あなたの「大切な人」って誰ですか? ブログネタ:あなたの「大切な人」って誰ですか? 参加中
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15年前の今日、阪神大震災が神戸の街を襲った。

アタシは当時、中学生。
修学旅行を目前に控え、毎日毎日、行き先である広島、長崎へ届けるための鶴を折っていた。
1班で確か10組の千羽鶴をつくるというノルマがあり、うちの班は6人だったので、6人で1万羽、単純計算をしても1人1667羽折らないといけなかったのだった。

あ、そういえば、先週のKinKi Kidsコンサートin京セラドーム大阪の2日目、3日目に同行した友達 は、このとき同じ班だったなぁ。
長い付き合いです(笑)

まだアタシは、堂本光一君の“ど”も知らないころでした。
この2カ月後に“出逢う” ことになるのですが。


地震が起きた朝、アタシはびっくりして目を覚ました。
これまで感じたことのないほどの、強い揺れ。

弟と2段ベッドで寝ていたのだけど、「めっちゃ揺れてるなぁ」「長いなぁ」と、上下で会話をしていたのを覚えている。
要するに2人とも、しゃべっていないと不安だったのだ。

少し弱まったかと思えば、また強い揺れがやってきて、動くことができなかった。


ようやく揺れがおさまり、急いで1階へ下りる。
すでに母親がテレビをつけていて……ただごとではないことを悟った。


アタシの住む地域は震度5。
大して被害もなく、軽い負傷者はいたみたいだけれど、その程度だった。

だけど、その後何週間か、テレビはほとんど映らないし、CMといえば、公共広告機構ばかり。
今のようにインターネットもないので、唯一の情報源である新聞の1面に印字される死者の数が日に日に増えていくことが、アタシたちの不安を煽った。


新幹線復旧の見通しも立たないため、修学旅行の行き先は、東京へ変更になった。
アタシたちが懸命につくった千羽鶴は、3分の1ほどを行くはずだった広島、長崎へ届け、残りを東京へ持っていくことに。
米国の水爆実験によって放射性降下物に被爆した第五福竜丸の展示館へ納めてもらうことになった。


しかしアタシたちは、予定数に達した後も、鶴を折り続けた。
始業前、休み時間、放課後、帰宅後、所定の大きさに切った広告をどこへでも持ち歩き、1羽でも多くの鶴を、と折り続けた。

そして、代表で神戸へ支援活動へ行くという人に、それを託したのだった。



正直、修学旅行のために折っていたときよりも、震災の被災地へ届けるために折っていたときのほうが、アタシたちは生き生きしていた気がする。
神戸の人たちにとっては、鶴なんて邪魔になるだけで、食糧や毛布のほうがうれしかったに違いない。
だけど、中学生のアタシたちには、それ以外、できることがなかった。

毎日毎日、惨状が報道され、同じ近畿内で、たくさんの人が苦しんでいるということがつらかった。
支援活動も、アタシたちが行っても足手まといになるだけだからと禁止されていて、何もできない自分たちがもどかしかった。

鶴を折ることは、アタシたち自身が救われる術でもあったのだった。



あれからもう15年。

中学生だったアタシは、ほぼ倍の年齢になった。

果たして、あのとき、命を落とした多くの犠牲者の方たちに恥じない15年間を送れているのかどうか……。



仕事で何度か、家族や友人を震災で亡くされた方々にお話を伺ったことがある。

皆、そこのくだりになると言葉を詰まらせ、自分が生き残ってしまったこと、生きている間に何もしてあげられなかったことを悔いておられた。

「いつ、何が起きるかわからない。大切な人を失ってしまってから後悔しても遅い。だから、親にはできるときに親孝行をしておいたほうがいい。恋人には、素直に気持ちを伝えるようにしたほうがいい」

“遺された人”の言葉には、重みがあった。



アタシの“大切な人”――両親、弟、妹、親戚、友人……そして恋人。

失う日のことなんて想像したくない。
だけど、“いつ、何が起きるかわからない”のが現実。


実は、3カ月前の誕生日の日、“これとは別に悲しいことがあり” と書いていたとおり、悲しい出来事があった。
あらためて書くと言いつつ、まだ書けていなかったこの出来事、これが未だにアタシの心の壁をつつくのだ。

それは、朝、父からもらった誕生日のお祝いメールに書かれていたことだった。


父には、鹿児島に幼馴染がいる。
アタシたちも、九州へ行った際にはよくしてもらっていて、いつもニコニコとやさしいそのおじさんが大好きだった。

そこには2人の息子さんがいて、上の子は、アタシより5、6歳下だったように思う。
同じ誕生日で、アタシは勝手に親近感を持っていた。

しかし、話したことは一度もなかった。
というのも、その彼は、重度の障害を抱えていたのだ。

しゃべることはおろか、立つことも、自分で食べることすらできない彼。
生まれたときから寝たきり状態で、身体も大きくならず、3、4年後に生まれた弟のほうがどんどん大きくなっていく……。


そんな彼が、誕生日の1週間ほど前に、亡くなってしまったのだという。


元々、長くは生きられないだろうと言われていたので、その彼にしたら大往生だったのかもしれない。
だけど、二十歳そこそこでこの世を去ってしまう――しかも、アタシたちが何とも思わずにしていること、人と話すことや歩き回ること、食べる悦びも知らずに――それが不憫で、そして申し訳なくてしかたがなかった。

また、いつもニコニコとやさしいおじさんが、悲しみに顔を歪めているのを想像するのがつらかった。
そんなにも早く、わが子を失ってしまう親の悲しみ、きっと計り知れないものがあるはず……。


父からそのメールをもらってから、ずっと悲しくて、仕事の合間、トイレに立つたびに涙が出てきた。
夕会の場で、部内の人たちが書いてくれたお祝いのカードを受け取り、一言挨拶をするのだけれど、どうしても言葉に詰まってしまい、うまく話せなかった。


生きられること、当たり前のように歳を重ねられること……これってすごく幸せで贅沢なことなんだと痛感した誕生日だった。


それから月日が過ぎ、先月は弟の誕生日、今月早々に、母が誕生日を迎えた。
そして、まもなく妹の誕生日。

誰かの誕生日を祝うたびに、誕生日を待たずして亡くなったその彼のことを思い出して切なくなる。


大切な人たちが元気でいること、これを当たり前に思わないように、日々感謝の気持ちをもっていたい、そう思う。

また、震災で大切な人を亡くされた方たちが言われるとおり、できるときに親孝行をしたり、恋人に素直に気持ちを伝えたり、これをもっと心がけたい。
自分が後悔しないためにも。



最近、もう何度も書いているけれど、恋人のアタシに対する接し方が変化した。

先月だけで、彼がウチに来たのが8回。
アタシが彼の仕事場に行ったのが6回かな。
合計14回も会っている。

彼曰く、

「もう週の半分ぐらい一緒に住んでるみたいなもんやしな~」

とのこと。

昔は、年間で8回ぐらいしか会えなかったというのに、今でもプチ遠恋であることに変わりはないのに、頑張ればこれだけ会えるらしい。


「正直、栞を失うのが怖い……。栞を失いたくない……」
「これからも、ずっと一緒にいてほしい」

そう言ってくれたあの日

「俺は1日でも多く会いたくて来てしまうんやけど、もし、お前頻繁に会いすぎやろ、って思ったら言ってな」

次に会ったとき、彼はそう言った。

アタシだって、1日でも多く会いたい。
なのに、アタシがとっさに返した言葉は、「大丈夫よ」
なんとも可愛げのない一言だった。


明日がどうなるかわからない。
だから、大切な人に伝えたいことは、伝えたいときに素直に言う。

アタシが尊敬する松下幸之助は、人を褒めるときも、自分がうれしいときも、常に素直に表現されたという。

阪神大震災から15年経った今日この日、あらためて心に刻もうと思う。



さっそく今夜、恋人に会いに行くのだけれど、実は、前々から話したいことがあり、でもなかなかタイミングがつかめず、3回ほど逃している。
今日こそ、ちゃんと話そう。





なになに? 東京ディズニーシーでバレンタイン・ナイト!?
そういえば今の恋人とは、8年付き合って、テーマパーク1つ行ったことがないなぁ。
旅行も、今月末に行くのが 2回目だし。
でも、正直、会えるだけで幸せだから、いいのです。
2月14日は日曜日。
彼は相変わらず仕事だと思うけど、会えるといいなぁ。


あ、そういえば、東京ディズニーシーの「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー」の並んで待つところには、インディ博士の机上に置かれた新聞に、松下幸之助の顔が載っているんですって。
このアトラクションのスポンサーがパナソニックだからということですが、なんか粋ですねぇ!
新聞の日付は、東京ディズニーシーがオープンした2001年9月4日になっているんだそう。

シーには3回ほど(妹と1回、友達と2回だったかな)行ったことがあるのですが、このアトラクションはいつも混んでいて、まだ一度も行ったことがないんですよね~。
また行けることがあったら見てみよっと。


東京ディズニーシー バレンタイン・ナイト2010
バレンタイン・ナイト2010 あなたなら、誰と楽しむ?
バレンタイン・ナイト2010
あなたなら、誰と楽しむ?
バレンタイン・ナイト2010