カウンセリングサービスやなぎあこです。
『恋愛テクニック』金曜日「大人の恋愛術」執筆を、吉村ひろえ沼田みえ子とともに担当しております。

 

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誤解していた苦しみは、家系から引き継いだものかもしれません。
あなたの挑戦は、これまで全く光を当てることができなかった領域に対してなされているかも知れません。

幸せに直面する準備が整ったとき、向き合って来れなかった問題が現れ、道のりをゆくための援助や知恵を授けてくれる人に出会います。
先生を必要とするほど、ひとりで乗り越えるのは厳しい。

でも、難しい挑戦が目の前にあるのと同時に、苦しみも終わろうとしています。

闇に隠れていてわからなかったけど、ずっとそこにあった恩恵が現れます。
才能として受け取ることで、生き方は大きく変わりますが、後で、きっと思うことでしょう。幸せだな、と。
私はこう生きると、決められたからこそ。

本当の意味での「自由」を生きていると実感できるのです。

【決めると「自由」を取り戻せる】

昨年末から大スランプに陥っています。

順調に重ねてきた歩行練習を中止したのは、麻痺が強い側の足が回復したからこそ、健常側への過負荷による関節痛が強くなったためでした。ようやく歩けるようになったにも関わらず、歩くと痛む。痛みで眠れない。

数年前に重い神経の病気を患い、四肢麻痺、寝たきりとなって以来、リハビリで身体を回復させ続けています。
重症化したために医療保険や福祉サービスで出来るリハビリの期間はもうとっくに終わり、自費の施設にお世話になって一年ほどです。残存した麻痺も回復してきて喜んでいた矢先でした。

頼りにしている理学療法士さんによると、健常側が麻痺側の動作を代償するために、筋肉を緊張させて(固めて)支えるのだそうです。ようやく麻痺側が使えるようになり、健常側は代償せずに済みますが、長く固めた筋緊張はほぐれるのに時間がかかり、負荷が高かった部位には痛みが出てしまいました。さらに、いちばんの痛さでマスクされていただけで、他にも相当痛みが隠れているはず、とのことでした。

麻痺側が使えるようになったと思ったら今度は、過負荷だった健常側に出た痛みと筋緊張を回復させ、麻痺側をさらに使えるようにしてゆく必要があるようなのです。

痛みはひどく、寝込み、休むしかなく、もう回復はここまでか、とも思いました。

しかし麻痺側がもっと使えるようになると、跛行(はこう:いわゆるびっこを引いた状態)も減り、歩き方が徐々に病前に戻って行こうとはしているわけです。筋力やバランスが戻ると、車椅子のお世話になる機会も減ります。

麻痺側に力を乗せるのはとても怖いです。片足は鉄骨でも、もう片足は砂を固めてできている、みたいな感じでしょうか。崩れ落ちる予感や転倒の恐れは常に感じますし、止まったまま動けなくなることもあります。

過負荷で負傷した健常側を治し、これまでしっかりと向き合って来れなかった麻痺側に力を入れられるようにならなければ、歩行は戻ってゆきません。寝たきりの頃を思えば、とてつもない回復ではありますが、難しい挑戦です。

「病前と同じくらいの身体の状態に戻す」悲願が、ようやく現実味を帯びたかな、と思います。
課題が「いつかきっとの遠い夢」より、実現に近づいてきた時の方が、難しくも、どうせ無理とも感じやすいのです。寝たきりからここまでおよそ4年かかっているので、また更にかかるはずですが、準備ができたので課題がやってきたのでしょう。

治す、と決めています。
いつも突破口を見つけてくれる理学療法士さんと作戦会議をしながら、大スランプの中にも、糸口が見えてくるようになりました。

動かすことが出来なくなった身体は、制限の象徴のようです。
個人的には、家系から引き継いだ課題を解消するために、病気という形でご先祖さまが乗り越えられなかった罪悪感を引き受けたと理解しています。父方も母方も、問題だらけでした。

私はかなり能動的にリハビリに取り組んでいる方ですが、身体を回復させることは、先祖代々の問題を解消していく立体的な方法だと、本能的に了解している感覚があるからだと思います。

実際に、回復が進むにつれて、ひとつひとつ「自由」を取り戻していると実感します。

身体が動かなくなったからこそ、心を駆使するしかなかろうと、土壇場でのやけっぱちではありましたが、病気の体験以降、心の力学と偉大さ素晴らしさを強烈に再認識しました。肉体には制限があるけど、心には限界がないといいますが、痛感します。

急性期、自力では全く身体を動かせなかったときですら、周りの人と心が通い合うと、制限より「自由」を体感していました。逆に、回復が進んで動けるようになって来ても、心が塞いでひとりぼっちを感じていると、身体的な制限は、より色濃く悲劇的に思えました。

身体は不自由でも、心でつながりを選ぶと決めれば、身体の不自由さは問題でなくなり、「自由」になる。事実は変わらなくても、風景の素晴らしさは変わる。

こうする、と決め、腹を括ることを、コミットメントと言います。コミットメントをすると、コミットメントに見合った現実が現れます。コミットメントは、決めたことに意識を集中させられます。だから現実化がしやすいのですね。

肉体には制限がありますが、心には限界がありません。目に見えないものは、目に見えないものであるからこそ、限界が存在し得ません。だからこそ、無理、と思っても、こうする、とコミットメントをすると、糸口が見えてくるのです。

病気には絶対に負けないと、決めています。
より専門的に言うと、病気という表現形で現れたものであれ、罪悪感には同意しないと、決めています。
自己攻撃に与しない、罪を選ばない。

なぜなら、人は、幸せになるために生まれてくるからです。

【誤解しているからする犠牲】

誰もが、幸せになるために生まれてきたにも関わらず、私たちは深層心理で、ものすごく変な誤解をしていることが、とてもよくあります。特に、一生懸命に、真面目に生きているにも関わらず、努力が報われにくい人ほど、心の深いところで、幸せになってはいけない、と誤解をしています。

苦しむことが人生の目的と言わんばかりの現実が作られます。幸せになりたい、と考え、幸せになりたい、と常に口にしていたとしても、です。

しんどいことがどんどん増えて、しんどい人の付き合いばかりが増えて、ただ生きるだけで精一杯、みたいな感じ。常に重荷を背負っている感覚がありますが、軽くなることはあまりなく、ひたすら重くなってゆく。

それでも、苦しい、しんどい、辛い、と言わずに生きている。迷惑をかけないようにと、誰にも頼らず生きる人に多いですが、弱さや惨めさや恥を覚えるために、苦しい、しんどい、辛い、と言えなくなっているのです。ぎりぎりの一線を、苦しさを我慢することで乗り切っているわけですね。

もし、深層心理で幸せになってはいけないと思っているなら、自分をとても悪いとか、罪深いとか誤解しています。普段はあまり自覚できません。しかし、なぜか苦しみを選んでしまうなら、誤解といえど、無意識に罪を証明しようとしているかのようです。

心理学的には、犠牲をしている状態、と捉えます。自分は悪く罪深いので、やりたくないけど苦しみを引き受けますから、どうか許してくださいと言っている感じですね。許すも何も、人は間違うことはあっても罪はないのにも関わらず、自分は悪く罪深いと誤解しているのです。

誤解は多くの場合、幸せに出来なかったり、助けられなかったりしたと感じる誰かに対して、自分のせいと思う罪悪感が根源になることが多いようです。

ごくごく一般的な例ですが。

お母さんがいつも感情的で怒鳴ってばかりだから、少しでも喜んで欲しくて、良い子にしてお手伝いや勉強など、お母さんが喜んでくれそうなことを頑張った。でも、怒られてばかりで認めてはもらえず、自分のせいにもされて、笑顔は全く見られなかった、という状態を生きたなら、大切な人を幸せに出来なかったと誤解する場合が多いです。

多くの場合、親が未熟で八つ当たりをしたとか、意地悪をしたくなった、とかが事実です。例えば夫婦間の欲求不満が怒りに転化されることはとてもよくありますが、あまり自覚は出来ないのが一般的です。

大抵、怒った後に、なぜもっと優しくなれないのだろうと自己嫌悪に陥っているものですが、こどもには見えない部分ですよね。また、自分の非を認めて謝るのは、それなりに成熟しないと出来ません。こどもが小さいうちの親は、まだまだ未熟ですから、親から謝られたことがない人も多いでしょう。また、ずっと後になって、あの時は申し訳なかったと謝られたことのある人もいるでしょう。親も、完璧な存在ではなく、時を重ねて経験を積むことで、心理的に成熟してゆくことの証でもあります。

生まれてきてくれたことは親のよろこびであり、親の救いであることと、親が怒ることには相関がありません。全く別物です。しかしそのあたりの事情はこどもには分かりませんから、感情的に怒鳴られていると「私のせいだ」とか「お母さんは私のことが嫌いなんだ」とか「お母さんが喜んでくれないのは私が悪い子どもだからだ」とか短絡して、誤解をするのです。自分はとても悪く罪深い存在だという感覚の始まりです。

しかし、お母さんが感情的で怒鳴ってばかりなら、実は、お母さんにも、自分はとても悪く罪深い存在だという誤解があります。

怒った後、必ず「あんなこと言わなきゃよかった」とか「なんで優しく出来ないんだろう」という後悔を感じます。人は、愛したい生き物ですから、本当は優しくしたいし愛したいからこそ、うまく愛せず親として未熟な自分は嫌いです。自己嫌悪は罪悪感からなる感情ですから、やはり自分はとても悪く罪深い存在だという誤解があるわけですね。

怒りが激しすぎるとか、虐待になっているとかなら、親子関係にとどまらず、ご先祖さま、つまり家系で乗り越えられていない罪悪感を引き継いでいる可能性も高いです。もちろん、無意識ですから自覚出来ている場合は少ないですが、なんでこんなに瞬間湯沸かし器なんだろうか、超大型の低気圧なんだろうか、と思える場合は、当人だけの問題ではないかもしれないと、思ってみてもいいでしょう。

【怒りが爆発するのはなぜか】

あの人が幸せじゃなかったのは「私のせいだ」という感覚は、「してあげられなかったこと」がある限り、どんな人でも持つ感覚です。

例えば、私は病気で九死に一生を得ましたが、もし生還できなければ、夫は自分をとても責めたはずです。もっと優しくできていたならとか、もっと愛せていたならとか、もっと話ができていたならとか、あの日ここへ行かなかったら、とか、あの時目を離さなかったらとか、いろんな「してあげられなかったこと」を通じて、人は自分を責めるのです。

誰しも完璧ではありませんから「してあげられなかったこと」があるのはごく普通ですし、私が夫と結婚して幸せじゃなかっただなんて、大きな誤解もいいところなんですが、もし大切な人を喪ったら、「してあげられなかったこと」が多かったほど、心が癒えるまではどんな人でも自分を許すことが出来ずに、誤解を握りしめたくなるのは普通のことです。

心の奥に、私は罪深いから幸せになってはいけないという誤解がずっとあるならば、罪悪感の補償行為として、まるで自罰行動のような苦しみを選んでしまいます。これが、犠牲の仕組みです。家系から引き継いで、苦しみを引き受けていることもとても多いです。

言ってみれば、背中に「幸せにできなかったあの人」を背負っている状態です。人によっては何人も、何十人も、何百人も、背負っていると思える場合もあります。足腰も痛んでいるはずですが、踏ん張っている。

でも、ずっと苦しさを我慢をしていますし、本当は「もう無理」と思っています。
するとどうなるか。

怒りが出るんです。身近な人に。
何気なくパートナーが言ったひと言に傷ついたり、こどもの態度にカチンと来たり。

我慢に我慢を重ねているところに、更に何かを気軽に上乗せされた状態と思ってください。もう無理! とかんしゃくが起きますよね。そして思うのです。あんなに怖かった母に傷つけられたのだから、ああはなるまいと心に決めていたのに、もしかしたら私も、同じことをしている…? と。

職場では「仕事をするときの私」=表向きの私、いい人の仮面をかぶっていることが多いので、我慢が優先されます(より正確には、感情を切り離したり、飲み込んだりしています)。だからこそ、職場では平気なんですけど、パートナーにだけ、こどもにだけイライラしちゃうんですよね…なんていうお話に、犠牲の気配は表れます。

親きょうだいくらいに近しく感じる身近な存在、例えばよく世話を焼いてくれる先輩だったり、親しみを感じる後輩だったりに、イライラしたり意地悪をしてしまうという形で出る場合もあります。

なぜだか怒ってしまうのは、自覚なしに苦しみを引き受けて我慢を続けるという、犠牲的な生き方をしてきた結果、我慢の限界が来て、怒りが漏れ出したり、爆発事故が起きるからです。

困ったことに、八つ当たりは大切な人や大好きな人、愛している人にする場合が多いです。この人くらいには、自分の気持ちをわかって欲しいと思っているからですね。だからこそ、感情的になった後に、ひどく自己嫌悪に陥って、嫌われてしまったかな…と思うのですが。
ちなみに、カウンセラーも当たられやすい存在です。親を映し出しやすいからですね。

※個人的には、八つ当たりをしにくいようにお話を伺うことを心がけています。カウンセラーに当たってしまうとご自身が自己嫌悪を感じやすく、カウンセリングの場から離れたくなるために、カウンセリングのプロセスからステップアウトしやすくなるためです。その方の心理状態によっては難しい場合もあり、完璧には出来ませんがベストを尽くしております。八つ当たりをしたくなった場合は、今、私はカウンセラーに親を映し出しているだけかも知れないな、と思って見られると、地に足が付きやすくなりますのでよろしければお試しください。

犠牲は、本当は罪などないのですが、許してもらいたい気持ちと、苦しみを我慢することを引き換える行動です。しかし我慢を続けると感情は麻痺します。正座をし続けていると、足が痺れ、ある段階を超えると、何も感じられなくなるのと同じです。自分の気持ちがわからなくなり、うつ状態になったり、生きる気力も失ったりしています。

自分の気持ちがわからなかったり、何が好きか嫌いかもわからなくなっていたりする方は、誤解からなる犠牲によって、我慢を続けたために、感情麻痺が起きているかもしれないと、思ってみるといいかもしれません。それなり時間をかけて麻痺に至っていますから、カウンセリングでは、少しずつ時間をかけて麻痺を回復してゆきます。

さらに、我慢を続けていると、ある日プツンと糸が切れて、動けなくなったり、わけもわからず涙が出てきたり、朝起きられなくなったり、死にたい気持ちが強くなったり、あるいは怪我をしたり病気になったりして、休まざるを得なくなったりします。

この段階でも何か出来る人もいるのですが、継続することはできません。しなければならなくなっている補償行為が優先されて、手一杯になっていますから当然ですよね。ですから、次々と新しいことに手を出しては、すぐやめてしまう、なんて言うことも起きます。

犠牲という名の罪悪感の補償行為は、まるで負の永久機関を回しているかのようです。

【犠牲のパターンを本気で手放す】

しかしそもそもは、深層心理でものすごく変な誤解をしていることが原因でしたよね。幸せになってはいけないという誤解。誤解を解ければ、新しい道のりに踏み出せます。しかしほとんどの場合、誤解に気づいていません。

犠牲によって、うまく行ったり、感謝されたりすることも多いからです。だからこそ、苦しみを手放しにくいのです。80点の幸せとでも言いましょうか。

こんなに苦しいのに?
はい、こんなに苦しいのにも関わらず、です。

とても苦しいけど、私が我慢すればいい。
他に引き受けられる人はいないから、私が我慢すればいい。
もう限界で潰れそうだけど、もしかしたら私の我慢が足りないのかも知れない。
大切な人、私の関わる周りの人が幸せになってくれるのならば、私はいい。

まるで苦しみを生きることそのものが、人生の目的になっているようです。

ちょっと立ち止まって考えてみて欲しいのです。
苦しみがない人生を、想定しにくくはないでしょうか。苦しみこそが自分だと、思ってはいないでしょうか。

どうしようもなく苦しいことばかりだけど、人生ってこういうもんだ。それなりの幸せがあるから、これ以上を望むなんて贅沢だ。これ以上はよくならない、ここが上げ止まり。

なんて、思い込んではいないでしょうか。

では、もうひとつ、伺います。
苦しみを手放すのが怖いのは、なぜでしょうか。

苦しみが、あなたの肥やしにならず、苦しいけど、好きだからどこか楽しくて頑張れると言うわけでもなく。
苦しみが苦しみとしか働いていないのなら。
人によっては、苦しみのあまり、病気や怪我で精神や身体を壊しているならば。

どこかに、選択の間違いがあることが示唆されています。

どこにも辿り着かない苦しみこそが。
幸せになってはいけないという誤解を証明しているのかも知れません。

もしそうなら、気づく必要があるのです。
もしかしたら、私は、幸せになってはいけないと思っているのかも知れない。

人は幸せになるために生まれてきました。
あなたは苦しみを手放して「幸せにならなくてはいけない」のです。

幸せな人生に直面する準備が整ったとき、向き合って来れなかった問題が現れ、道のりをゆくための援助や知恵を授けてくれる人に出会います。変化を、とても難しく感じるかも知れません。しかし、援助してくれたり知恵を授けてくれる先生に出会えているなら、難しくても乗り越えられます。

もし、先生に出会えていないなら、心に決めてください。「私は、変化の道のりを援助してくれたり知恵を授けてくれる先生に、出会う」と。

こうする、と決め、腹を括ることを、コミットメントと言います。コミットメントをすると、コミットメントに見合った現実が現れます。コミットメントは、決めたことに意識を集中させられます。だから現実化がしやすいのですね。

肉体には制限がありますが、心には限界がありません。目に見えないものは、目に見えないものであるからこそ、制限が存在し得ないのです。だからこそ、無理、と思ったものでも、こうする、とコミットメントをすると、糸口が見えてくるのです。

80点の幸せで感じる、どこか諦めを帯びた停滞の感覚は「変化を恐れる心」であり、自分にかけている制限です。人が死ぬことよりも恐れるのは、幸せになることだ言います。苦しみを手放すのが怖いのは、幸せへの恐れに他なりません。

知らない天国より、勝手知ったる地獄というくらいで、慣れた方を選びたい。どうせ無理、と呪詛を吐き、かつて自分が憧れたり扉を閉めて見ないようにしたりした世界で生きる人を、羨むことに慣れている。

でも…まあ、私が言うのもあれですけどね。
治す、と決めているから言えるだけだと思うんですけどもね。

諦めなくていいんじゃないですかね。

今の状況を変える、と決めると、物事が動き始めます。不思議なことに、自分にかけていた制限が、外れはじめます。本質的な意味で「自由」になってゆきます。

制限は「誰かにさせられているもの」と思いやすいですが、こうする、と決めると、自分で制限を選んでいることに気づきます。コミットメントと「自由」はセット商品です。

もう無理なのに、何かを引き受けていませんか。断ると決めてみてください。案外、相手は受け入れてくれます。もしかしたら、相手に悪いからと罪悪感を覚えたり、じゃあ他の人に頼むね、と言われると、役に立てない無価値感が刺激されやすくて、気分の悪さを避けるために、引き受けていただけかも知れません。

もし断ることができたら、ひとつ「自由」になれますよね。

限界まで耐え抜いて、ブチっと切れて、もう何もしてやらない! とかんしゃくを起こして全てをやめても、本当の意味での「自由」を手に入れることはできません。我慢のリバウンドにすぎないからです。

かんしゃくを起こしたり、関係を全て切って引きこもったりするやり方でしか生きてこなかった場合、我慢のリバウンドを「自由」と勘違いしていることがほとんどです。罪悪感の補償行為を生きる犠牲という根本が変わらなければ、いつの間にかまた犠牲的に生きるようにリバウンドして、また同じ景色を見るのです。

ブチ切れるまで我慢せず、断っていいんですよ。何をするにせよ、あくまでも自分で決めることが大切です。
人は、こうする、と自分で決められた時にこそ、「自由」になれます。

幸せになってはいけないという誤解から、苦しみだけを選んでいたなら、「やりたいこと」を選んで生きると決めてみましょうよ。この先、どんな風に生きるかを、考えてみましょうよ。あなたは何をしたときに、よろこびを感じられましたか。決めると、徐々に「自由」になってゆきます。努力も、苦しくありません。

どう生きたらいいかわからない人は、こう決めてみてください。

「一年かけて、犠牲のパターンを本気で手放す」。

今日の日付とともに、紙に書いて目につくところに貼っておくといいですよ。一年後、振り返ってみると、とても多くの「自由」を生きていることがわかるはずです。

カウンセリングの現場なら、ご自分やご家族のことを伺ったりしながら、してしまっている誤解を解いてゆくことが、スタート地点です。

【才能を受け取ることで見える新しい風景】

これまで続けてきたリハビリから、より難しい課題に取り組んでいます。今まで代償してきた部位をようやく休ませられるようになったら、予想を遥かに上回ってボロボロだったことがわかりました。

しかし、全く歩けなかった状態から、自力歩行ができるようになるまで、それこそ痛みを麻痺させるくらい頑張ってくれて、ずっといたわられたりねぎらわれたりすることを、待っていてくれた部位でもあります。

だからこそ、より回復をさせてあげたい。

動きにくい身体は、私が家系から引き継ぎ、自分に課した犠牲の象徴のようです。回復にコミットメントすることで、引き継いだ罪悪感が癒され、「自由」を獲得してゆけそうです。何のためにこんな苦しいことを引き継いだのかとお思いの方もおられますよね。

そりゃあ、私が受け取らないといけない才能があるからです。

全ての問題の下には、あなたに贈られた才能が隠れています。
最大の問題の下には、最大の才能が隠れているのです。 

病気をして一年半ほど、カウンセリングはお休みしました。病院と自立訓練施設を経て、自宅で暮らせるまで回復しました。9ヶ月ほどかかりました。さらにリハビリを続け、自宅で最低限の身の回りのことはできるようにまで回復したとき、カウンセリングに復帰しました。主治医もリハビリスタッフも、カウンセリングサービスの事務所や仲間も喜んでくれました。

まだ復帰前のある日「もしカウンセリングの現場に復帰できるなら、できるようになりたいセラピー」がイメージ出来たことがありました。なぜか、できるようになろう、と決められました。きっと「やりたいこと」だったのでしょう。

すると面白いもので、やはり先生が現れるんですね。

既存のセラピーではなく、いちから創り上げるので、セラピーを教えてくれる人が現れたわけではありません。しかし、セラピーを創るために、必要と思われるものや人には次々と出会うのです。

中には、全く初めて、私が接するものもありました。能です。心を癒すために、深層心理に埋もれた物語を理解できる、とても重要な学びです。これこそは、先生についてお稽古をして、今では生活に溶け込んでいます。

病前とは、生きる世界が大きく変わったな、と思います。
出会う人も、風景も変わる。終わったご縁もありますが、新しく始まったり、出会いなおしたりしたご縁で構成された世界は、より私自身を生きている感覚があります。

本当の自分に還ってゆく感じでしょうか。
より自分らしいですし、そうそう、私はこういうのが好きだったよね、とか、こういうことに触れてたら楽しい人だったよね、とか思い出せる感覚もあります。

今月は、謡曲の先生がお出になる能舞台を夫と観に行きました。『山姥』は難解だからと先生がくださったり、取り寄せたりした資料で夫と事前学習をした甲斐あって、感じられるものがとても豊かでした。ふたりでお舞台を観ながら、ぼろぼろと涙していました。

『よし足引の山姥が。山廻りするぞ苦しき。』

帰りの車の中で、少し前に映画『PERFECT DAYS』を観た夫が、言うのです。

そうか『山姥』は『PERFECT DAYS』ってことだな!
『山姥』の山廻りは(『PERFECT DAYS』主人公の)平山のトイレ掃除だな!

興味をそそられ『PERFECT DAYS』を観に行きました。夫は2度目の鑑賞です。納得しました。確かに『山姥』は『PERFECT DAYS』だわ。

っていうか、やっぱり石川さゆりのあのシーンはやばいよね!! あと何なん最後のシーンの役所広司よ!! 「朝日のあたる家」もやばいでしょ!! などなど、ついでに、ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』についても語ります。

やりたいことをやっています。
楽しいと心から思いますし、つくづく感じるのです。

「自由」だな、と。

「犠牲のパターンを本気で手放す」ことにコミットメントをされる方。


ぜひ、ともに参りましょうね。

《参考資料》

無辺光『能楽堂に通う人のための謡曲図書館』「山姥」https://www.muhenko.com/shisho/81719861_yamauba.htm(参照日:2024年2月15日)

ヴィム・ヴェンダース/ヴィム・ヴェンダース、高崎卓馬『PERFECT DAYS』[映画]2023年製作 日本 配給:ビターズ・エンド 劇場公開日:2023年12月22日 https://www.perfectdays-movie.jp/(参照日:2024年2月15日)

Youtube『8823 macaron』「朝日のあたる家 The House of the Rising Sun」アニマルズ、The Animals https://www.youtube.com/watch?v=RsABMDuV5BM(参照日:2024年2月15日)

Youtube『Sig.Gattonero』「Maki Asakawa 浅川マキ 朝日楼 (歌詞付)」https://www.youtube.com/watch?v=cqMjPghOKXQ(参照日:2024年2月15日)

Wikipedia『朝日のあたる家』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%9F%E3%82%8B%E5%AE%B6(参照日:2024年2月15日)

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