暑くてコロナが飛び交う中での、信心活動、誠にお疲れ様でございます。 
熱中症にお気を付け下さい。 


今から19年前の平成13年7月14~15日 
友人の牧野ちゃんを折伏して夏期講習会へ連れて行った。 

折伏して登山へ連れて行くなら夏期講習会だと決めて祈っていた、なぜなら猊下様の御講義があるから私ばかり聞くのは勿体ない多くの人々に聞かせてあげたかったからだ。 
その願いが叶い、いよいよ牧野ちゃんを連れての登山 


宿坊が広布坊で  

(⊙_⊙)え?広布坊って宿泊できるの?(泊まるというより講習受ける場所だし)  

いつもなら総一坊もしくは総二坊、あるいは塔中の坊に宿泊するのですが

でも泊まれましたよ(^^) 

真ん中から立て札みたいな物を置いて男の部屋と女の部屋とわけて使用させて頂きました。

その頃の夏期講習会は全部で10期まであって初めて参加者は初級コース2回目からは一般コースと2コースあって全国布教師様は合計で六名おりました。
私達が参加したのは9期です。 

夜の勤行を終えると 

どなただったかな? 
違ってたら申し訳ないですが確か保高様という御尊師様だったと思います  
とてもハンサムで奥方様はアイドル歌手みたいに可愛くて美男美女の御夫婦でした。 

保高御尊師様は夜の勤行を終えられると私達に挨拶を述べて次のような素晴らしいお話を聞かせて下さいました。 
その当時に使用してたメモ帳を参考にして書きました。ボロボロに切れっ端になってるのでお見苦しいから画像は載せません(📒⊂(-_-;)まだあったんだね掃除したら出てきた…ちなみに朝の勤行は御影堂へ15日の開山御講へ参加しようと牧野ちゃんと出掛けてたので聞いておりません)

うお座
あるところに金魚売りのおじさんがおりました。この おじさんは周囲から「おっさん もっと題目を唱えるべきだよ」と注意されていました。 

ですが、

「うるせぇな!たった一遍の題目でも成仏できるんだよ!」

と言っては唱題に励もうとはしませんでした。 
唱題をしてないわけですから当然 折伏もできてません。 

ある日 おじさんは体調を崩し、起き上がれなくなり、いよいよ臨終を迎える事となりました 

ところが 死の直前はあまりにも苦しいのです 

とうとう おじさんは一遍の題目を唱える事が出来ずに臨終を迎えてしまったのであります。 

皆様は この おじさんが成仏されたと思いますか? 

普段からの題目の積み重ねをしていない、唱えるという修行に励む事をしていない者が、いざ臨終となった時に題目が口から出るはずがないのです。

〝慢心〟の心を戒め、本日お越しくださった皆様には来年に迫りました平成14年 30万総登山に向け、益々の信心強情にして更なる御精進をされ悔いのないように励まれますように、皆様のご健勝を心から御祈念申し上げます。〈題目三唱〉 
うお座

真剣にしっかりと強くマイクを掴んで私達を見る保高御尊師様の目は鋭い刃のようだった…それがまた一段と美しく鮮やかでした… 


確かに題目は数じゃなく気持ちで唱えさせて戴ければ何分だっていいというのは聞いた事ある。 何時間 唱えたかではなく、どれほど境地冥合して唱えたかが重要であって、ちゃんと境地冥合して唱えれば1分でもいいんだよって聞いた事ある 
でも、それって唱えたくてもなかなか時間が無くて出来ない方への慰めの言葉として捉えて、実際問題 やはり長時間の唱題をしなければだと思うのです。 

それに、境地冥合って… 
そんな簡単に出来ない… 


末法時代に産まれ、貪り,怒り,愚か,の貪瞋癡の三毒と前世からの罪障、因縁を背負っている私達が
たった一遍とか、境地冥合して1分とかって…
それで何とかしようとしたってどうしようも出来ないと思う… 


日顯上人様は「妙法七字拝仰」下巻120ページに
「御本尊様を拝してお題目を唱えていても、雑念が浮かんでくるからだめだ」という人がいるかもしれませんが、それはそれでいいのです。
皆、それぞれの頭には、過去からの因縁によるところの癖がついています。
これは、我々の意識の奥に七識(末那識)という自分自身では察知できない我心があり、さらにその奥に八識(阿頼耶識)が存し、そこには元々、八識に存する迷いの種子と、後天的に経験上、六識・七識から逆に八識へ作り上げられた種々の種子が存するところに迷妄の根本があり、そこから時に応じてそれらが出てくるのであります。
ですから、種々雑多な過去の記憶、また深刻な悪念、妄念、雑念が浮かぶことがあるのです。
この八識の元には総在一念が具わり、その迷いの八識の奥に悟りであるところの九識が存することを、大聖人様も御書のなかにお示しであります。
したがって、凡夫の頭による単なる思いつきよりも、お題目を根本とすることが大事であり、その信心は、そのまま九識に到達するのであります。

たとえ雑念が悶々として浮かんできても嫌になってやめちゃうのではなくて、それでも更に続けていくことが修行であり、いつかは真剣にしっかりと唱えられるようになっていくのだそうです。  
 
拝むという事は疲れるけどね(気持ちよくわかります( ´△` ;))  

忍耐力も必要になってきますが全部 世のため人のために繋がっていくからこそ題目唱えるって大切な修行なのですよね  


さて、またひと踏ん張りして唱えましょうか 

今年は梅雨明けが遅かったので九月になっても8月の気候だと思うので、まだまだ暑いです。
皆さんも無茶のないようにお過ごし下さい 


今年も あと残すところ四ヶ月です。 
悔いのないように御奉公させて頂きましょうね


では 
 風鈴うお座