気候にしても考え方にしても、いろいろなことが極端化、二極化していると感じることが多いですが、何かご自身で思いあたることはありますか。

 

私は年のせいか、ものぐさ度が増した気がします。でも、同世代でも活動的な人は多く、動かないと健康によくないので家でのエクササイズだけは続けています筋肉

 

さて、今回は正しさについてのお話です。

 

今話題の宝塚も、「清く正しく美しく」がモットーだとか。実は私も心理を学ぶまでは、「強く正しく美しく」ありたいと思っていました。

 

でも、結局この「正しく」っていうのがくせものなんですよね(「強く」もですが)。

 

なぜなら、正しさってあらゆることへの免罪符になってしまいがちだからです。正しければすべて許される、みたいなイメージってないでしょうか。

 

反対に、正しくないと「悪い」「間違っている」「ダメ」と人格を否定されるようで、失敗や評価を必要以上に怖れるようになって、自信がなくなる原因になるように思えてなりません。


かつて私が正しさを拠りどころにしていたのは、正しくあれば誰にも否定されず安心安全だと思っていたからだと思います。それだけ自分に自信がなかったんですねぐすん

 

実際、自信がない人ほど、正しさや正解を求めたり、「私は悪くない」と自分を正当化したり責任逃れをしたり、正しくないことを許さず正しさを盾に他人を攻撃するような印象があります。

 

恐ろしいのは、正しくない=間違っていると極端に考えてしまうことで(自信がないと極端に考えやすい傾向があります)、間違っている人やものごとは、否定・排除・矯正することが正義であるかのように堂々と攻撃してしまうこと(自分のことも)。

 

だけど、絶対に正しいことって誰がどう決めるんでしょう。

 

同じ行為でも文化や個人によって意味が変わることって多いですよね。私は、人を故意に傷つけるのは正しくないことだと思いますが、戦争をしかける人たちは自分たちが正しいと思っているはずです。

 

私は、裁判官でも神でもないのに、誰かを裁く権利はないと思います。

 

そう考えていくと、絶対的な正しさを求めることに意味はないのではないか、結局は自分がどう判断するかということに行きつくのではないかと私は思うようになりました。

 

正しさを求めることは、ものごとの判断基準を他人にゆだねることになります。そうすると、他人の顔色をうかがったり、悪く思われないように気をつかったりして、常に他人からの評価を気にしなければならず、「私の選択は正しくないのではないか」という不安がつきまとうことになります。

 

そして、自分がそこまでエネルギーをつかって正しさを追求しているので、他人にも正しさを求めるようになり、正しくないことや人を許せないと思いやすくなります。

 

これって、自分を追いつめ、他人を許せなくなるという、悪循環そのものだと思いませんか。

 

じゃあどうしたらいいかというと、ものごとの価値判断を自分で考えるようにする習慣をつけるってことじゃないかと思います。

 

こう言うと、正解を求めてはいけないのかという反応もありますが、それこそが極端な考え方で、もちろん、正解が必要なときもあります。たとえば、何かのやり方がわからないとき、正しい方法や知識は必要です。

 

でも、何かについてどう思うかに正解はありません。いろいろな情報を参考にすることは大事ですが、最終的には自分はこう考えると納得し、間違ったと思えば素直に学習・修正することが自信を育て、他人の違う意見も尊重できるWin-Winの生きやすさにつながるのだと私は考えます。