指輪 ~母の指輪~
父は母の8年前に亡くなった。その頃は、まだ実家の整理のことなど、あまり頭にはなかった。
今年、母が亡くなって、兄弟もいない私は一人になってしまった。
遅くから出来た子供だったので二人目は望めなかったのだろう。
現実問題この田舎の大きな木造作りの家を私が守っていくには荷が重すぎて、遺産整理の業者を入れてから手放すことにしようと考えている。
母は2年前からホームに入っていた。
大学の頃から田舎の実家から遠くに住み、そのまま就職をした為に、月に2度か3度会いに行ければ多い方だった。
細々な世話はホームでほとんどして頂けていたので助かっていた。
思えば、私には好きに生きさせてくれた親だ思う。
この歳でも結婚もせず、親元を離れて好きな仕事をし、好きなようにいさせてくれた。
それほど、口やかましくも、口出しもせずに、好きなことを思うようにやればいい、と会えばいつも静かににこやかに佇んでいた。
ここ数ヶ月は認知症が酷くなり、会話もちぐはぐになっていた事が、会うたびに切なくさせた。
それでも昔から同じ話もよく聞かされた。
「お前には、スターサファイアの指輪を私の形見にあげるから。お父さんに一つだけおねだりして買ってもらったのよ。ふふふ」
その話は、私が物心着いた頃からよく聞かされていた話で、いつも父がいない時に話してくれた。
決まって、話の終わりには昔を懐かしむように微笑んでいた。
そんな母の姿は可愛らしく私の目には映った。
特に認知症が進んでからは、毎回初めて聞くように聞き入っていると今までよりも嬉しそうに話してくれていたような気がする。
サファイア自体高価な宝石で、星のような模様が入っているものをスターサファイアといい、普通のサファイアよりも更に高価なものなのだそうだ。
私はたいして宝石など、自分をよく見せるものには興味がったこともあるのか、母が身に着けている姿も見たことがなかったという事もあるが、私から見せて欲しいとお願いしたこともなかった。
見たこともない指輪の話だったが、確実にそれは母の大事な部分に仕舞われていて、確かに存在するものなのだと、そう幼心には言葉にできなかったが、直感でそう感じていた。
今日は雨が降っている。
久しぶりに実家の家に足を踏み入れた。
玄関から入ってすぐ右には洋間。
玄関から階段までの廊下。
突き当たりにはバスルーム。
バスルームに行く前には右側にキッチンがある。
左側には短い廊下があり、その突き当たりの北側の和室は、母と父が寝起きしていた部屋である。
その横には8畳の二間続きの仏間。
二階には2部屋と物置。
順番にゆっくりと部屋を回った。
家族3人で暮らすには大きな家だった。
暫くすると、遺産整理の業者がやってきた。
神妙な表情でお悔やみを言われ、作業の手順を説明された。
インターネットで申し込んだ時のアンケートに沿っての説明だと分かった。
いらないものはどうするのか、残しておいて欲しいものはどうするのか、リサイクルは、などの確認だった。
立会いのもとで行われるため、この広さの一軒家は数日を要するとのことだった。
まずはそれほど大事なものがなさそうなキッチンやバスルームから行った。
確かに残しておきたいものはほとんどなく、みるみるうちに部屋は片付いてガランとしていった。
そして居間や洋間、2階の部屋は自分のものが置いてあるので省いてもらった。
2階は物置に時間がかかった。
懐かしいものがたくさん出てきた。
あまりにもいろいろなものが出てきすぎて、即答で要るのか要らないのか答えに詰まってきた。
1日の契約上限時間が丁度来たので、今日はここまでという事になった。
まだ雨が降っていた。
傘をさして駅まで向かう。
ここに居た時は、駅までの道のりに知った人に一人や二人は出会っていたものだが、今はもう知った顔に出会うことはない。
それだけ、みな歳を重ねたということなのだろう。
年配者は他界され、同性の同年代はお嫁に行き、そういうことなのだろう。
私も、あの家が見知らぬ誰かの手に売却されたら、もうここには戻れないのだ。
携帯が鳴った。
何となくずるずると一緒に住んで、この先結婚する約束もしていない彼からだった。
「大丈夫か?」
いきなりその一言が脳天にガツンと響いてきた感じだった。
「ついて行くって言ったのに」
私はここのところの忙しさの緊張が解けたように、その場でボロボロと大粒の涙を流しながら誰もいない無人駅で泣きじゃくった。
大丈夫か、大丈夫か、とオロオロしながら心配する声がずっと携帯向こうから聞こえてきていた。
翌週の週末、また私は実家に向かっていた。
今度は先週の失態を心配した彼が「絶対ついていくから」、と一緒に来てくれた。
そう言えば、彼は一度も私の実家に来たことがなかった。
もう7年も一緒にいるのに、結婚の「け」の字も出ない。
この7年の間に子供ができると言うハプニングもなかったし、お互いにそこそこ自立していて、仕事も忙しかったし、依存しすぎないさっぱりとした性格であると言う事もあるのかとも思う。
「うわぁー…でっかい一軒家だなあぁぁ…」
そりゃ、今住んでいる75㎡の2LDKに比べたら240坪に二階建ての純和風の一軒家に、車庫もついて、家庭菜園用の畑も敷地内にあるのだから。
玄関を開けようと鍵を鍵穴に入れて回していると遺品整理業者の人がやってきた。
深めに会釈をすると今日の整理の手順をまた丁寧に説明された。
「へえ、やっぱりプロは凄いな」
てきぱきと動く業者の人達を見ながら彼が呟いた。
彼についてきてもらって良かったかもしれない。
思ったことをよく口にしてしまう彼の言葉を聞くと、悲しみに沈んでいかない気がした。
先週とは私の思考もクリアになって、判断もよくできるようになっているきがした。
彼も変に口を挟んだりもせず、少し離れた場所で見守る感じでいてくれた。
そして、寝室に取り掛かった。
アクセサリーがドレッサーの引き出しからいくつも出てきた。
安そうなものが多く、デザインもレトロで、錆びた部分も見られたり、とで処分の箱に入れてもらった。
ふと、これらは若い時に父からのプレゼントだったのだろうか、などと思った。
「あ、これは絶対に残しておいてくださいね」
業者の一人がジュエリーケースを私に渡した。
開けてみると濃いロイヤルブルーに星型の模様が入った指輪だった。
「あっ!」
これが母の言っていたスターサファイアの指輪だと気づいた。
「この指輪は高価なものですよ。中にメモが入っていましたよ」
業者の人にそう言われるまで気付かなかった。
指輪を外してみると隙間から紙が入っていることが分かった。
埋め込まれている土台の部分を外してみると4つ折りにされたメモのような紙が出てきた。
広げてみると、そこには私の誕生日と名前が記されていた。
取り出したリングの内側を覗いてみる。
そこには、やはり私の誕生日と名前が刻まれていた。
きっとこの指輪は母が結婚した時にではなく、私が生まれた時に父に買ってもらったのだろう。
母の誕生月は3月で誕生石ではなかったもの。
実家の整理は随分進んだが、まだ全部済まなかった。
その日の帰り道は傘はいらなかった。
彼がぽつりと呟いた。
「あの家、本当に売っちゃうのか?」
「維持していくのも大変じゃない。相続税とかも馬鹿にならないし。仕事は向こうだし、ここに戻ってくるのは考えにくいでしょ」
「まあ…そうだけど。でも、本当は残しておきたいんじゃないのか?」
そう聞かれてすぐに答えられない自分がいた。
「ほら、すぐ答えれないじゃないか。いいご両親だったんだろうな。俺、なんで会いに来なかったんだろうな」
「そうね」
「後悔しないように、もう少し考えてみようよ。二人でさ」
そう言うと彼は私の手を掴んでぎゅっと握った。
私達はそのままぎゅっと握ったまま駅まで歩いて行った。