指輪 ~アクアマリン~
そんな指輪を貰ったことは記憶の海の底に沈んでいた。
今日、部屋の隅で見つけるまでは。
色が変色した包装紙に小さく包まれたそれを開けてみると、中からリングケースが出てきた。
私は酷く狼狽した。
無理やり忘れようと自分で葬り去った記憶が、パンドラの匣を開けたかのように飛び散ってきた。
結婚を控えた私は、週末の1日は式場での打ち合わせ、残り1日は実家の自分の部屋の整理に明け暮れていた。
チェストと壁の隙間に落ちていたそれに気づいて、何とか手元まで引き寄せたのだった。
変色していた包装紙には見覚えがあった。
それはジュエリーショップのもので、もともとの色は水色でショップのマークが小さく印刷されているものだった。
手元にあるものは、もう茶色がかって十分な年月が経っていることを物語っていた。
リングケースも水色だ。
石は今月の誕生石のアクアマリン。
それは私の誕生石でもある。
ケースを開けるかどうかしばらく躊躇った。
記憶の中では透き通ったアクアブルーのシンプルな指輪だった。
えい!と意を決してケースを開けた。
開けて私はがっかりした。
土台は黒ずんで変色して、私の記憶のものとは全く違っていたからだ。
「これってシルバーだったのか」
プレゼントされた時には気づいていなかったことに、今更気づいて苦笑した。
この指輪は、私が以前付き合っていた彼からのプレゼントだった。
デートの時にはよく着けて出かけていた。
穏やかで幸せな交際だったけれど、結婚には至らなかった。
私は、どうしても彼が欲しくて自分から結婚を迫った。
思い返すと頬が火照ってくる記憶だが、懐かしさと言うには、まだ噛み砕いて消化しきれていない気持ちが残っているのに気づいていた。
「なんで、こんな時に出てきたのよ?」
結婚式は来月に控えている。
今の彼も穏やかな性格で、私のことも優しく受け入れてくれる。
申し分ない人だと思っている。
けれど、何かが足りない気持ちもしているのは確かである。
こんな気持ちになるのをマリッジ・ブルーと言うのかもしれない。
そこに、このアクアマリンの指輪がひょっこり現れたのだ。
私は酷く狼狽した。
指輪を見つけたその日から、結婚する彼よりも、アクアマリンの指輪をくれた昔の彼のことの方が頭の中を支配する割合が多くなってきた。
式場の打ち合わせの時も「最近、ぼんやりしているよね?疲れているの?」と優しい彼は声をかけてくれたけれど、本当の所を私はとても言えなかった。
私は夜PCの前でシルバーの台座を専用の布で磨いて綺麗になった指輪を眺めながら、また躊躇っていた。
今まで幾度か昔恋焦がれた恋人の名前を検索した。
携帯番号は別れるとすぐに削除してしまったし、地方から出て来て一人暮らしだった為、もうあの場所にも住んでいないだろう。
三重県の実家に一度だけ連れて行ってもらったけれど、朧げにしか覚えていない。
帰省していた度にかけていた電話番号も同じように消してしまって、もう覚えていない。
嫌なことがあるたびに、もしかしてヒットするかも、と言う淡い期待を込めて検索にかけた。
けれど、見つけられなかった。
―――このタイミングで昔の男の名前を検索するなんて?
婚約者に対して後ろめたい気持ちが膨張していく。
なのに、指輪を見つけてしまってからは気持ちは止められない。
―――目の前にいない相手なのに?
馬鹿馬鹿しくなったり、それでも、と思い直したり、そんな思考の繰り返しでPCの前に固まったように座って時間だけが過ぎていった。
数分躊躇って、結局検索した。
検索の文字をクリックすると一番上に三重県の電話帳らしきものが上がって来ていた。
そこをクリックしてみる。
町名まで見ると記憶が蘇ってきた。
「これって、もしかして」
スクロールして名前を探した。
―――あった。
と、言うことは世帯主が変わったということ?
様々な憶測が妄想になって渦を巻き始めた。
名前の横には電話番号が記されている。
何度もかけたことはなかったが、帰省したいて時にはかけていたので、なんとなく覚えのある市外局番だった。
そのまま何のブレーキもなしに掛けてしまいそうな自分に気づいてハッとして我に帰った。
何してるんだろ。
丁度その時横に置いていたスマホが振動した。
彼からだった。
「もしもし、元気かな、と思って」
今日の打ち合わせの調子を心配してくれての電話だった。
「ありがとう」
「来月結婚式だけれど、大丈夫か?式の前に疲れちゃったら駄目だぞ」
「うん」
私はおかしい。
彼の電話で、そう自覚した。
けれど、気持ちはもうどうにも収まりようがなくなっていた。
もう5年も前のことで、もしかしたら彼もこの5年の間に結婚しているのかもしれないのだし、そうだとしたら迷惑な話ではないだろうか。
そう、私のほうがおかしい。
そんな押し問答が幾度か繰り返されは後に、ついにその日私はネットで検索して見つけた電話番号をプッシュしていた。
コール1回、2回、数えながら鼓動が高鳴っていくのが自分で分かった。
コール6回目で繋がった。
身体全体に電気が走ったような感覚がした。
「もしもし」
聞き覚えのある男の声がした。
私は懐かしさと同じくらいに酷く動揺した。
無言の私に生存確認をとるかのように男はもう一度言った。
「もしもし」
イタズラかな?と小さい声で言うのが聞こえた。
違うから。私だから。覚えてる?
「あのっ!私…ですけど。覚えてますか?」
「えっ?…もしかして」
久しぶりに私の名前を呼ぶ声を聞いた。
「久しぶりだね。この番号、消してなかったんだ」
素直に驚いた、と言うような声だった。
まさか検索してかけました、とは言えなかった。
「元気してた?」
「うん」
暫くお互いの5年間に起こった出来事を話し合った。
私とまだ付き合っていた頃、彼の父は突然の病に襲われ病床に倒れていたということ。
そんな時、私から結婚を申し込まれ、とてもそんな状態ではなかったという事。
別れたのと同時くらいに実家に戻り家族を支えたということ。
そして去年父が亡くなった事…。
あの時私には伝えなかった様々な事情が年月を過ぎて明らかになった。
包み隠さず伝えてくれる彼とは対照的に、私は来月の結婚の話は話せないでいた。
「びっくりしたよ。俺、明日からイギリス行くんだよ」
「旅行?」
「いや、留学。はっ。この歳で留学。あーマジでびっくりした!」
もともとガーデンプランナーの仕事をしていた事が頭に浮かんで、イギリスの意味が分かった。
「じゃ、しばらく日本にいないんだ」
「そうだね…もう一日早く電話してくれてたら…」
会えたのだろうか?
彼は語尾を濁して沈黙した。
「会いたいなぁ…」
私は振り絞るような小さい声で、たまらずに言ってしまっていた。
彼は暫くの沈黙の後にこう言った。
「便は、明日の…夜遅くなんだ」
あの日の夜、私は人生で一番大きな賭けに出た。
自分の欲求と、その時の勘だけを頼りに、他人の迷惑も顧みずに三重県まで昔の彼に会いに行った。
その後が大変だった。優しい婚約者を私は傷つけたし、両親にも馬鹿だと何度も言われた。
会った時に彼には本当の事を打ち明けた。
驚いていたけれど、泣きながら話す私を抱きしめてくれた。
その結果、今私は一番好きな人の隣にいる事が出来ている。
結婚指輪の裏側には小粒のアクアマリンが埋め込まれていて、その裏側にそっと存在して、この結婚を見守ってくれているそのアクアブルーの石を時々夫には内緒で眺めている。