敗もします

悪いこともします

人をわざと傷つけることもします

 

それを「良し」とすることではありませんし

「改善しなくていい」ということでもありません。

 

でも、人間の不完全さが起こしていること

 

そうわかったら

 

それは赦すしかない

 

と思いました。

 

 

「赦す」というのは、

あなたは間違っていることをしましたね

でも、私はその罪をこれ以上責めることはしません

 

ということです。

 

 

人は、不完全さを抱えながら一生を生きていきますね。

精神的に自分を成長させ続けても「完璧」には到達しません。

それは仕方がないことなのだと思います。

 

不完全さを抱えながら

今の自分の、その人の自己ベストで生きている。

 

 

その人が今、そのようであるには必ずそうである背景としての理由がある。

 

それがわかれば「赦す」しかないのですよね。

そうせざるを得ない。

 

「私はそのことはイヤだった」と感じていい。

 

「これはそうあっては欲しくない」と要求してもいい。

 

 

ただ、自分が「悪」と感じるようなことはこの世界には起こり続けるのだろうということ。

 

 

人間には自由意志が備わっていて

自分がどのような感情、考え方を持つのか

行動をとるのかを

「選ぶ」

ことができます。

 

 

人を害する行動、人を大切にする行動

どちらも存在する

自分はどちらを選択するのか

 

 

自由意志で何かを瞬間瞬間、無意識的に意識的に選ぶ

それがその人の日々を

人生を作り

その集合体が世界の出来事になっていくのです

 

 

人は顔が全部違うように

頭の中の考え方もみんな違う

体も違う

 

日本人は外見が似ているので

かなり同じに見えますが

本当は全然違う

 

その違いを同じようにしようとするのは不自然なことだし、不可能なことなのだと思います。

 

違う違うと叫んでいても意味がないのですよね。

 

 

違うものが違うままに存在することを受け入れる

それが多様性

 

 

そして、違う同士で

幸せに生きたいという同じ願いを持って

協力したり、共創しあうのが

お互いを活かす道なんだろうなぁと思います。

 

おもしろかったのは、

 

フランスのある街でのこと

 

川沿いの木陰の下に座り心地の良さような木のベンチが4つ5つ並んでいます。

 

おじいちゃんたち10人ほどがそこに腰かけ楽しくおしゃべりをしていました。ご近所さんなのだと言います。

 

そうやって集まっていた仲間が亡くなると

チューインガム一枚程のサイズの金のプレートに名前を刻みベンチの背もたれの一番上に貼ってあげ、友をしのんでいました。

いつまでも一緒だよってことですね。

 

とってもあたたかい友情。

 

そのおじいちゃんたちがニコニコして

「いつも意見が全然合わないだよ」

 

別のおじいちゃんも楽しそうに笑いながら

「本とだよ!ぜんぜん意見が合わない」

 

でも毎日そこに集まって楽しくおしゃべりをする。

それを長年続けて日課にしている。

 

おもしろいなぁと思いました。

 

意見が合わないことを自然なこととしているのを感じました。

 

 

違っていい

違って当然

 

 

そうとらえることで

相手を「悪」とみなさずに済むのではないかなと思います。

 

悪とみなすと対立し、相手を糾弾する方向に行ってしまいます。

 

 

「あなたと私の意見は違うかもしれないけど

対話をしませんか?」と対話の機会を持つ。

 

相手の話に耳を傾け

「あなたはそう考えるのですね。」と違いを認める。

 

そして、「私はこう思います。」と自分の意見を伝える。

 

その先に、お互いの妥協点を見つけ出し

共存し、共創することができる可能性が広がる

 

そんな気がしています。

 

 

写真は神保町にある御神木

街が開発されたの中に残されていました。

古いものと新しいものの「共存」「共創」ですね。

 

 

では、また〜ニコニコラブラブ音譜