父 | みろのブログ

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ピグってるユノペンです

令和を迎えぬままこの3月に父が他界致しました
最期はオプジーボの副作用による間質性肺炎でした

2年程前、胃カメラ後に声がほとんど出なくなり
検査を繰り返すも原因は判明せず、半年後に突然
骨とリンパへの転移ありの肺がん診断

転移有りの為、手術は出来ず放射線と抗がん剤による40日の入院
闘病中ではありましたが比較的元気に1年以上経ち、寛解するのでは...という期待も虚しく、脳への転移があり放射線治療

オプジーボ1回目も無事済み
2回目の投与の為、病院に行きそのまま入院
9日間の入院の末、帰らぬ人となりました
母の兄も父の死から3日後に
奇しくも同じオプジーボ2回目を待たずに急変し他界致しました

若い頃からギャンブラーではありながら
穏やかで優しくて、争いごとが嫌いで誰とでもうまくやれる父でした
仕事を退職してからは祖父母のお世話に通う母の送迎をしながら
二種免許を活かして

まさかのギャンブラーのボランティア活動

幼い頃から苦労人で
「自分が我慢して済むならそれでいい」が口癖の我慢強い人でした

3度入院した病院でも
治療の辛さや痛さから看護師さんに八つ当たりする人も多く目の当たりにし
「若い子が頑張って働いてるのに可哀想や」といつも言い
自分は我慢する一方で、
看護師さんを気遣い、笑わせようとしていました

3度目の入院のとき
私たちは現実を受け止めていませんでしたが
看護師さん達はもう父が助からないのはわかっていたのだと思います
自分が休みに入る前に顔を見にきてくれて
「明後日には来るのでがんばってよ!」と泣いている看護師さんもいました
きっと上の人には「笑顔でいなさい」と怒られたかと思います

肺機能が落ちて酸素マスクをつけていても数値が下がる一方で
医師や看護師さんからも
「普通の人には耐えられないレベルですが、呼吸が苦しい事に慣れておられるので...」と
言われていましたが、本人は苦しい時には何も言わずに耐えて、
少し落ち着いてくると
「楽になった」という人でした
「苦しいとか痛いとか、言われないのはわかっているので、こちらが気をつけています」と看護師さんに言っていただいて
どれほどありがたく心強かったかわかりません

目を開けているのが辛くなってきても
たまに目を開けると
たまたま来ていた看護師さんが
発熱の為、暑いだろうと少し扇いでくれているのを見ると
いつも言っていた「忙しい看護師さんの手を取らせたらあかん」精神で
看護師さんの次に私を見て、かすかに私を指差しました
私がしろという事です

重苦しい中にも笑いがおきました

最後まで気遣いの人でした

半年経っても
もう父と会えないという事をまだまだ信じる事はできませんし
両親とは離れて暮らしている為
実家に戻るとまた駅まで迎えに来てくれるような気がしてなりません

父のいない現実を受け入れる事もできず
母も4年前に大腸がん手術

1年後に転移した肝臓がん手術
そして今、肺の方でも治療中で
この半年は立ち直る事が出来ず暗い日々を送っていましたが
最近、このままではダメだと、

やっと、少しずつではありますが思えるようになりました
すぐには「私が楽しんだり笑顔でいる事が父の供養」なんて心境にはなれませんが
今はこの上、自分が心身共に病まないようにがんばっています