ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

カウンセリングサービスやなぎあこです。
『恋愛テクニック』金曜日「大人の恋愛術」執筆を、吉村ひろえ沼田みえ子とともに担当しております。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

丁寧に紐解けば、終わらない問題はありません。
時間がかかっても、終わらせるだけの価値はあります。
ルーツに光が入って浄化され、ありのままのあなたを生きられます。
人生に勢いも出てきます。

帆を上げて往く、船のように。

【光が当たろうとしている大きな流れ】

「権威との葛藤」は「『素晴らしい私』を表現できない問題」でもあります。

良さ、魅力、美しさ、才能、さまざまな言い方がありますが、そんなもの私にはない! という否定やかんしゃくも含めて、人生から引きこもり『素晴らしい私』を周りに見せることができないと、「出会い力」が損なわれとても損をするのです。

人は関係性の中を生きている社会的な動物です。いわゆる「良いご縁」に恵まれると、恋愛でも結婚でも、仕事でも、流れに乗りやすく、ひとりで頑張り過ぎなくてもいいために、生きやすくなります。

上のポジションにいる人や影響力の高い人、幸せな人や豊かな人など「権威」に見出されやすいのが、「良いご縁」に恵まれる前提条件です。

『素晴らしい私』を表現できずにいたり、逆に無意識にでも『悪い私』のアピールばかりをして自己破壊的に生きていると、当然ながら「権威」の目には止まらなかったり、要注意と見られたりしますから「良いご縁」がつきにくいのですね。

親との関係が、権威との葛藤に現れます。親を嫌っていたり見下していたりすると、葛藤が現実化して、権威に愛されにくい態度を取ってしまうため「良いご縁」に恵まれにくくなります。

親を許すのが大きな課題になりますが、家族で一番近しい/近しかった関係だからこそ、些細なことでも許しにくいものです。「親を許す」は一生と言いますが、人生の課題が親との関係に集約されていることを表した表現ですね。

しかし、考えてみて欲しいのですが、親を許せないのは、私たちの親も同じなのです。つまり、親も権威と葛藤していて、家系で乗り越えられていない課題になっていることがあります。深刻な状態だったり、問題が重いと体感されていたりする方は、家系まで広げて見てみると、大変ではありますが、葛藤が終わり、人生が大きく開けることはよくあるのです。

ルーツの浄化とでも言いましょうか。

特に、日本に暮らしていれば、2世代あるいは3世代遡ると、すぐに戦争の話が出てきます。カウンセリングを受けていただく方が60代ですと、親が戦争に行かれている場合も多いです。コロナ禍の少し前からの趨勢かなあと思いますが、世間に「戦争トラウマ」という言葉も出てくるようになってきました。個人的に鎮魂をされていた方はとても多いと拝察しますが、隠れていた社会的な課題に、光があたろうとしている大きい流れがあると感じています。

当代と次代くらいは強く葛藤するものですが、当代と第三世代くらい、つまりおじいちゃんおばあちゃんと孫は、案外客観的に物事を直面できて、許すことも叶いやすいです。すると「おじいちゃんおばあちゃんがこんなに辛かったなら、お父さんお母さんの親との関係も悪くなるな」とか「お父さんお母さんが私をうまく愛せなかったのは、おじいちゃんおばあちゃんから苦しみを引き継いでいたんだな」とか思えて、理解が進み、親を許すことも叶ってゆくのです。

権威との葛藤が、ごく自然な形で解消されるように実感しています。

素直に『素晴らしい私』を表現できるようになり、「良いご縁」がつきやすくなり、生きるのが楽しくなってきます。

恋愛や結婚ならまさに良縁を授かったり、急に別れることになったり、新しい良縁がついたりすることも含めて、お付き合いしている人との関係が、急速に進展することもあります。

特に、おじいちゃんおばあちゃん世代が抱えている罪悪感を浄化できると、目の前に現れるのは、天命とか天職とかになる印象です。真実のパートナーシップと天命は同時にやってくるなんてことも言いますね。

いずれにせよ、世界に生まれてきた意味を、深く理解できるようになり、世界を生きるよろこびを深く体感できるようになりますが、おじいちゃんおばあちゃんが可愛い孫のために後押ししてくれる印象です。

深いしわが刻まれた、ご先祖さまとしてのおじいちゃんおばあちゃんというより、彼らが苦しんでいたごく若い頃の魂が解放され、今を生きる私たちと統合して、蓄積されていた情熱として燃え盛る感じでしょうか。

彼らの心の傷を理解する必要があります。

問題は、解消されなかった場合、引き継がれてゆきます。
したがって、彼らの受けた心の傷は、あなたに今起きている辛いこととして現れているのです。

少し時間はかかるかもしれません。
でも、丁寧に紐解いて行けば、必ず終わります。

ありのままを意識することなく表現できて、人気が出ます。
あなたを見出してくれる人に、出会います。

人生が、開けてゆきます。

【高次の自分は水先案内人】

実は、辛いことは、無意識に乗り越えようとして、自分で起動させています。
もう少し詳しくお伝えしてみましょう。

私たちの心は層になっていて、最下層、無意識の領域に、とても賢い心があると考えられています。神様と同じ心性だと言われています。さまざまに表現されますが、心理学では「高次の自分(ハイヤーセルフ)」がよく言われるでしょうか。仏性とか神性とかとも表現されます。お好きな捉え方でいいと思います。

一人一人の心にある「高次の自分」が、課題に直面して乗り越えるために、すごく嫌なんだけど避けられないことを起動しています。長くかかったり、何度も同じようなことが起きるなら、ご先祖さまが乗り越えられなかった課題が隠れています。深層心理ではどうしても乗り越えたくて、長く取り組んだり、何度も辛い思いをしたりすることを「高次の自分」が起動しています。

ネガティブなマインド(エゴとも言います)は、辛いことを罰だと捉えさせます。ところが「高次の自分」視点で捉えると、乗り越えるチャンス以外の何ものでもないんですね。

選択で、どちらにも転がります。

ネガティブなマインドは必ず「間違った解釈」を囁きます。しかし、人は罰を受けるために生まれてくるのではありません。幸せになるために生まれてきます。だとしたら辛いことは、出来事の意味を理解して「幸せになるために」起きる以外に考えられません。

「高次の自分」が、学習機会を設けてくれているわけですね。

新しい知識や、新しい物の見方が必要です。アンチテーゼやカウンターではなく、より上昇した、レベルの高い捉え方が必要です。成熟した物の見方とも言えるでしょう。

例えば、被害者は、割と簡単に加害者に転じます。あんなに傷ついてきたのだから、誰かを責める権利があって当然だ、私と同じように傷ついてもらう必要がある、などと発想します。傷ついたように傷つける、とか、奪われたように奪う、とか、被害者が加害者に転じるのが復讐ですよね。当然ながら、加害者になることで、被害者を再生産します。

閉塞した力動により、被害者は加害者に転じて被害者を再生産しますが、その被害者もまた加害者に転じるので、さらに被害者を再生産し…とキリがありません。ポジションは被害者と加害者を行き来するだけで、どこにも行けずぐるぐる回る永久機関なのはお分かりですよね。被害者か加害者に固定されても、それはそれで地獄なわけです。

だからこそ、より上昇した、レベルの高い捉え方を学習する必要があります。攻撃性を選ばない「無害者」への進化です。誰かが「無害者」になることを選ぶと、攻撃は終わります。傷ついたり傷つけたりする意志が全くなければ、相手の罪悪感を刺激しないからです。

課題は必ず、自分自身の再誕生とセットになっています。知らなかったことや、これまでは絶対にしなかったことの学習が必要です。避けてきたり、すごくやりたくないことだったりするかもしれません。

しかし、ずっと逃げてきたことこそが、直面しないと先に進めないことだと、わかっていることもよくあります。

もっと楽で、嫌な思いをしなくていい方法があるはず、と探したくなるかもしれません。でも、痛み止めのファンタジーに過ぎないことも多いです。心の傷を癒やし、幸せになったり前に進んだりするプロセスで、一旦嫌な気分を再体験することは避けられません。

新しい自分に再誕生する産みの苦しみです。不思議なことに、楽そうな方法を探して実行してもすぐに頭打ちになり、さらに学習を深める必要が出て来たとき、全く違う人から、以前反発したことと同じ内容を指摘されることが起きるものです。

心の深いところにいる「高次の自分」が、学習機会として辛いことを起動しているなら、絶望にあって一筋の光をずっと探し続け、生き続けてこれた祈りも、同時に存在するはずです。


【今ある人間関係を使って再現される】

大好きだった人に振られた、パートナーが浮気をしている、仕事で評価されない、理不尽な思いをしている、嫉妬に苦しんでいる、などなど。

辛いことは「高次の自分」が、学習機会を起動しているのでしたよね。一旦、隠れていた心の痛みを感じる、とも申し上げました。

トラウマの再演とも言いますが、傷ついた当時の状況を、今ある人間関係を使って、再現している状態です。

人は普段、傷つきを切り離して生きています。まともに感じると心が耐えられないほどひどい感情だからです。だからこそ、問題に直面しなくていい選択をして、うまいこと逃げ続けます。言い換えれば、傷ついた当時の状況を思い出さないように生きているのです。

ところがやはり、逃げ切れない問題が出てくる。「高次の自分」が起動していますから、深層心理で乗り越えると自分が決めているので、直面せざるを得ない状態になります。嫌だけど、向かい合うことが出来る。

傷つきの原体験は、子どもの頃にあります。

基本的に子どもは感情の生き物です。私たちよりごくシンプルな世界を生きています。だからこそ、感情の傷つきにはとても敏感と言っていいでしょうね。

また、感情の生き物だからこそ、自他の境界線が曖昧な世界にいます。傷ついたお母さんのそばにいた子が、お母さんと同じ傷つきを持って生きることがあるのは、お母さんの世界を理解しようとして、感情をそのまま自分にコピーして、アイデンティティにするからです。心が感じているままに、現実化して世界が創られますから、子どもの頃に辛かった経験が、今ある人間関係を使って、再現されるわけですね。

私は20年近く前に初めて弊社のカウンセリングを受けましたが、「恋愛がうまくいかない」悩みを相談していました。

20代半ばで結婚を考えましたが、お別れに至っています。人と関わることなく自立的に生きていたぶん、恋愛関係では隠れた依存が出て来ますから、要するに自分の欲求ばかりで振られてしまったのですね。

大好きな人でしたが、お別れした当時は、何も感じられなかったことを覚えています。あの頃は「別れても何も感じないってことは、私はあまりあの人のことは好きじゃなかったのかな」なんて誤解もしていました。

違うのです。心が粉々になった痛みがひどすぎて耐えられないから、切り離してやり過ごしただけなんですね。

カウンセリングを受け始めたとき、カウンセラーにはよく「(感情が)麻痺していますね」と言われました。

感情は、選択的に感じることができません。心の痛みを感じないようにしてしまえば、悲しいも嬉しいも怒りすらも感じられなくなります。感情が平板化してしまうのです。

何も感じられなかったのは、心が麻痺をしていたからなんですね。

彼とお別れした後、片思いばかりだったり、パートナーがいる人しか好きになれなかったり「私だけを見てくれる人」と出会うことができませんでした。

客観的に見ると、その人はちょっと難しいのでは…という人ばかり好きになる。まるで、初めからお付き合いが叶わない人ばかりを、選んでいるようなのです。うまく行きそうな人には目が行きません。上手に避けていたり、雰囲気がよくなってくると、無意識に関係を壊す行動に出てしまうのです。

つまり、お付き合いが成立しなくていい、本当に好きにならなくていい選択を、繰り返している。かなり自己破壊的ですが、当時は全く気付けませんでした。

心の中で「好きな人」と「別れ」がくっついているので、「好きな人」が出来ると「別れ」を予感し始めて、無自覚に関係を壊すのです。なぜでしょうか。

もう二度と、傷つきたくないからです。
心が粉々になったのです。

傷つきを思い出す前に別れてしまえば、傷つかないと思っているわけです。
なんだか切ない話ですよね。

結婚を考えた人に振られる(振られるような行動をして関係を壊す)ことも、もう二度と傷つきたくなかったからですが「子どもの頃に辛かった経験が、今の人間関係を使って再現される」なら、心が粉々になったのは、いったいいつだったのでしょうか?

両親は、私が14歳の頃不仲が決定的になり、父が家を出て愛人さんと暮らすようになりました。忘れられないほど辛かったですし、なぜうちにはお父さんがいないのかと、毎晩枕を濡らして泣いていました。

しかし、父が家を出て行った辛い経験すらも「子どもの頃に辛かった経験が、今の人間関係を使って再現される」ように感じていました。

強い痛みの感覚は、もっと小さい頃からあったように思っていましたが、あまりにも記憶がぼんやりしていました。しかし、もし本当に心が粉々になったなら、痛過ぎて、だからこそ麻痺してぼんやりしていたのでしょう。

私の例に限らず、小さな子どもの頃、つまり感情の生き物だった頃に感じた傷つきは、さまざまに織りなされていた周りの大人の感情も、背負って同化していることがとても多いのです。人によっては、心の中で、本当に小さな子どもが、抱えきれないほど多くの感情に押しつぶされそうになっていることもあります。

傷つきの理由を、お父さんが家を出て辛かった、お母さんに怒られて辛かった、のように単純化して解釈しやすいのですが、例えばカウンセラーに指摘されても、しっくりくる感じがあるようなないような…という状態なら、もっと重層化した感情の中にいる(いた)と思った方が良さそうです。

思ったよりも、重大な出来事が「語られていない」可能性が高いのです。

さらに、多くの場合、家系から引き継いでいる、乗り越えられていない痛みが関係していますが、以前の私のように感情が麻痺した状態ならば、逆説的に、心が粉々になったくらい、あまりにも酷い出来事が「語られていない」と想定できます。

「高次の自分」は、何度でも学習機会を起動させます。
乗り越えて、幸せになるために。

権威と葛藤することをやめて、ありのままを生きられるようになるために。

【「無」という麻痺】

心が粉々になったといえば、小学生の頃、毎日母に怒鳴られていたことが思い出されます。記憶は何度も鮮烈に思い出すものの、当時を理解するために必要な、決定的なピースがずっと欠落しているようにも思っていました。

今の私にとって辛いことといえば、身体障害者になったことと、リハビリです。※1
動かない身体を動かすのは、とても痛くてしんどい。しかし「高次の自分」が、幸せになるために起動した、学習機会ならば。

明らかに誰かを理解するために、経験しています。
痛みを共感的に理解し、自分と相手の心がつながると、隠れていた罪悪感は、ふたり同時に浄化され、愛に置き換わります。

辛さを、内的に苦しむことにしか使わないなら自罰の一環ですが、誰かを理解するために使うなら、たちまちに許しや祈りが現れて、癒しが起きます。

9歳頃、感情的になった母に怒鳴られ、叱責が毎日続いているのが当時の状況でしたが、当然ながら虐待ですし、生まれて初めて、死にたいと思いました。この頃傷ついたといえばそれはそうなのですが、でも真芯の解釈じゃないとずっと思っていたのですね。

はっきりと、強烈に、死にたいと思った日のことは今でも覚えていますが、結構長いこと、自分の感情としての死にたい気持ちには、ほんのわずかな違和感を覚えていました。

不可解だったのです。9歳の子どもにしては、ずいぶん大人びた考えに思えてなりませんでした。

毎日怒鳴っている母に対して、お母さんは私のことが嫌いなのに、生きていてごめんなさいと、お母さんが好きだから、邪魔にならないように死んであげたいけど、死ぬのが怖くて、死ねなくてごめんなさいと、思っていました。

生きていてごめんなさい、死ねなくてごめんなさい…???
9歳の子どもが???

大人びた子だったのは事実ですが、一方で、木登りが好き過ぎて、電柱にまで登ってしまうような(当時は木製でした)、能天気な子であったのも事実なのです。

心理学を学ぶにつれて徐々に、これ、私の感情じゃないっぽいな…と思うようになりました。

じゃあ誰?

当時の家族構成を考えても、誰もしっくりこないのです。ただ、ひとりだけ、父方祖父がよくわからない人だったために「嫌疑不十分」としていました。

祖父は寡黙で、謎に包まれていて、同居していましたし、それなりに思い出もありますが、知らない人のようでした。「無」がただある感じです。でもちょっと変ですよね。「無」は、ないから無なのであって、「無」が「ある」って、矛盾していませんか。

ところが。

前回も少し書きましたが、思うところあって、船乗りだった父方祖父の軍歴証明を取りました。※2
祖父が当時勤務していた船は、丸ごと陸軍の徴用船になったので、軍属となっていました。※3

兵隊として陸軍の軍隊に所属した記録も調べましたが、該当なしでした。したがって、終戦時の本籍地自治体から兵籍簿が手元にやってきたわけではないのですが、厚生労働省からは、乗船していた船の人事記録(船員カード)や、航行記録の写しなどを頂くことができました。※4

祖父が乗っていた船は、病院船となりました。昭和18年夏からは衛生班の乗船記録がないために、軍需物資を運んでいたと考えられます。南方の激戦地を巡っています。

終戦の前年、昭和19年夏に、海南島の南沖で、荒天のために船は沈没しています。引き上げの記録は見当たりませんでした。今でも海底に沈んでいるのでしょう。

沈没、という文字に私はどきっとしました。祖父自身は、生還し、終戦後に家族と再会しているからです。

船が沈没することがどういうことなのか私には理解できなかったのですが、ある物理学に詳しい人に話をしたら、おじいさんは九死に一生を得たでしょうね、との答えを得て、そりゃあそうだよな…と感じました。

同時に、機関長だった祖父を思うとやりきれない気持ちにもなりました。責任を負う立場の自分が「生き残った罪悪感(サバイバーズギルト)」を感じていないわけがなかったからです。沈没の記録は他には見つかりませんでしたが、亡くなった人はたくさんいたはずで、当然死んでおかしくない状況なのに、自分は、生き残ってしまった。

たくさん自分を責めただろうし、人から責められることもあったと思います。あの子の代わりにあんたが死ねばよかったのになどと、と恨まれただろうと思ったことでしょう。

おそらく台風か何か。港の外に停泊していたようですが、かなりの荒波だったはずです。自然災害は、人力ではどうしようもないはずですが、敵襲を受けるならまだしもと、なんとか出来たのではないかと、思いつく限り全ての後悔が祖父を襲ったはずです。

技術的な責任者である自分が、船と共に沈むべきだった、と思ったのではないか。
何のために?

責任を取るために。

もちろん、死んだとて責任は取れません。
生きられる人は、生きなければいけない。

心理学では、集団を「さまざまな意識の集合体」として捉えることがあります。特に家族は関係が深く、運命めいた絆で関わり合います。誰かが深く傷ついているとき、他の誰かが心の痛みを引き受けることがあるのです。ましてや子どもは感情の生き物。特に引き受けやすいです。

生きていてごめんなさい、死ねなくてごめんなさいは、おじいちゃんの感情だったか…。

母がなぜあれだけ感情的だったかも理解しました。母から見ると舅ですが、祖父の抱えきれない苦しみを、自責感情を担当する形で、無意識に引き受けていたのではないかと思うのです。子どもの目から見ても、常軌を逸した叱り方でしたし、私は常にガタガタ震えていました。当然ながらトラウマになり、人が近づいてくると怒鳴られるんじゃないかとか、逃げ場がないほど叱責されるんじゃないかとか思って、人が怖くて仕方がなかった時期がありました。

父になぜ遁走傾向があったのかも理解しました。無意識に罪悪感が刺激されて、祖父と一緒にはいられなかったはずです。若い頃私も、わざと終電がなくなるまで残業ばかりして、仕事場近くのビジネスホテルを渡り歩いた時期があります。母が許せず、罪悪感が刺激されて母に怒ってしまうのです。あれだけ虐められたのだからうんと傷つけてやれと、まるで復讐をしているようなのです。家に帰りたくないのです。家が嫌なのです。家にいるのが苦しいのです。

子どもの頃に感じた痛みは、周りの人の感情を何層にも折り重なって、無意識に引き受けています。少しずつ丁寧に紐解いてゆくしかありませんが、そういうことだったかと理解できると、苦しみが終わります。

おじいちゃんは、寡黙な人でした。
何も語らず、墓場まで持っていった話がたくさんあったことでしょう。

「無」になった人が、家にいる。
「無」という麻痺が、家にある。

船が、心が、粉々に、藻屑となる。
後悔を全て飲み込み、海に沈まん。

私は思うのです。

海南島、南の沖合の海底深くに。
おじいちゃんは魂を落としてきてしまったのではなかったか。

今も、深い海の底に。

【霧笛が呼ぶんだ】

私は昭和45年生まれですが、小学2年生頃、学校で「お家の人の戦争体験を聞いてきましょう」という宿題が出ました。昭和20年が終戦ですから、戦後30年以上経った頃ですね。当時、上野動物園に連れてもらって行ったとき、上野駅に片腕がなく兵隊さんの格好をした「おもらいさん」がいたことを覚えています。

とても優しい祖父だったと記憶していますが、戦争の話を始めると、急に敬語になり、怒り出したので、怖くなって途中で聞くのをやめました。

語りたくもないはずですが、私の教育のために、後世の人たちのためにと、語ってくれようとしたのだと思います。父や叔父たちを考えると、元来はおしゃべりな人ではないかと思いますが、心が粉々になったままなら、語ることはもう一度傷をえぐるリスクがあります。苦しくないわけがない。

不思議なもので私は、海の見える風景がとても好きで、首都圏に住んでいた頃は、船の留まる港によく行きました。横浜港、山下公園は思い出深い場所ですし、竹芝桟橋の近くや、本牧の船会社で働いたこともあります。今は海なし県に住んでいますが、一番よく行く旅行先は新潟県で、やはり海の近くは落ち着きますし、関西でも天保山の近くや、神戸港の周辺に感じ入るものがあります。

今は祝日の「海の日」はもともと「海の記念日」でした。私の誕生日です。
おじいちゃんが「海の記念日」に私が生まれたことを喜んでいたなと、ぼんやりと思い出します。

数年前に、神経の重病を患い、首から下を自力で動かせない状態に陥りました。急性期、回復期を病院で過ごし、病室内くらいならどうにか、自分のことをできるようになった時点で、障害者手帳を取得し、福祉サービスを利用してリハビリテーションセンターに入所しました。

一般社会環境よりは、遥かに護られている場所ですが、それでも病院よりはずっと辛い。自立訓練施設ですから当然ですが、思い通りにならない身体に直面する場所でもあります。

身体障害者第1種一級(最重度)で手帳を取りましたが、身体が動かない現実は本当に厳しい。あまりにも辛いので、死にたいとも思いますが、同時に悟りました。

自分では、死ねないことを。

生きるしか、ないのです。
生きられる人は、生きなければいけない。

病後4年たち、まだリハビリは続いています。麻痺で固まった身体を動かすので、痛みとの戦いですが、病前のようにではないものの、仕事ができるくらいまでには回復して、改めて思うのです。

あの辛いことはやっぱり「高次の自分」が起動したな、と。家族親族の誰も触れることができずにいた、粉々になった心を癒し、辛い時代を終わらせるお役目が私にはあったのだろう、と。私なりに、おじいちゃんの、生きていてごめんなさい、死ねなくてごめんなさいの苦しみを、理解したように思うのです。

13歳の夏でした。
船が沈んだ、私が生まれた、おじいちゃんが亡くなった、7月。

最晩年、おじいちゃんは戦後生まれの叔父と同居していました。
「プリンを買ってきてくれ」と叔母に頼んだそうです。
帰ってきたら、ロッキングチェアーの上で、息を引き取っていた。

最期の様子を聞いた私は、「おじいちゃん、人払いをしたな」と思いました。
何となく、死ぬことがわかり、瀕死でも延命されないように、わざと叔母に席を外させたような気がしたのです。

責めは充分負ったと思うんですよ。
でも、おじいちゃんは真面目な人なので、最期に責任を取りたかったように思えてなりません。

もうきっと、誰も恨んでいないと思うけど。

家族の誰かが深く傷ついているとき、他の誰かが心の痛みを引き受けることがあります。
家族は関係が深く、運命めいた絆で関わり合います。

毎日お線香をあげるくらいで、他に何かしてやれることがあるわけでもありません。それでもただ思うのです。
おじいちゃん、辛かったね。

まだ、海南島の南沖にひとり沈んでいるのなら、連れて帰ってあげたいよ。
︎「どうして」

家族だから。

帰ろう。
あの家に。

私に起きた辛いことは。
おじいちゃんの粉々になった心。
おじいちゃんが落とした魂を、私の心に。

君は遠くの海からやってきた。

苦しみを、終わらせる。
家族だから。

我は海の子
白浪の
さわぐいそべの
松原に
煙たなびく
とまやこそ
我がなつかしき
住家なれ ※5

君は遠くの海からやってきた。
さあ行こう。

新しい港へ。

記憶がずっとぼんやりしていても、いつもかすかに何かを感じていたのは。
深い霧でも、行先がわからなくならないように、航海が安全なように。
おじいちゃんが鳴らしてくれていたのでしょう。

霧笛を。


《参考資料》

wikisource『尋常小学読本唱歌(1910年)』「我は海の子」https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%88%91%E3%81%AF%E6%B5%B7%E3%81%AE%E5%AD%90(参照日:2024年5月30日)

群馬県『トップページ > 組織からさがす > 健康福祉部 > 地域福祉課 』「軍人・軍属・準軍属とは」https://www.pref.gunma.jp/page/3170.html(参照日:2024年5月30日)


《参考文献》

栗栖章充(2015)『軍歴証明の見方・読み方・取り方 』日本法令

《筆者注》

※1 2020年3月7日、重症ギランバレー症候群との診断を受け緊急入院、病院と障害者施設で9ヶ月ほど治療とリハビリに取り組むが身体麻痺は残存し、自費リハビリ施設に通いながら回復を目指しています。カウンセリングサービスは1年半ほど休会しました。身体障害者手帳を取得した当初は、第1種1級、執筆時点では3級まで回復しています。

※2 前回の執筆担当回を参照ください。https://ameblo.jp/love-counseling/entry-12851589999.html

※3 軍隊に兵隊として入隊するより、軍属はずっと資料が少ないようです。また当時は、国民総動員法により、いわゆる漁師さんの漁船もたくさん徴用されて軍属となったようですが、そういった船については記録はほぼなく、戦死者の実態も不明のままのようです。祖父の除隊時本籍地と思しき東京と、終戦前年の本籍地静岡に問い合わせましたが、いずれも、担当してくださった方が、軍属さんは資料が少ないんですよ、とおっしゃっていました。祖父の場合は、大手の水産会社に勤め、船ごと徴用され、更に、ジュネーブ条約に基づき攻撃対象にしないよう外務省を通じて国連に報告した、病院船だったために、記録が残っていたと思われます。

※4 兵隊として軍隊に入っていれば、除隊時や戦死時の本籍地のある自治体に問い合わせると、陸軍から移管された資料を確認してくれます。兵籍簿を見られることが多いようです。

※5 『尋常小学読本唱歌』我は海の子 一番より。著作権は消滅しているため、歌詞を掲載しました。