カウンセリングサービスやなぎあこです。
『恋愛テクニック』金曜日「大人の恋愛術」執筆を、吉村ひろえ沼田みえ子とともに担当しております。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

自己犠牲を手放してゆくには、根気強く時間をかけることが大切です。

やりたいことに気づけていて、かつ、行える状態にあるなら、細く長くで構わないので出来る限り続けてください。
自己犠牲ばかりの毎日でも、あなたの本質的な才能や魅力を引き出し「本当の自分」を受け入れてゆく呼び水になるはずです。

やりたいことに気づけないでいるなら、やりたくないのに我慢してやっていることを少しずつ手放し、まず心にゆとりを作りましょう。忙しすぎる場合は、心が麻痺して疲労も感じられなくなっており、当然、何が好きかもわからない状態の可能性が高いです。

なぜか手放すことが出来ない場合は、変化を恐れています。ゆとりを作ることだけに意識を向けられると先に進めます。

疲れが自覚できてきたら、次は回復に集中します。
疲労が取れてきた頃に、自分の気持ちや、やりたいことに気づけるでしょう。

自己犠牲を本気で手放すと、生き方は丸ごと変わります。
一気に変えようとすると、反動が出たり、負荷が高くなりすぎる場合もあるでしょう。

焦りたくなりますが、表層だけを変えてもすぐ元に戻ります。じっくりと、腰を据えて、根本的に継続的に取り組むことが必要です。ひとりだと迷走するので、可能な限り援助者をつけてください。

【ロマンスの記録】

先日、新婚のご夫婦をお祝いする機会に恵まれました。
旦那さんは、私が病と障害から回復する道のりで、本当にお世話になった方です。彼に出会うことがなかったら、今の私はいないと実感しています。
感謝を込めて、ひとつ贈り物をさせていただきました。

記念写真です。

私には、写真を撮る友人がいます。
普段は堅い仕事をしていますが、コンテストで賞を取ったり個展をしたりでなかなかの腕前です。最近では、依頼を受けてお仕事としてポートレートを撮るとのことで、いわばセミプロですよね。

彼の撮る写真がずっと好きです。
個人的には「情緒の一歩手前で踏みとどまっている表現」だと感じています。絶妙な引き算が美しいなあとよく思っています。

私たち夫婦が結婚するときに写真を撮ってくれました。
プリントしてくれたものを、ずっと部屋に飾っていました。

喧嘩が絶えず、結婚後3年くらいまでなかなか関係が安定しませんでしたが。ふと、友人の撮ったふたりの写真が目に入ると、どんなに関係が荒れていても、やっぱり思うところがあるのです。

新婚のご夫婦も、結婚に至る道のりでよく喧嘩をしてきています。おそらくこれからも、喧嘩はするでしょう。

しかし、友人が撮った写真におさめられた笑顔を見ることができたなら。どんなにひどい喧嘩でも、どこか踏みとどまれる一線を感じられるだろう、と思ったのですね。かつて自分たちがそうであったように。

人はうまく相手を愛せないときに攻撃的になります。喧嘩になるいうことは、そうは見えなくても、愛したい気持ちが必ず隠れています。どうでもいい人との間では、喧嘩にもなりません。

とはいえ、攻撃的に過ぎると、もちろん関係は破壊されます。怒りを感じたときに攻撃ではなく、愛を選べるように学ぶわけですね。

うまく愛せるようになるには、それなり時間がかかります。
夫婦関係も、初心者からで当然なのです。

問題があっても、ぶつかりながらも、傷つけあいながらも。
別れを選ぶのではなく、ふたりで乗り越えるために向き合える関係でいられるには、ひとつ条件があります。

たっぷりとロマンスを体験していること。

「ラブラブカップル」「熱いふたり」と周りに言われるくらい。ときに嫉妬されてしまうくらい仲良しの時期があることです。

ロマンスはとても熱いハートのエネルギーですが、常によろこびを感じている状態です。未来も開けているように思えるでしょう。

カウンセリングでは、パートナーシップのお話をたくさん伺います。新婚時代のロマンスを味わえるかどうかは、その後の夫婦関係に強く影響を及ぼすと実感します。

撮影を引き受けてくれた友人には、こう発注しました。


「喧嘩をしたときに見て、こんなころもあったなと思えて、ふたりで生きることをもう一度頑張ろうと、支えになる写真」。

私は、新婚のご夫婦に、彼ら自身のロマンスの記録を差し上げたいと考えたのです。ずっと、向き合えるふたりであるために。

よろこびは、必ず、人の心を真ん中に戻してくれます。
もうだめかなと思っても、もしあのラブラブなロマンスの時代を思い出せたなら。


まだやれることがあると気づいたり、もう一度笑顔を見たいと思えたり、コミュニケーションをしようと考えたり、向き合うことから逃げるのをやめたり出来るのです。

お互いにコミットメントをしている真実の関係は。
他に代えのきかない、かけがえのないものです。

私は撮影に立ち会っていません。
でも、友人が納品してくれた渾身の写真に、魂が震えました。

見る人を幸せにする甘さ。
幸せを願う人に降り注ぐ許し。
光があふれ、こぼれてくる。

祝福。

愛し合う夫婦は。
ただいるだけで、祓い清められます。

表情、視線、姿、ポーズ。
場所、背景、建物、光の入り方、色味やニュアンス。

パッション。

愛を纏うふたりの美しい瞬間を取りこぼすまいと。
奮闘している友人の姿が思い浮かびました。

伝わってくるのです。

撮影アシスタントについた友人の奥さんが、ふたりをとても和ませてくれたであろうこと。
友人は、かなりノった撮影だったであろうこと。
そして。

新婚のご夫婦が「ふたりで生きてゆく」ことに、腹を括っていること。

苦しみは半分に。
よろこびは何倍にも。

この先、どんなことがあろうとも。

「あなたの問題」も「わたしの問題」も「ふたりの問題」として取り扱い。どちらかに押し付けるのではなく、ふたりで乗り越えてゆくこと。

健やかなときも病めるときも、死がふたりを別つまで。

おふたりが夫婦になるプロセスを微力ながら支えさせていただきましたが、本当にたくさんの試練がありました。お辛いだろうな、と思うことも、お互いに勇気を必要とする場面も多かったです。

絆が試されるかのような、別れ話も出ました。
それでも、何度も何度も目の前の問題をともに乗り越えて、真実のパートナーシップにたどり着いた印象です。

ものすごく大変だったはずです。
私の感覚だと、普通のカップルが10年かけて乗り越える急坂を、ふたりで手を取り合い1年で登り切ったのですから。

だからこそ。
こんなに甘いロマンスの写真になるんだなあ……と、しみじみと感じ入りました。

実は、新婚のご夫婦のプロセスは「自己犠牲を手放し、本当の自分でともに生きる」ことが、大きなテーマでした。

【自己犠牲のまずさ】

自己犠牲というのは、心からやりたいと思えていないことや、引き受けるべきでないことを、我慢しながらやっている状態です。

よく、そうは言っても、私しかできる人がいなくて…とおっしゃられる方もおられます。しかし、お引き受けにならなくても、案外、他の誰か(特に、本来しなければいけない人)に転嫁されるものです。
私が我慢をすればいいのだと、無意識のうちに苦しみを引き受けることを選択してしまっているのです。

もし、選択に責任を持ち、腹を括って引き受けたのなら別です。この場合、愚痴や不満は出てきにくいです。
他人のせいにしづらく、起きることの責任所在を全て引き受ける心構えだからです。

自己犠牲は補償行為です。
潜在的に感じている自己価値の低さや、罪悪感(幸せになってはいけない、自分は許されないなど)が故に、凹みを穴埋めするかのように、やりたくないことをする苦しみを引き受ける自罰行為でもあるのです。

「自分は大した存在じゃないし、ダメなやつだから、やりたくないことでも我慢してやりますのでどうか許してください」と言う感じでしょうか。

気持ちが満たされるわけではありません。
我慢してやったとて、自分を好きになんてなりませんし、罪悪感は自己犠牲では決して解消されないからです。
埋められるはずのないもので、凹みを埋めようとしているので消耗するばかりです。

評価も受け取れません。
いわば仮面が成していることにしか思えませんから。
評価されているのは仮面であって「本当の自分」ではないと感じてしまうからです。隠した苦しい心が気づかれることも、あまりありません。

一つの判断材料として「こんなに頑張っているのに報われない」という気持ちにいつも心当たりがあるなら、自己犠牲を選択しやすい状態にあると思われるといいでしょう。

更に。

自己犠牲の何がいちばんまずいかというと「私はこんなに苦しんでいるのに、他の人はするべきこともせずサボっている」といった、批判的だったり視野狭窄した見方が強くなることでしょう。ひがみっぽくなると言うと、イメージが掴みやすいでしょうか。

また、苦しみのあまり心が麻痺して何も感じられなくなり、周りの人の気遣いや、手に余ることをそっとフォローしてくれている人の存在や、そもそも自分の体調不良や心の痛みに気づけなくなるんですね。

今、自分が何を感じているのかよくわからない方や、会話が「キャッチボール」になりにくい方(聞かれたことにうまく答えられない感覚がある、いつも自分ばかりが話してしまう、いつも聞き役になってしまう)は要注意です。

不満ばかり大きくなる悪循環にいますから、人を恨みがちになります。苦しさをわかって欲しい気持ちが強くなりすぎます。頼らせてくれる味方を誤って攻撃したり、あるいは罪悪感を刺激して(八つ当たりして)逆に攻撃されたりもするでしょう。

関わると揉めるからいっそのこと、と、迷惑をかけにくいように引きこもり、気づけば周りに誰もいない孤立を体験することもあります。頼ろうと思える人が見当たらなくなることも起きます。

ごくシンプルに言うと「関わりづらい感じの人」になってしまうのですね。

自己犠牲をしているな、と自覚できることはあまりありません。感情麻痺がつきものなので、どうしても気づきにくいのです。我慢は慣れっこに、心当たりはありませんか。

しかし、人間ですから必ず限界は来ます。

病気だったり、事故だったり、自己破壊的な行動だったり。
これまでしてきた仕事ができなくなったり。
関係の破綻だったり、大切な人に嫌われたり。

どこかでひずみが限界に達して、人生のあらゆることがうまく行かなくなって気づきに至る場合が一般的です。

【苦しみを手放した先に】

自己犠牲をやめていこうとするなら、やりたくないことを引き受けないのはとても大事です。
ところが、我慢をしてきた期間が長ければ長いほど、癇癪が起きる場合が多いです。

一般的に、やめたことがあれば、他の何かが代わりに入ってくるものです。でも、心が麻痺していれば、やりたいことがわかりません。再びやりたくないことを掴んでしまいます。

やりたいことをはじめられても、なかなか前に進みません。
これまで我慢して飲み込んできた気持ちを、「私を苦しめた奴ら」に投影して爆発させたり、あふれ出てくる恨みや、繰り言ばかりを言うようになることがあります。

癇癪が起きているのですが、実はこれ、やりたいことをしないようにしている防衛なのです。幸せになる恐れと言い換えることも出来ます。

我慢の下には(ずっと下ですが)、才能、魅力、つまり「本当の自分」が、ギフトとして隠れていますが、我慢の期間が長過ぎて、素直に心を開けず、防衛に走ってしまうのです。

ただただ、変化が怖いだけなのですが、癇癪が前面に来て、変化が怖くて震えている自分を認識できません。

我慢していた長い間、人を恨んだり、憎しみを持ったはずです。「本当の自分」を顕すと、かつて自分がしたように、恨まれたり憎まれたりされると思ってしまうのです。

冒頭で、自己犠牲を手放してゆくには、根気強く時間をかけることが大切ですと申し上げているのは、「本当の自分を顕しても大丈夫だよ」「本当の自分でも攻撃されないよ」という経験を、根気強く積み上げていくことが重要だからです。

自己犠牲は、補償行為でしたよね。ちょっと敏感な方だと、こんな感じもあるかもしれません。自分に嘘をついている、とか、自分が偽者のように感じる、とか。

その感覚は、あながち外れていません。なぜなら自己犠牲は「本当の自分」が心の奥深くに埋もれていたり、機能していなかったりするときにするものだからです。

あるいは、こうも言えます。
「本当の自分」から目を逸らしたり、「本当の自分」を生きなくていい言い訳として、自己犠牲が使われる。まさに、補償行為そのものです。

押入れの奥に突っ込んで見て見ぬふりをした、いずれどうにかしないと思っている「あれ」に気づいてはいるけれども。
なぜか毎日忙しかったり、どう言うわけかすぐ体調不良を起こしたり、疲れが取れず休みの日は全く動けない。

「あれ」に取り組めば、「あれ」に本気になれば、人生が変わるとわかっているのに、手をつけられないでいる。

「本当の自分」はとても強力に、人生の方向を変えてゆきます。しかし、人は死ぬことよりも、愛されることや、幸せになることを恐れると言う心理学的格言があります。「本当の自分」を顕すのが怖過ぎて、逃げてしまうのです。

すぐ逃げる、すぐ諦める、すぐ辞める。
どうせうまく行かない、どうせ失敗すると呪いを自分にかけ「本当の自分」を顕すことを避けるのは。

心からやりたいと思えることで、誰かによろこんでもらう幸せなんて、この世にありはしないという癇癪ではないでしょうか。

そう信じているのは、ご自分だけかも知れませんよ。
癇癪で、真実を壊そうとしなくていいのです。

もっとも真実が壊れることは、絶対にないのですが。

「やりたいことなんか何もない」無気力状態も同じ癇癪です。長い間、自己犠牲をし過ぎて、深く諦め、心が全くわからなくなっている状態です。

心からやりたいことは、誰の心にもあるのです。


なぜなら心からやりたいことは、その人の愛のそのもので、人は、愛したい生き物だからです。

愛を隠すことはできても、愛がない人はこの世に存在しません。「本当の自分」は、その人の愛を顕して生きられている状態です。表現のありさまを才能といい、その人の創造性から立ち表れてきます。

小さい頃から、家族や血縁者の苦しみを感情のレベルで引き受け続け、自己犠牲が板につき過ぎている人もいます。
生き方そのものが自己犠牲的であり、自分の苦しさがわからなくなっています。特に、芸術的な分野に才能を授かっている人に多いです(ほんとにほんとに、めちゃくちゃ多いです!)。

「本当の自分」から目を背けたり、心からやりたいことを感受できないほど心を麻痺させたりして、自己犠牲という苦しみを無意識に選んでしまう。

それでも、最大の恐れの下に、最大の才能が隠れているといいます。「本当の自分」の輝きは、自己犠牲による苦しみを手放した先にあるのです。

苦しみへの執着を何度も何度も手放してゆくと、なんとなく、うっすらと見えてくるのです。


心からやりたいことが。
「本当の自分」が。

【魂の暗がり】

結婚生活そのものが自己犠牲になっている人も多いです。
私自身、前の結婚がそうでした。

幸せになってはいけないとか、自分が許されるはずがないなどの罪悪感がとても強かったのです。だからこそ、幸せにはなれない人をパートナーに選んでいたんですよね。苦しみを引き受けなければならないと、無意識に思い込んでいました。カウンセリングにたどり着くまで、全く気づけないでいたのですが。

母との関係が険悪で、一刻も早く家を出たいと思っていた20代半ば、大きな失恋をしました。


今は、母から逃げるために彼と結婚したいと思っていたことがわかります。大好きな人でしたが、私の隠れた欲求がとても強くて、結果的に嫌われてしまったんですね。

振られた後も、なんとか結婚してくれる人はいないかと、焦りまくっていたところ、元夫と出会いました。お互いに、まあまあ似た境遇だったので、傷ついたもの同士、渡りに船でした。


好きだったかというと……好意はありましたが、同情がいちばん近い気持ちでしょうか(失礼な話です)。当然、一生添い遂げるとか、ともに生きていこうと腹を括れてもいません(失礼な話です)。コミットメント? ナニソレ、オイシイノ? です(失礼な話です)。

結婚したいと思っていたのにも関わらず、今考えれば、やはり、結婚をしたかったわけではなかったのです。要は、依存先を探していただけなのですね。

元夫には精神的な病がありました。
「好きかというと微妙だけど、見捨てるのもなあ…どうせ捨てたような人生だし、私が一緒にいてあげたらいいか…」と、だいぶ上から見ていました。


ずいぶん偉そうですが、私には生きる場所がなかった惨めな気持ちを隠していたのが正直なところです。

幸せにはならない選択でしか共鳴できない、典型的な共依存関係で、お互いに自分の都合だけを考えていました。

本当に相手の幸せを考えるなら、してはいけないこともしていました。元夫は借金癖がすごかったのですが、与信がつく枠がなくなり、私の名義で借金を頼まれ、すごく嫌だったけど我慢して借りたことを覚えています。
 

でもこれ本来は、私が断らないといけなかったのですよね。

アルコール依存症の人の縋りつきや脅しに屈してお酒を与えてしまい、結果的に治療に協力しない「イネーブラー(依存症の継続を可能にしてしまう人)」と同じです。

借りられたのは、10万円ほどでした。あのとき、なぜ支払いの滞りや生活費を全く考えず、ぱあっと散財しようぜに同意したのか、不思議です。


イカれていたとしか、言いようがない。

夜中に新大久保のドンキで、はしゃいで何かを買おうとしている元夫の背中と、煌びやかに渇いた店内を見回して、欲しいものは何もないな、と思った記憶があります。

そりゃそうですよね、本当に求めていたのは、ものではなく、温かな心のつながりだったわけですから。
でも、気づくまで、私の場合あともう10年ほど要しました。
ええ、正真正銘のポンコツです。

自己犠牲は、どこかで限界を迎えます。


当然ながら、結婚生活は破綻し、私の態度に誘発された、元夫が暴力を振るうようになり、身内に援助されながら離婚に至りました。

自分は幸せになる資格がないとか、生きている価値もないという思い込みを何度も手放し。生まれてきてごめんなさいを何度も手放し、私は誰かのよろこびだったことを何度も腑に落とし。

心を癒し、心を学び、愛されようとするのではなく、愛することを学び。ようやく、首までどっぷりと使っていた罪悪感が洗われてきた頃、今の夫に出会うことができました。
この人素敵だなあ、と心の底から思った瞬間。

 

恋に落ちました。

【例えばそれは大好きな歌を、ずっとふたりで歌える幸せ】

新婚のご夫婦の旦那さんは、私と同じように、離婚の経験があります。彼もまた、自己犠牲が結婚の形を取っていた人でした。

人生が行き詰まり。
「心からやりたいとは思えていないことや、本当は引き受けるべきでないことを、我慢しながらやっている状態」がどうしようもなく苦しくなったとき。

 

彼は、かつてすごく好きだったこと、でも「普通の人生を生きるために」あるいは、何かへの贖罪のように諦めたことを、もう一度やり始めました。

当初は、苦しい現実から逃れるように、だったことでしょう。しかし間違いなく、心の慰めになっていたはずです。ほんの少し、心が回復したのですから。

彼の元奥さんは、彼がそうせざるを得なかった理由には興味を持ちませんでしたし、意味は理解されませんでした。私の前の結婚生活と同じように、離婚に至ってしまうほど、自分のことしか考えられなくなっていたのかもしれません。

彼は、誰に気を使うのでもなく、もちろん強制されるのでもなく、心からやりたいと思うことを、やり始めました。


「普通の人生を生きるために」あるいは、本当は存在なんかしない罪を贖うために握りしめていた、やりたくないことを手放し、空いたその手でやりたいことを掴みなおしました。

「本当の自分」を顕し始めたのです。

嘘偽りがないとき、人はとても魅力的です。
やりたいと思うがままにやっているとき、人は輝いています。とても、楽しそうです。

「本当の自分」は自然です。
リラックスしていて、インスピレーションを受け取りやすくなります。犠牲はどこにもありません。やりたいことですから、当然ですよね。

何より「本当の自分」で生きようとする、もうひとりの自分と引き合いやすくなります。お互いの才能に惹かれ合うように、ふたりは出会い。

恋に落ちたのです。

彼と出会って、私の人生に色がつきました、と奥さんは言いました。旦那さんは、彼女は僕なんかよりずっと、素晴らしい才能があるんです、と言いました。

つくづく思います。
ここまで来るのは本当に大変だったけど。
今、幸せだよね。

よかったね。

パートナーシップは、夫婦でともに、同じ何かを楽しみながら生きられている状態がいちばんの幸せです。
ふたりで歩き出した道のりは、これからずっと続くけど。

お互いに惚れ込んでいて。
ふたりで、幸せを創り出す世界にいる、よろこび。

ところで。
友人の写真の腕がいいのは、前から知っていたけれど、新婚のご夫婦の雰囲気や、表現のニュアンスがあまりにも素敵で。特に旦那さんの表情がとても幸せそうで、見たことがないと、撮影した友人に伝えたところ。

友人の奥さんが、積極的に新婚のご夫婦に関わってくれたからこその、幸せの表情で、自分はシャッターチャンスを逃さないようにファインダーを覗き続けていただけ、と教えてくれました。

そうか。
ともに生きるよろこびが、キラキラとあふれてこぼれ落ちてくるかのごとき、幸せの記念写真は。

友人夫婦の共同作品なんだな、と腑に落ちました。

友人が幸せそうなのは、写真を撮ることだけじゃなくて。
奥さんとともに、創りだすよろこびをも感じているんだなと思ったのです。

作品から、伝わってきました。

写真家の、高揚感が。
写真家の妻の、よろこびが。

本気で愛し合うふたりを。
本気で愛し合うふたりが、眼差している。

祝福。

自己犠牲は。
いちばんの創造性を表現して生きる状態「ヴィジョン」を生きることから逃げるために行っていることです。

自己犠牲を手放してゆくには、根気強く時間をかけることが大切です。根深い場合は、生き方を丸ごと変える必要があります。人間関係の洗い直しが起きて、お別れを経験することもあります。

一気に変えようとすると負荷が高くなりすぎる場合もあるでしょう。焦りたくなりますが、表層だけを変えてもすぐ元に戻ります。根本的に継続的に取り組むことが必要です。

ひとつ、握りしめていた自己犠牲を手放して。
ひとつ、心からしたいことを掴み直しませんか。

スタートラインに立つことが出来ます。
「本当の自分」で生きる、幸せの。

今、私には小さな夢があります。
新婚のご夫婦の、共同作品に触れること。

すでに、リクエストはしてありますが。
以前、共同作品の原型にあたるものに触れたときに、思ったのです。

ずいぶんしっくりくるふたりだな、と。

写真家の友人夫婦が、幸せを創り出す姿は。
よろこび以外の、何ものでもないと思います。

新婚のご夫婦の創造性が織りなす作品にも。
きっと、もう少し先に出会えることでしょう。

記念写真から、聴こえたのです。

寝ても覚めても、あなたとふたり。
ずーっと、愛してる。

「本当の自分」で、ともに生きること。

例えばそれは大好きな歌を、ずっとふたりで歌える幸せ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

 

twiiterやってます!@yanagi_aco 

無言フォロー&リムーブお気軽に^^ 

 

noteやってます!カウンセリングサービス やなぎあこ  

フォローやスキしていただけるととても嬉しいです^^ 

 

 

◆カウンセリングサービス・やなぎあこのブログはこちら 

◆公式noteはこちら

カウンセリングを受けるには? 

◆会場案内(群馬)(東京)  

 

---------☆やなぎあこのカウンセリングご案内☆--------- 

群馬(前橋)とZOOMで面談カウンセリングをご利用いただけます。カウンセリングサービス予約センターまで、 お気軽にお問い合わせくださいね。

  群馬(前橋)面談会場のご案内 

カウンセリング予約センター 06-6190-5131 受付時間12:00〜20:30 月曜定休(祝日の場合は翌日代休)