光野桃の、『あなたは欠けた月ではない』を、パラパラ捲っていたら、
『水瓶座だろうか。私は社会性がひどく強い』という、一文が飛び込んできた。
彼女は水瓶座だった。
彼女もまた、若い頃に自分の身の振り方について、悩んでいたのだと知った。
私は、子どもが欲しいという願望はあまりなかった。
結婚も、両親を見てきているし、結婚に夢を抱くことも、他の人たちよりも薄かったかもしれない。
けれど、周りの人たちの人生に幻滅していたにも拘らず、母親に理想を追い求めていた自分がいたはず。
著者も、こう言っている。
――――――――――――――――――――――
けれど、どこかなにか違うのではないか、と不安になる。
なぜなら結婚や出産が、人生で勝ち取るべきものの一環として考えられているように感じるからだ。
――――――――――――――――――――――
そして、子どもの頃から変わり者と言われ、夢や憧れが強い分、他者を観察する力も強く、
その結果、他者と自分を引き比べてしまい、そして落ち込むパターン. . .
私か思た。一緒やん。
水瓶座は、人とのつながりに喜びを感じる。
水瓶座に限らず、人は心の底ではつながりを求めている。
しかし、この『つながり』について、また考えさせられている。
私たち人類は、言葉を用いて意思疎通を図るが、互いに観る世界は違う。
言葉一つ取っても、一人一人解釈が異なる。
言葉に頼り過ぎて、目に見える表面的なモノに目移りし、感情に支配されやすい。
インドでは、伝承叙事詩「ラーマーヤナ」のように口伝えで語り継ぐ習慣がある。
――――――――――――――――――――――ひとたび文字化されれば、今度はその一つひとつの文字や言葉をめぐって色んな解釈が生まれてくる。
そこから学派のようなもの、宗派のようなものができあがり、やがて伝導がはじまる。
キリスト教では、イエスの十字架上の死は、彼は人類を救うために「犠牲」になった、と解釈されている。
――――――――――――――――――――――
と、述べている。
霊的エネルギーの研究をされていたデヴィッド・R・ホーキンズ博士の『真実と主観性』からも、その問いについて探ってみた。
――――――――――――――――――――――
求道者は、解釈を添えようとする虚栄心や、世界を救わなければという義務感さえもあきらめなければならない。
私たち一人一人の内なる霊的な成長こそが、いかなる形の行為よりも、社会に偉大な価値をもたらす。
あなたの到達した慈愛が放射され、静かに人類の叡智に貢献するのである。
平和な心には、思考も意見もない。
人生に起こってくるコンテントに対し、いかなるコメントも批判も価値判断も持たずに、ただ眺めることである。
観察者/目撃者は、人生に対してコメントしたい欲求がなくなり、それによって解釈、好き/嫌い、魅了/嫌悪、反論、異議などを超越することができる。
観察者/目撃者はすでに通常の自我の拘束から一歩脱出した段階である。
コメントせずにただ観察することによって、心は静かになり、人生で起こってくる出来事すべてに "わたし" を投影する自我の習慣を段階的に捨て去ることができる。
――――――――――――――――――――――
一見、無関心のようにも思える。
つまりは、釈迦やイエスが自ら何も書き残さなかったのは、
最終的に
「自己を捨てる」
ということを成し遂げるだめだったってことか。
覚醒を目指す求道者たちは、自己を捨てることが最終目的。
私たちは、365日、思考を止める、休ませることをせず、精神の遊びをしている。
瞑想をしていても、意図から外れて頭のおしゃべりが始まる。
自分の人生に没頭できていない。
(これを書いてるうちは、科学ヲタクの彼と同じように、寝食忘れてかなり没頭してるけれど。)
おしゃべりをする代わりに、人生に没頭する必要がある。
太陽星座である、水瓶座の博愛精神と、月星座である牡羊座の熱狂性。
このエネルギーを、どこに向けるか。
段階を踏まねばならない。
シェアを勧める発信者もいるが、SNSにコメントをすることで、自身の気づきにもなり、他者の学びにもなると、私も考えている。
私自身はそこのバランスを取る必要があるように思う。
経典や聖書は、釈迦やイエスたちの弟子が、聖者の言葉を書き残したモノであるにしても、
覚醒した聖者の存在に触れるということは、「臨在」のエネルギーフィールドのパワーを受け取ることになる。
クラシック音楽は、愛のレベルにあるので、幼いうちにピアノを習っている子どもは、目に見えない恩恵を受け取っている。
妹は、ピアノを習っていたので、沢山恩恵を受けてるな。
愛を循環する使命があるだけに、自分が何を受け取るかを解っていたんだと思う。
師のクラウンチャクラから放たれる「臨在」は、光輪や後光として芸術の中に、多く描かれてる。
私は宗教絵画も好き♥️
高校の修学旅行で、絵画展に行ったけど、私一人だけはしゃいでた。
グループの子は、全く興味なし。
この光輪のエネルギーについては、常に1000近くに測定されていて、科学的に立証されている。
なので、
巷に溢れる偽スピリチュアルの中には、真理が散りばめられているモノもあるけれど、
そこに慰めを求め、一時的に救われるように思えたとしても、そこに本当の救いはない。
小学6年生のとき、道徳の授業で、マザー・テレサのドキュメンタリーを観て、感想文の提出を求められましたが、遊びもそっちのけで、何時間も戦争と平和について考えてました。
子どものうちに聖者の言葉に触れるということは、幸いですね。