新年あけましておめでとうございます。
カウンセリングサービスやなぎあこです。
本年よりアメブロ『恋愛テクニック』金曜日「大人の恋愛術」に、吉村ひろえ沼田みえ子とともに、執筆を担当せていただくことになりました。
どうぞよろしくお願い致します。

 

また本年元旦に起きました「令和6年能登半島地震」により被災された皆様へ心からお見舞い申し上げます。
インフラや物資救援の段階で、我々心理カウンセラーがお役に立てるのはまだ先かと思いますが、皆様の安全と安心を心よりお祈り申し上げます。

安全圏に居られる方でも心が落ち着かないことがあると思います。寒い時期ですので特に、物理的に身体を温めるのが有効です。よろしければご参考にされてください。

「(2016年10月21日執筆)毛布にくるまりましょう

 

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大人として生きることは。
「ともに生きる」ことは。

周りの人と、世界と。
愛する人と、愛し合い。

手をとりあって、真実を生きることです。

【世界を転換させる】

臨床的にも、個人的な経験からも、30代前後に大きな転換期を迎える方が多いと感じます。

人生の行き詰まりを感じて、どうにかしようともがく。
周りのアドバイスを含む過去の経験で乗り切ろうとして、うまく行かない。
人生なんてこんなもんだと諦めはじめるにも関わらず、諦めきれず葛藤する、などなど。

人の悩みの9割は対人関係に起因するといいます。

疎外感や、理解してもらえない感覚、反りの合わない関係、特に上司や親。
パートナーシップのトラブル、ご自身や相手の(もしくは双方の)浮気、不倫。
セックスが上手く行かない、セックスがない。
あるいは、親密な関係そのものを持てず孤独であり、代償行動でも満たされない、などなど。

一見、そうは見えなくても、推しなべて行き詰まりの根っこには、対人関係の問題があります。

例えば、転職を通じて環境を変えようとして、うまく行けば問題はありませんが。
もし雇用に至らなかったり、転職先でも同じことが繰り返されるようであれば。
環境以外に変えた方がいいこと、特に「人との関わり方の洗い直し」を意識的にした方が良さそうです。

常に「良い私」で関わろうとしていますよ、と思われる方もいるかも知れません。

しかし、人が「良い私」を前面に出すとき。
「良い私」は仮面(ペルソナ)の役割をもなすのです。

その下にいる自分を隠すために。

隠された人格を察するからでしょうか。
「良い私」の仮面で振る舞えていても。
案外、相手には「壁」を感じさせていることも多いです。

いい人なんだけどなんかいまいちハマらんなあ、とか。
いい人なんだけど本音がよくわからないなあ、とか。
あるいは、手伝いたいけど自分じゃ力になれないだろうな、とか。

たまに「悪い私」を前面に出す人もいますが。
仮面は人を近づけさせない「壁」であることには変わりありません。
近づきにくいので「良い私」より、わかりやすく関わりが減りますよね。

とはいえ「悪い私」の仮面は、あの人ほっとけない! と感じやすい人を引き寄せるのは事実です。
悪役が愛されるのと同じ力学かも知れません。

「良い私」の仮面だと、あの人は大丈夫、問題ないと見過ごされやすいです。
大勢の中にいても孤独を感じやすいかも知れません。
誰にも気づいてもらえない寂しさを自覚している方もおられるのではないでしょうか。

「良い私」であれ「悪い私」であれ、仮面でのみ関係を成立させているならば。
人と親しく、あるいは深く密接に関わることへの恐れが表れています。

ごくシンプルに言うと。
素の自分とか、弱い自分とか、苦手なこととか、短所とかを見せられない。
あるいはどうしても自分では好きになれない自己嫌悪を、見せられない。
抱えてしまっている悩みを、見せられない。
パートナーにも、家族にも。

いや、パートナーだからこそ、家族だからこそ。
心配させたくない、迷惑をかけたくない、と。
ひとりで抱え込もうとするのです。

ところが。

アラサー、ミドサーくらい。

20代後半から30代半ばあたりで。
親密感への恐れの象徴である、仮面で生きることが破綻し始める印象です。

人生が行き詰まったように思い。
このまま一生終わるのかな、と思い。
漠然と、死にたいな…などと感じる。
実際に死を願っているというよりも。
生まれ変わりたいという生への渇望が隠れているのですが。

しかし、何がきっかけになるのかはわからないのですが。
鬱屈して蓄積したエネルギーがある日。
決壊して、溢れ始めて、流れに巻き込まれ始めます。

「人との関わり方の洗い直し」が始まり、大きな転換期がやってくるのです。

新しい生き方を模索してゆく段階に入ります。
当然、これまであったご縁を手放すことも起きます。
仕事を変えたり、身近な関係が大きく変わったり。
恋人と結婚に至らなかったり。

離婚をしたりなどの「別れ」。

「人との関わり方の洗い直し」ですから。
仮面を使って生きてきた原因でもある、人と関わる恐れを手放します。
大切な人たちと親しく、深く密接に関わってゆくことで困難は切り開いて行けます。
つまり。

本気で人に向き合う。

はすに構えたり諦めた生き方をやめる、と言ってもいいでしょうね。
かっこつけるのもまた、仮面に過ぎないのです。

一方的にコントロールをされ続けた人が、反撃に出るのもこの時点です。
離婚を切り出すのは典型的ですね。
もちろん炎上しますが、聖なる炎に本気で向き合う覚悟が必要です。

しかしこれまで深く関わることを恐れてきたわけですから。
おっかなびっくり前に進むしかない方もおられるでしょう。
当然、誰かの援助が必要です。
「天国へはひとりでは入れない」という格言の通り、誰かともに前に進むことが大切です。

自分を支えてきた信念が、壊れるようなことが起きます。
耳に痛いことに直面しないとならないことも起きます。
耳障りのいい言葉はもう救ってくれないと気づくからです。

でも、それでいいのです。
新しい自分に生まれ変わるのですから。

願いやかつて見た夢がすべてつぶれる経験をする人もいるでしょう。
新しい生き方とのエネルギーがマッチしないものは、遅かれ早かれ手放されてゆきます。

しかし、後から振り返ったとき。
あの頃の願いや夢は「偽物」だったなと思うようになるでしょう。
ひとりでも生きられるように準備した代償物に過ぎなかったのです。
あなたに相応しい「本物」ではありませんでした。

再生の痛みや苦しみは味わいます。
もう一度、生まれ直す。

大きな転換期は、ひとりでもがいても、乗り越えられないように出来ています。
ひとりで生まれて来れた人っていませんよね。
だからこそ、誰かが必要なのです。

「ひとりで生きる」から「ともに生きる」へ。
世界を転換させます。

【思春期を終わらせよう】

世界に生まれ落ち、成長するプロセスで、思春期以降私たちは「ひとりで生きる」ことを身につけます。
生まれて直後から数年は、物質的にも心理的にも、親の庇護の下に生きています。
やがて思春期を迎え親離れをして、親とは違う人格の「わたし」を確立します。

反抗期はよくできた成長のシステムなのです。

「親のようにはならない」と否定や反発をすることが、大切なプロセスなんですね。
「わたし」という自我(この場合は自分は何者であるかというアイデンティティ)を形成するために。

とても興味深いですが、親に似ることはあっても親と全く同じ人格にはなりません。
別の個体ですから当然ではありますが。

だからこそ、幼少期に同一視していた親を否定するのです。
「わたし」を確立するために。
思春期のこどもには、嫌われ役を引き受けられることが親の存在理由でもあります。

どんな人でも、嫌われるのは辛いです。
ましてや他人が嫌われ役を引き受けるのは相当のエネルギーが要ります。
(だからこそ我々はプロ意識で腹を括り、耳に痛いことを申し上げることがあるのですが。)

しかし、こどもにどんなに嫌われても、存在全てを愛しているのが親です。
罪悪感が刺激されて近づけないとか、あえて近づかないようにしてくれていることはあるでしょう。
嫌われているなとか、嫌がられているなとか、うまく愛せないなとは思うものの。

こどもを愛していることには変わりありません。

あんなに嫌ったお父さんお母さんでも、変わらず自分を受け入れてくれたとき。
許された気分になったことのある方も多いのではないでしょうか。

「ひとりで生きる」から「ともに生きる」への転換は。
こどもとして生きてきた自分を卒業し、大人として生きることを許すことにあります。
愛されようとするのではなく、愛する側に回るわけですね。

愛することは、豊かであることを。
体験的に知ってゆくのです。

うまく行ったか行かなかったかは別として。
ひとりの人と真剣に向き合い、関わることができたなら。

後からわかるのです。
あの人と真剣に向き合った時間は。
自分に取ってかけがえのないものであったことを。

結果どうあれベストを尽くせば。
後悔はしにくいのと同じです。

一生懸命取り組んだことって。
生き方の礎になりますよね。

全て、目に見えるものではありませんが。

思春期以降「ひとりで生きる」ようになることで、自分を作ります。とても大切なことです。
にもかかわらず。

世界は、ひとりで生きられるようにはできていません。

だからこそ「ともに生きる」人に成長する必要があります。
アラサー、ミドサーで迎える大きな転換期の実態です。

人は、自分の気づかないところで、誰かや何かに助けられながら存在できています。
おかげさま、お互いさまの精神ですね。

では誰かや何かに助けられている、と感じられる感受性は。
一体どこから来るのでしょうか?

誰かや何かを助ける側、つまり与える側に回ったときに育まれます。
仕組みとしては単純で、与える側に回ると「かつて自分に与えてくれた人」の気持ちがわかるのです。

ピンチのとき、手を差し伸べてくれた人の気持ちは。
誰かのピンチに、手を差し伸べたときにわかります。

何もできないけどと言いながら。

差し入れをしてくれた人の気持ちは。
励ましや感謝の代わりに差し入れをしたときに分かります。

商品やサービスを、買い支えてくれた人の気持ちは。
今、大変だろうからと、何かを買ったときにわかります。

与える側はもちろん、勇気は要りますよ。

葛藤します。
迷惑じゃないかな、大袈裟じゃないかな。

恥ずかしいな、などなど。
 

見返りを求めると欲求に苦しみますから、期待を手放して与えることが大切です。
 

葛藤を超えて、期待を手放して与えることで出てくるのは。

大人としての魅力です。

「ひとりで生きる」ことを手放して。
「ともに生きる」ために、与える側に回る。

すると世界はどう変わるか。

どんな逆境にあっても、必ず助けてくれる人が出てきます。
恩返しをしてくれる人が出てきます。

手をとりあって生きましょうと。
「ともに生きる」人が出てくるのです。

必ず、です。

大人として生きることは。
「ともに生きる」ことは。

大切な人と、周りの人と、世界と、生きることなのです。
手をとりあって。

【分離ではなく、つながりを選ぶ】

親との間で解消されていない葛藤は、対人関係、特にパートナーシップに持ち込まれます。


どういう状況であれ、相手に対して文句を言いたいのは。
相手に無意識に親を映し出して。

心理的なこどものポジションを選んでいます。

「私が幸せじゃないのは、パパやママがちゃんとしていないせいだ」と。

こどもとして生きることを選んでしまっているのです。

日本は何かに甘えて生きることが、割と長くできるようになりました。
個人的な感触ですが、35歳くらいまで、思春期の親との葛藤を、許容されている印象があります。
長いモラトリアム期間といってもいいでしょうか。

これまでの世代からの恩恵である物質的な豊かさがそうさせているかなと思います。
もちろんいい悪いの話ではなく、単なる事実です。

しかし、モラトリアムをしていて楽かというと、そうではないんですよね。


アラサー、ミドサーで感じる行き詰まりは。
対人関係で、心理的にこどものポジションを取ってしまうために起きているのです。
言うなれば、思春期を終わらせられていないのです。

親との分離で「ひとりで生きる」ことを学びます。
ところが、思春期がまだ続いているならば、ある意味こどもを許容されているのです。


大人として生きる選択を、知りません。

すると、思春期に親から分離して個を作った感覚が。
パートナーシップにも引き継がれます。

恋愛や結婚生活も「ひとりで生きる」人がふたりいるだけになります。


結婚して、家族となっても「あなたはあなた」「わたしはわたし」という分離の感覚のままです。

こどもがいても同じです。
両親の仲が険悪なら、こどもはどちらかの味方にならざるを得ません。


母体から生まれ出た一体感は強烈なので、やはりお父さんが孤立することが多いですね。
(もちろんお母さんが分離してしまう場合もあります)

分離の感覚は、問題が出てきたときに特に強く現れます。
「あなたのせい」「あなたの問題」を脱却せず苦しみます。
 

大袈裟なと思うかも知れませんが、無限地獄なんですよ。
何をどう話しても辿り着くところが同じ「悪者探し」だからです。喧嘩をして感じる堂々巡りがそれです。

誰かを悪者にして分離の感覚で乗り切るのは、痛み止めくらいにはなるかも知れません。


しかし、根っこの部分が解決しないので、次の関係でも同じことが起きるんですね。

大人として生きることは。
「ともに生きる」ことです。

心の痛みを伴う分離ではなく。
つながりを選ぶます。

パートナーシップに即して言えば。
「ひとりで生きる」人がふたり、ではなく。
ひとりとひとりが「ひとつ」となって生きることなのです。

しかし、これまでひとりとひとりで生きてきたわけです。
当然ながら、自我がぶつかり必ず競争(主導権争い)になります。

お互いに相容れない。
あの人のことはもう諦めましたとか、別れましょうとかいう話が出てくるのですが。
大人を生きるのならば。

相容れない問題が出てきたときに、どちらか一方の問題と見るのではなく。
「ふたりの問題」と捉える成熟さが重要なのです。

たとえ「相手がやらかした」に過ぎず。
自分に非がないように見えることであっても。
「ふたりの問題」と捉える成熟さ。

仮に、相手が浮気をしたとします。
相手が悪く思えますよね。
それでも。

 

我がの未熟さにも焦点を当てる必要があるのです。
例えば「浮気をしたくなるほど私は依存的で、魅力を失っていたかも知れない」と。

正直、胆力は要ります。
だからこそ、成熟さが育まれるのですが。

こんなシミュレーションはどうでしょうか。
仮にあなたが浮気をしたとします。

パートナーに、
「なんて酷いことをするんだ! これまで散々我慢してきたのに!」
と感情をぶつけられるのと、
「ごめんね、あなたがよその人に目を向けたくなるほど、あなたに怒ってばかりだったんだね」
と、謝罪されるのでは、何が違って感じられますか?

前者は「あなただって酷いことをしてきたじゃないか」と相手を責めやすくなるはずです。
後者は「自分も悪かった」と、非を認めやすくなるのです。

どちらが膠着しづらいかは、一目瞭然ですよね。

また、前者と後者では。
どちらが魅力的でしょうか。

大人であるということは。
人間的な魅力が大きくなるということです。

容姿、見た目は全く関係ありません。
魅力が大きくなればなるほど。
人生は流れに乗って行きやすく、成功もしやすいです。


あの人のために力になりたいと思われやすいです。
必死に努力をするというよりも。
誰かに押し上げてもらう形で幸せになって行きやすいです。

パートナーシップにおいて「どちらか一方だけが悪い」ということはありえません。
必ずお互いに、改善点があります。


しかしお互いに「あなたが悪い」と責め合ってばかりだと。
関係はどこにも行かず、どん詰まりしかなくなり、お互いに自己破壊的になるのです。

二人の間に問題があるとき。
相手のせいだけにせず、自分の未熟さを受け入れるのは、正直しんどいです。
私もいまだに、苦手です。

それでも。

相手に文句を言い続けてもひとつも状況はよくなりません。
もちろん気分も良くなりません。
問題も、解決しません。

一時的に先送りしても、いずれは直面しないと。
行き詰まるばかりなのです。

そもそも問題は。

「ふたりの問題」として捉えられて初めて。
乗り越えることができるのです。
「天国へはひとりでは入れない」のと同じです。

率先して自分の未熟さを受け入れることによって。
より本音で話せたり、相手の気遣いが見えたりするようになります。


喧嘩も、ずっと早く終わりますし、より建設的になれます。
揉める前より、希望を感じて生きられるようになります。

お互いに別の人格である以上。
競争は必ず起きます。

でも「ともに生きる」のです。
手をとりあって。

「競争をしない」という隠れた競争の手段もあります。


一見、平和的解決のように見えますが。
相手の言いなりになって、さっさと「負け」のポジションを取っています。


いわば不戦敗ですが、競争には参加していますよね。
関係から遠ざかり、引きこもり、「ひとりで生きる」に逆戻りをしようとするわけですね。

どんな対人関係でも、必ず競争の段階があります。
多くの場合私たちは、誤解しています。
「勝つ」か「負ける」の分断的解決しかないと。


「ひとりで生きる」時代には、いろんな意味で親に勝とうとしてきたのですから当然でしょう。

しかし、これまでの生き方ではどん詰まることを思い知ったのは幸運です。
 

だからこそ、世界を転換させる。
「ひとりで生きる」から「ともに生きる」へ。


どちらかがコントロールするのではなく。
「ふたりのやり方」を作るために、対話をする成熟さが必要です。

「勝つ」か「負ける」か以外の道を。
模索できるようになるほど、成熟さが必要です。

良いお手本が周りにあって、自然と学習ができる場合もあるでしょう。
一方で、我々のような援助者と一緒に学んで行かれる場合ももちろんあります。

いずれにせよ、大人として生きることは。
これまで通っていた思春期学校を卒業して、上級学校へ進むようなものです。


当然ながら、知らなかったことを学び。

挑戦する意欲は大切ですよね。

【手をとりあって】

実は、対人関係での選択肢を突き詰めると「殺し合う」か「愛し合う」かしかありません。

大人として生きるよろこびは。
「勝つ」か「負ける」かの「殺し合う」ではなく。
「愛し合う」選択ができるようになること。

私たちの心と、生きる世界は因果関係にあります。
 

競争が起きたときに「殺し合う」を選べば。
攻撃や憎しみ、恨み辛みが溢れる世界になります。


「愛し合う」を選べれば。

「殺し合う」世界はキャンセルされます。
人と「愛し合う」よろこびの世界が現れます。

生きていればいろんなことはあります。
でも、選択で、世界は変えられる。

そもそも。
「愛し合う」よろこびの世界は。
ずっと待ち望まれている悲願なのです。

日本は戦後復興から高度経済成長を経て。

バブル崩壊や不況などありましたが、これまでの世代に比べ、私たちは物質的には本当に豊かに生きています。

価値観も、物質から、心(目には見えないもの)、感受性の充足にシフトしている印象が強いです。
争いではなく「愛し合う」ことを選びたいと願う若い人も多いですよね。

人は、本当に多くの戦い、戦争をしてきました。
「殺し合う」ことしか選べなかった時代がありました。

しかしご先祖さまは本当に選びたかったのでしょうか?
「殺し合う」ことを。

先の戦争に行ったお身内のお話を聞いたことがある人もいるかも知れません。
語りによろこびはあったでしょうか?

手柄を立てた雄々しさが語られたかも知れません。
しかし(心理職の専門用語であるものの)戦争PTSDという言葉を割と見かけるようになった今。


戦場で抑圧された精神的外傷が持ち帰られ。
当事者や周囲に心の痛みをもたらした事実も見えてくるようになりました。

敗戦後、自分を責め切れなくなった暴力性が、家族に向いたケースはとても多かっただろうと想像します。
心の仕組みを考えれば、他者に向く暴力も、根源は自罰なのです。

戦場で良心は役に立ちません。
それでも。

殺さなくていいなら、殺したくはないのが。
人の自然な良心です。

だからこそ。

お父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃん、あなたのご先祖さまというこれまでの世代は。
あなたが「愛し合う」ことを選ぶと。

泣いてよろこぶのです。
 

いい時代になった、と。


「殺し合う」以外の選択が可能な世界を、大切な子孫が生きることが。
彼らをどれだけ救うかわかるでしょうか。

「愛し合う」よろこびの世界に。
彼らがどれだけ許されるかわかるでしょうか。

昨年大晦日の紅白歌合戦に「クイーン+アダム・ランバート」がゲスト出演しました。
『ドント・ストップ・ミー・ナウ』の高揚感。
生きるよろこびや希望を感じました。

クイーンには、好きな曲がたくさんありますが。
私のいちばんは『手をとりあって(Teo Torriatte)』です。
2011年の東日本大震災復興支援アルバム「SONGS FOR JAPAN」にも提供されています。

素晴らしい歌です。
「ともに生きる」ことの本質が表現されています。


特に、ブライアン・メイの書いた歌詞が、日本語に翻訳されているサビの部分。
クイーン来日時、通訳を務められた鯨岡ちかさんによる美しい日本語詞。
フレティ・マーキュリーの歌唱に乗ると、魂がよろこぶのを感じます。

著作権の関係で歌詞は載せられませんが、よかったら探して味わってみてください。

大人として生きることは。
「ともに生きる」ことは。

周りの人と、世界と。
愛する人と、愛し合い、真実を生きることです。

手をとりあって。

 

《参考資料》


増田勇一『Udiscovermusic』「クイーンが日本語で歌った「手をとりあって」:誕生の軌跡と日本で愛され続ける理由」https://www.udiscovermusic.jp/columns/queen-teo-torriatte(参照日:2024年1月4日)

佐伯敏『サイカルjournal by NHK』「クイーン単独インタビュー ブライアン・メイさん」https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2018/12/story/special_181227/(参照日:2024年1月4日)

 

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