カウンセリングサービスやなぎあこです。
『恋愛テクニック』金曜日「大人の恋愛術」執筆を、吉村ひろえ沼田みえ子とともに担当しております。

 

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流れに抵抗すると危険ですが、流れに乗れば、全てが楽です。
出会うべき人に必ず出会い、与えられるべきものが必ず与えられる豊かさ。「ない」ことはありえません。「ある」と感じられているので、足りないと思うことが、グッと少なくなりますし、必要なものなら、特に苦労なく全て与えられます。

【心惹かれているのは別の何か】

焦ってしまう、というお話をよく聞きます。
心理学を学んだり、スクールに通ったり、カウンセリングを利用したり。自分なりに多大な投資をしているけれど、欲しいものがいつまでも手に入らない。

だから、焦ってしまう。
もっとお金をかけたほうがいいのか、カウンセラーを変えたほうがいいのか。何か違う別のことを勉強するべきなのか…。

非常によくわかります。
私自身も、散々振り回された感情ですし、病気による身体障害の回復に取り組んでいることもあり、焦ってしまう気持ちは、下手すると今も心理的な罠に引っかかりやすいポイントです。

どうしても、今起きていることしか見えにくいために、近視眼的になりがちで、つい焦ってしまうけど、何かをよくしようという取り組みにおいて、一見、なかなか叶わないように感じる願いというのは、私たちが思っているよりずっと大きな挑戦なのです。

例えばですよ。

あなたの取り組んでいる癒しが、ただ足元を掘り下げているだけではなく、昔から言い伝えのある暴れ川を治水する、掘削の一環だったとしたらどうでしょう? ダムは積年の願いで、完成の暁には、あなたとあなたに関わる人たちの大いなる救いになるとしたらどうでしょう?

災害をもたらす台風が来ても、ダムが激甚な雨水を受け止め堪えてくれたおかげで、下流は濁流に飲まれることなく、助かった本当に多くの命に感謝される。ふるさとがダム湖に沈んだかなしみさえも、救いに昇華される。

治水計画で改修された河川は、水量を増しても雄大に穏やかに流れ、親水公園には人々が憩う自然があり、かつて喪われた生態系が復活している。公園はもちろん、災害時には、増水に耐えきれず溢れる川を受け止め、貯水する調整池となり、水が人の住まうところを襲わなくていい機能を持つ。

あなたの取り組みが、かつて荒れ狂っていた川と戦うのではなく、川のかなしみを受け止め、川をなだめ、川を癒し、本来、人々に豊かな恩恵をもたらす川に親しみ、川と人がともに仲良く暮らす未来であるためになされているものだとしたら。

つい、焦ってしまいたくなっても。
思ったより腰を据えて取り組んだ方がいいことなのでしょう。私の人生が大きく変わるのだから、と捉える。いきなり激変して、リバウンドをしたり、変化を受入れられず現実を叩き壊してしまわないように、私が受け入れられるギリギリを狙って変化が起きている、とも。実際、よくなってきたさまざまな関係や環境を実感できる方も多いのですから。

もう少し、ぼやーっとしたことを言います。

「何かを探している」って、なかなか魅惑的な状態だと思うのですよ。

例えば、求めているのに巡り会えないって、ロマンチックな感じありませんか。すれ違う運命の糸、なんて表現したくなりそうです。少し足りない何かのせいで、私は満たされない。なかなか現れない真実のパートナーのせいで、私は満たされない。

求めているのは一見、真実のパートナーです。
でも本当は、別の何かに心惹かれているのかも知れません。

「ない」ことを証明することは不可能です。「悪魔の証明」と呼ばれるくらいです。存在証明ができないことを、ミステリアスに感じ、余計に知りたくなるのでしょうか。「ない」ことはどこか私たちを惹きつけます。悪の華。

ところで、うまく行く関係には大きな特徴があると、カウンセリングで感じます。
相手に、安心を感じられるか否か。

例えば、この人はもういなくなったりしない、と感じられる。
例えば、この人とはずっと一緒にいるんだろうな、と感じられる。

逆に、うまくいかない関係には、安心が「ない」のです。

自己概念をそのまま映し出すかのような「本当にちっぽけで魅力のない私」を実感する相手であることが多いです。にもかかわらず、好きでもないのにデートをするとか、セックスをするとかもよくありますね。

自己嫌悪や虚しさを感じるにはぴったりな相手ですが、ひとりにも耐えられず、好きでもないのに寂しさを感じるよりはマシと、妙な価値観になっていることに、実はお気づきの方も多いでしょう。

ところが。

【傲慢で、寂しい】

浮気ばかり、振られてばかりや、いつも片想い、そもそも恋が実りにくいなど、うまく行かない関係に悩む人は心の奥で、うまく行く状態を居心地悪いと思っていることが結構あります。

うまく行くのが居心地悪いわけですから、うまく行かないことにこころ惹かれているのです。何なら、うまく行かないで欲しいとすら思っている。実際に、告白した人に断られて、傷つきもするけど、ほっとした、というお話はよく聞きます。うまく行くことを、居心地悪いと思っている証拠です。

うまく行かない方が、安心できる。

うまく行かない方が、私らしい。
だって。

「ひとりぼっち」に慣れているから。

人は、知らない天国より、知った地獄を選ぶと言いますが、知らないことを心は脅威と捉えるので、うまく行くことに感じる気持ちは、警戒心や変化を恐れる気持ちでしょう。

また、ご自分の価値を本当に低く捉えている事実はおありです。
人は、概ね同じくらいの価値観で共鳴しますから、自己価値を低く見ている人同士で関わりを持つことになり、いつの間にかお互いに否定し合うことになるわけです。あの人はよく私を馬鹿にしたり傷つけるようなことを言うけど、私も口には出さないだけで、心であの人を軽蔑しているし、人間扱いもしていない、みたいな感じでしょうか。

じゃあ、なんでそんな人と一緒にいるの? と言う問いには。
ひとりでいるのが寂しくて耐えられず、いないよりマシと思ってしまうから、でほぼ確定です。というか、これ以外の答えを聞いたことがありません。

さらに「ない」ことを信じたい気持ちに、力を持たせている事実。

自分には「ない」。良い縁も、運も。
好きになってくれる人などい「ない」。
うまく行く状態が全く想像でき「ない」。
いいことなんか、起きるはずが「ない」。

「ない」ことを信仰している状態ですが、突き詰めると「自分の考え以外は受け入れない」という拒絶を見つけることができます。「わたしのかんがえたさいきょう」こそ至高で、それ以外は世界に存在しないとする。

ぶっちゃけ、傲慢です。
「自分の考え以外は受け入れない」生き方を押し進めていくと、誰ともつながれず、誰とも親しさを感じられず、孤立するってわかりますよね。だからこそとも言えますが「ない」ことを信仰したい気持ちの裏には、隠れているのですよ。

「ひとりぼっち」が。

傲慢で、寂しい。
生きづらい世界です。

【神様は生贄を取らない】

しかし、何なんでしょうかね。
心の深い部分で「ひとりぼっち」を感じている人は、なぜか犠牲的に人を救おうとしている人ばかりです。臨床的に、痛感します。

昔々、人が科学をよく知らない頃、暴れ川は人柱を立てて鎮めようとしました。川を神様が司るものと見立て、暴れ川を神の怒りと理解したのです。人の命と引き換えに、荒ぶる神にお鎮まりいただくために、生贄を捧げなければならないと、人柱を捧げたわけですね。人身御供(ひとみごくう)です。

例えば能の演目「長柄(ながら)」は、長柄という場所(摂津国、今の大阪)に橋を造営するときに人柱となった老人の霊が出てきます。長柄は、摂津国ではありますが、具体的な場所は明らかではありません。しかし現在ある長柄橋は、新大阪よりやや南東にあり、淀川に掛かる橋です。人柱は川の治水のお話とは切っても切れません。大きい川のある地域にはおそらく、どこにでもあるお話と思います。自己犠牲の物語としては定番です。

人柱って究極に「ひとりぼっち」ですよね。

「ひとりぼっち」を選ぶこころには、大切な誰かやみんなのために、ひとり私が苦しみを引き受ければいい、という想いが隠れています。私はいいから、みんなは幸せになってとも思っていますが、苦しくないわけがありません。我慢して気持ちを飲み込んで、散々耐え忍んできたのに、こんな扱いを受けるなんて、と憎しみが出てくることも頻繁にあります。気づいて欲しい気持ちが強くなりすぎたり、苦しさがいつの間にか恨みに転じたり、心が麻痺していることもとても多いのです。

「ひとりぼっち」は、どんなに誰かに助けて欲しいと思っていても、結果的に人を拒絶します。まあ、正直なところ人を恨んでいるので、当然です。どんなに励まされ愛されても、「ない」を信仰して「自分の考え以外は受け入れない」ので、人の愛は拒絶します。いらないと言うならまだしも、自分の気に入る愛し方じゃないと、ケチをつけます。求める愛し方が、相手にはできないことであったとしても。うまく愛せないのは苦しいのに、自分の気持ちしか見えず、相手の苦しさがわかりません。

残念ながら、幸せではないですよね。

「ない」ことを信仰したい気持ちは、ずっと「ひとりぼっち」だった、誰も助けに来てくれなかった、という辛さに下支えされているのでしょう。神様への恨みもありそうです。そもそも神様の怒りを鎮めるために死んだにもかかわらず、神様のご機嫌取りや、慰みにしか使われていない気がする、酷い! 私ははけ口ではない! と怒っているわけですね。

ところが。

ア・コース・イン・ミラクルズ(A Course in Miracles,奇跡のコース/奇跡講座)という、非常にマニアックな、心理学の真髄とも言える本がありますが、神様は人を生贄になんて取らないし、そもそも怒らないし、っていうか人の住む世界は創っていないし、人が創った世界のことはご存知ないので、もし神様に、暴れ川どうにかしてください! と言ったところで。

うん、ごめんね、苦しいんだね、で、川って何かな? よくわからないけど必ず助けるよ、人の気持ちを全て履修済みのジーザスパイセン(ジョニーデップ似)が、神の子みんなのファシリテーターなんだけど、パイセンが使役する聖霊の言葉に耳を傾けてくれる? 微かで小さいけど聖霊の声は絶対に消えることがないから、必ず「ある」から、よく耳すまして? みたいな世界(だいぶ意訳です)だしで、暴れ川を神の怒りと見立てたのは、昔の人々がそう思っちゃっただけで、暴れ川への人の怒りが神様に投影されたに過ぎません(オタクの早口)。

だから、生贄は必要ないし、神様は罰しないしで、犠牲的に人を救う必要は、全くないのです。キリッ(オタクのドヤ顔)。

筆者注:ア・コース・イン・ミラクルズにキリスト教の構造が使われているのは、キリスト教信者が世界最多であることだけが理由のようです。母数が大きければ伝わりやすいというあれですね。癒しの真髄が伝われば、どういうルートを取ろうがどんな構造を通じてだろうが本当に何でも良くて、キリスト教を信仰する必要もないし、何ならパイセン(ジョニデ似だけど)を好きにならなくていいし信じなくていい、ただ、やってみて? とのことです。

あなたがもし、ずーっと「ひとりぼっち」を選んでいて、「ない」ことを信仰しているならば、もしかしたらそれは誰かを助けたかったからかもしれませんね。誰かに迷惑がかからないように、遠慮深く、慎み深く生きてきたなら、自然とそうなるでしょう。

でも、私思うに、「ある」世界にお引越しをした方が、もっとたくさんの人を助けられるんですよね。犠牲より幸せを選ぶ方がずっと、たくさんの人の影響を与え、たくさんの人がインスピレーションを受け取れる。ああなりたい、と思えること自体が、世界への信頼と、生きる力を呼び覚ますからです。

では「ない」から、「ある」へはどうお引越しをしたらいいでしょうか。

【どうしても愛を選べなかったことこそが】

「ある」と感じられる気持ちは、本質的には「私は愛されている」という感覚です。「ひとりぼっち」の真逆ですね。
生きて行くのは大変だけど、振り返ってみれば、前に進む私を眼差し、応援してくれている人たちがいる、と感じられている状態です。

人は、弱さを受け入れられたときに、愛されていることを深く感じられます。
だから、弱さが「ある」へお引越しをする鍵なのです。

大人になったとて、完璧な人はこの世に存在しません。
人である限り、弱点があり、出来ないことがあり、どうしても自分では受け入れられない惨めさがある。弱さを愛し合えるのが、大人であり、真実のパートナーシップなのです。

弱さを、情けない自分を見せること。
たった一人でいいから。

当然ながら、勇気は要ります。
相手によっては、拒絶されることもあるからです。

拒絶される時ほど「うまく行かない相手」を選んでいます。
本当は、受け入れてくれる人は別にいるのに。

あるいは「うまく行かないやり方」を選んでいます。
頼り方が攻撃的だったり、重過ぎたり、どこかに下心があったり、自分が決めなくてはいけない決断を、押し付けていたり。

辛さをわかって欲しくて、不機嫌さをあらわにしたり、感情をぶつけたくなったり。弱さを見せるのではなく、八つ当たりをしたくなっているわけですね。あなたが犠牲をして、誰かの感情のはけ口になるのはごめんだと思ったように、相手も嫌なのです。人をサンドバッグにしていい理由はこの世界に存在しません。

もしくは、何かアドバイスをくれているなら、あなたが楽になる方法を提案してくれているにもかかわらず、「自分の考え以外は受け入れない」、聞く耳を持たない状態に陥っています。自分が愛して欲しいやり方にこだわってしまい、自分の気持ちしか見られなくなっているので、相手の気持ちに目を向けられなくなっています。

しかし、本当に弱さを見せるのであれば、攻撃的になんて、なれないのですよ。そんな力は、どこにも残っていないのです。

犠牲的に生きてきた人は、行き過ぎやり過ぎはあるものの、誰かを助けることは得意分野です。でも、自分の弱さを誰かに差し出して、助けてもらうことはとても苦手です。

「ひとりぼっち」を生きてきたなら、ひとりで頑張ってきた自負があるからです。


親がさまざまな事情で、子どもに依存せざるを得ない心理状態や環境を生き延びた場合が多く、子どもとしては嫌でも甘えたい心を封印して頑張らざるを得ません。酷い目に遭っているにもかかわらず、助けを求めると迷惑がかかるから我慢した経験のある人は多いでしょう。頼ったのにも関わらず、取り合ってもらえなかったり、放置された経験のある人もいるでしょう。

ひとりで頑張って生きざるを得ませんでした。だからこそ、カウンセリングでは助けてもらえなかった恨みが出てくることも多いです。

失望はあまりにも大きく。誰にも頼らず生きざるを得なかったなら、どうせ自分は助けてもらえないと思い込み、「ない」しか信仰できなくなるのは自然なことでしょう。でもそれは、あまりにも心が痛いのです。たとえ痛みを感じられないくらい、心が麻痺していたとしても。

差し伸べられている助けの手は必ずあります。でも助けてもらえなかった心の痛みが強く、助けてもらえることなど、はなっから「ない」と思い込んでいるなら。

気づけないのです。
手が差し伸べられていることに。

見えないのです。
優しい目が。

それでも。

助けて欲しいと素直に言える勇気をを持てば。
目の前の人は、手を差し伸べてくれます。
目の前の人が助けてくれなかったとしても、誰かが手を差し伸べてくれます。

必ず。

なぜなら人は、人を愛したい生き物だからです。

「ある」に目を向ける方が怖いですよ。
人は死ぬことよりも、愛されることを恐れますからね。慣れ親しんできた、深い愛着のあった「ひとりぼっち」の世界が終わる。大切にしてきたふるさとが、どうしようもなく、ダム湖に沈むかなしみに似ているかもしれません。

でも、新しい人生は、すぐそこまで来ているのです。

「もうすぐ君の出番だぜ」と。


「ある」世界にお引越しするために必要なものはたったひとつ。

弱さを見せる勇気です。

差し伸べられた手に、弱さを触れられたとき、昔々、誰も頼ることが出来なかった苦しさや、助けてもらえなかった惨めさを再体験します。正直言って、ものすごく不愉快です。でも、あのとき飲み込んだ苦しさ惨めさは感じる必要があるのです。ひとりで生きるために切り離してしまった心の痛みを、もう一度心に受け入れてあげて、誰かに愛させる必要があるのです。

弱い自分が受け入れられたと感じられたとき、世界は変わります。
登場人物や、環境は同じでもこれまでは感じられなかった、愛やつながり、人を近しく親密に思う気持ちが生まれます。

「ある」世界にお引越しです。

辛かったね、と、泣いてくれる人。
見ないふりをしているだけで、本当はいるのではありませんか。

よろこびは、原則的に誰かとの関係にしか生まれません。
「ひとりぼっち」でどんなに美味しいものを食べたり、楽しい、嬉しいと感じたとしても、飽きてきたり虚しくなったりする場合が多いのはこのためです。

「ひとりぼっち」はあくまで心の状態です。誰かがいてもよろこびを感じにくいならそれは「ひとりぼっち」。
誰かの心との間に橋をかけることを、諦めていませんか。

どうすることもできないと思っていること、間違えてしまったこと、誠実でないことをしたこと、誰にも言えないでいる苦しみなどに、人の弱さは現れます。どうしても愛を選べなかったことこそが、人の弱さだからです。受け入れてもらうことは、浮気を白状するとか、借金を白状するとか、病気や障害とか、子どもを持てない事情とか、生まれやルーツに関することを打ち明ける、とか、過去の苦しい人生を打ち明ける、とか、人によって様々です。

【刺激の方がむしろ退屈】

人は、人を愛したい。
弱さは、あなたが誰かに愛してもらう必要がある部分です。目の前の人との架け橋です。

犠牲をして橋の袂に「ひとりぼっち」で埋まる必要はありません。
誰かに弱さを差し出せる勇気が「ある」世界への扉です。

「ない」世界を信仰したいかもしれません。
自分が想定した範囲内で、自分が考えたやり方で、幸せになりたい思いが強いかもしれません。

それでも。

心理的なプロセスというのは本当に面白いもので、セオリー通りに進みながらも、ある時点で「良い方に」コントロールが効かなくなることがあるのです。

これまで掴んでいた「ない」を、全て手放さざるを得ない流れにいるとき、もう無理だ、死ぬしかないと思い詰めてしまいやすいですが、起きているのはいわば、生まれ変わりの儀式です。

私はこれくらいで充分です、などと思っていた古い堤防などあっさり決壊して、急流に流されるしかありません。
「そんな無責任なこと言って! 流されて怪我したり死んじゃったりするかもしれないじゃないですかプンスコ!」

いいえ。
「ある」世界での川流れは、ちゃんと豊かで安全な場所に運んでくれます。抵抗さえ、しなければ。

めちゃめちゃ怖いですが死にはしません。
心理的には、再生のプロセスでもあるからです。
そもそも「私たちは愛されている」ので、本質的な意味で死が与えられることはあり得ません。

少し足りない何かのせいで、私は満たされない。
なかなか現れない真実のパートナーのせいで、私は満たされない。

「ない」世界をよく知っている。
「ない」世界が私の暮らすところだったから。

もしかしたら心の奥で求めていたのは、真実のパートナーではなく「探し続けている」状態だったのかもしれません。

自分には「ない」。良い縁も、運も。
好きになってくれる人などい「ない」。
うまく行く状態が全く想像でき「ない」。
いいことなんか、起きるはずが「ない」。

本当でしょうか。

「足りない何かを探している」って、ある意味刺激的です。
しかし「ある」世界は、ちっぽけな刺激を遥かに凌駕して、魂の打ち震えを感じるほどのよろこびです。

急流に巻き込まれ、流されていくのはめちゃめちゃ怖いけど。
人生が大きく変わろうとしているとき、必ず感じる気持ちです。

きっとあなたは、これまでの人生を賭けて、ここまで河川をコツコツと改修してきたのでしょう?

もし、遊びも保険も全て手放して、ただひとりと深く愛し愛される関係になり、満たされたとしたら。
どんなことが起きると思っているでしょうか。

欲しいものは全てある。満たされている。
安心を感じられる相手と、愛し合っている。
happily ever after, ふたりはずっと仲良く暮らしましたとさ。

おとぎ話の幸せな結末を、退屈だと誤解していませんか。
防衛の一種として、刺激を求めようとしているかも知れませんね。

でも、安心や安全は、退屈などではありません。
汲めど尽きせぬ泉のように、なくなる心配をする必要もありません。

満ち足りた幸せは、安易な刺激よりずっとダイナミックで、生きるよろこびに溢れています。賑やかで大きなよろこびがたくさんやってきます。

恋ならば。同じ相手と、何度も何度も恋に落ちる。
魂が深く響き合い、終わることがない。

真実のパートナーシップへと育まれた関係は、いちばんの弱さを相手が愛してくれます。愛される感覚が、圧倒的です。パートナーシップの醍醐味です。

ちっぽけな刺激など、遥かに凌駕してしまいます。
自分が世界に存在することが許されるかのような、救いを感じられるほどです。

生きることが、よろこびです。

【おとぎ話の結末は】

この原稿は、2024年3月8日に投稿しています。
ちょうど4年前、2020年3月7日、神経の重い病気を患い、首から下を自力で動かすことができなくなり、病院のベッドの上にいました。自宅に戻れたのは9か月後でした。治す、と決めて懸命にリハビリに取り組んでますが、残念ながら5年目に入る今も、遠出するときの車椅子は手放せていません。

世界は、一変しました。

これまでできたことが、思考以外、一度全て出来なくなるなんて思いもしなかった。障害者になるなんて思いもしなかった。何だよ、第一種1級って。障害者手帳を取得したときに、真っ先に思ったことでした。

1年ほどかけて、3級まで回復しましたが(奇跡だと言われましたが)、以降は本当に緩やかな回復にとどまっています。

普段から「障害受容なんてクソ喰らえ」のスタンスで生きています。治す、と決めているからです。同時に、障害者であることは、自分ではどうしても受け入れられないのです。どんなに頑張っても、無理なのです。

辛すぎて。

気温差で寝込む自分が嫌い。
やりたいことができない自分が嫌い。
洗濯物を畳むのに時間がかかる自分が嫌い。
階段を一段ずつしか上がれない自分が嫌い。
麻痺したままで、力を乗せられない股関節が嫌い。
曲がったままで固まって伸びず、いつまでも痛む膝が嫌い。

よたよた歩く自分が嫌い。
動作のたびに身体が痛む自分が嫌い。

どうしても自分では愛することが出来ない、弱い、弱い自分。
これまで出会うことのなかった、壊れそうに惨めな自分。

それでもリハビリをやめようとは思いません。
回復を諦めようとは思いません。
生きることを、やめようとは思いません。

できないことばかりの現実でせめて。
私は誰かの、希望になりたい。

私が回復して行くことは、誰かの勇気になるかもしれない。もし、ああなりたいと、生きる希望を持って下さる人がいるならば、その事実こそが、私を生かすからです。ああなりたい、と思ってもらえること自体が、世界への信頼と、生きる力を呼び覚ますからです。

それでも私が前を向けるのは。

夫が私の障害を全て、受け入れて愛してくれているからです。
辛いことも苦しんでいることも、痛みに涙していることも、全て知っている。

言葉になどしないけれど、わかります。
障害を得てもなお、回復も生きることも諦めず、前を向いて生きようとするうちの奥さんは、かっこいいと思っていることを。

病気になる前よりずっと、好きになってくれていることを。
障害者になる前よりずっと、深く愛されていることを。

愛してくれる人などいないと、15年前は思っていました。
カウンセリングを受け、スクールにも通い、心を学び続け、母校にはだいぶ重課金し、何度も何度も失敗しては諦めきれずチャレンジを繰り返した賜物でしょう。焦ることは星の数ほどでしたが、これは大改修なのだとある時点で悟り、腰を据えて取り組みました。

だからこそ。

「ない」から、「ある」へ。
愛してくれる人などいない世界から、どんなに弱く惨めな私でも愛される世界に、お引越しが叶いました。
障害を得て、夫には迷惑をかけてばかりで、申し訳なく思いもしますが、障害は愛の障壁にはなり得ないと思えるくらい、愛されています。

ちょうど4年前、全く見えない未来を一生懸命想像していました。何が起きているのかもさっぱりわからなかったです。しかし今思えばあのときすでに、生まれ変わりの激流に飲み込まれていたんでしょうね。
大きく深く流れる河は私たちを全く想像がつかない場所へと、押し流していたのです。抵抗など全くできません。

めちゃめちゃ怖かったですが死にませんでした。
まさに、再生のプロセスなのでしょう。
そもそも「私たちは愛されている」ので、本質的な意味で死が与えられることはあり得ません。

河は豊かです。流れに抵抗すると危険ですが、流れに乗れば、全てが楽です。
出会うべき人に必ず出会い、与えられるべきものが必ず与えられる豊かさ。「ない」ことはありえません。「ある」と感じられているので、足りないと思うことが、グッと少なくなりますし、必要なものなら、特に苦労なく全て与えられます。

もし、焦ってしまうのなら。

今、流れから外れたところにいるな、と思ってみるといいでしょう。
「ない」不満にばかりフォーカスすると、流れからはますます遠ざかります。今、与えられている「ある」を感受してみてください。あなたに与えられているものは、全てあなたへの愛です。形を持っているものでもいいですし、目に見えないものでもいいです。

一旦「ある」に意識を向けると、次々に見つかります。すると、まずは小さな流れに乗ります。「ある」に気づければ気づけるほど、大きな流れに乗ってゆけます。小さな流れは、さらに大きな流れと合流し始め、いつしか大河の流れに乗ったことがわかります。

焦らなくていい、流れに戻るだけでいい。

河はやがて大海に注ぎ、海水は蒸発して雲となり、雨となって降り注ぐ、また、川になる。
ぐるぐると、世界を描く円環。

幸せに満たされて終わることがない円環。
「永遠」が、おとぎ話の結末です。

《参考資料》

国土交通省 水管理・国土保全局『流域治水の推進~これからは流域のみんなで~』「「流域治水」の基本的な考え方~気候変動を踏まえ、あらゆる関係者が協働して流域全体で行う総合的かつ多層的な水災害対策~」https://www.mlit.go.jp/river/kasen/suisin/pdf/01_kangaekata.pdf(参照日:2024年3月7日)

群馬県ホームページ『利根川水系 利根川上流圏域河川整備計画(令和3年3月)』https://www.pref.gunma.jp/uploaded/attachment/27820.pdf(参照日:2024年3月7日)

能楽協会『能楽辞典 曲目データベース』「長柄」https://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/program_db/nagara(参照日:2024年3月7日)

ZAGZAG『能の花 狂言の花』「長柄 古式 辻井八郎(座・SQUARE)」http://zagzag.blog72.fc2.com/blog-entry-3204.html(参照日:2024年3月7日)

※筆者付記:「長柄」を現行曲としているのは金春流のみ。

《参考文献》

ケネス・ワプニック(2011)『奇跡講座入門』(加藤三代子訳)中央アート出版社

ヘレン・シャックマン(2014)『奇跡のコース 第1巻 テキスト』「普及版」(ウィリアム・セットフォード編集、ケネス・ワプニック編集、大内 博訳)ナチュラルスピリット

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